癌などの健康被害を極力防ぐため、年間の被ばく線量は国が法律で定めています。放射線技師など職業で放射線を扱う人は年間50ミリシーベルト以下。5年間の通算で100ミリシーベルト以下。一般人は年間1ミリシーベルト以下です。
大内さんの被爆治療の記録
水戸市立病院から千葉県の放射線医学総合研究所へ、そして東大病院へと転送されました。当初はウラン中毒を疑って治療されましたが、検査の結果ナトリウム24が検出され『臨界による急性被爆』だと分かりました。運び込まれた時点では臨界事故であるという情報は放医研に伝わっておらず、誰も臨界による急性被爆を疑っていなかったそうです。
当初は意識もハッキリしていて会話も出来ましたが、彼を次々と襲ったのは血液の液体成分が血管の外に出てしまう、体が浮腫む、肺に水がたまる、酸素の取り込みが悪くなる、4日目ごろには昼夜逆転し不穏状態に。という悲惨なものでした。呼吸管理が必要になり薬で意識をなくし83日目に永眠されました。
東海村臨界事故における被爆者②篠原さん
同じ作業をしていたもう一人の作業員、被曝量がいくらか少なかったのですが、その分ゆっくりと破壊が進み211日という長期に渡って苦しみ続ける事になりました。事故発生から亡くなるまでの軌跡を追ってみました。
被爆した際の状況と被曝量
推定6〜10シーベルトの被爆であったと思われます。作業していた2人はウラン溶液に近すぎて、何が起きたのか分からなかったかも知れません。工場内で被爆した3人のうち唯一生存している男性は作業場と壁一枚隔てた事務室にいました。ドアの向こうが青く光ったのを見て、「臨界だ!すぐ外に出ろ!」と声をかけたのです。
篠原さんの被爆治療の記録
入院当初は普通に会話も出来ました。臍帯血移植などにより一時は回復の兆しを見せていたようですが、結局は放射線の力に勝つことは出来ず211日目に亡くなりました。皮膚の破壊などがゆっくりと進行し、胸や腹、手足の皮膚は鎧のように固くなり、新しい皮膚を作る幹細胞も壊れ最後は筆舌に尽くしがたい様子だったと前川医師は語っています。
東海村臨界事故の生存者の現在とは?
その人は事故から6年後、毎日新聞の取材に答えていました。その瞬間、「パシッ!」という音を聞き「青い火」を見ていました。臨界が起きると青い光と共に音が聞こえることは知っていたので、臨界が起きたのだと悟ったそうです。自分たちは無知だったと語っています。
唯一の生存者がいた!
彼が仕事をしていた事務室と、亡くなった2人が作業していた作業場を行き来するドアは開いていました。男性は推定1〜4.5シーベルトの被爆でした。他の二人に比べて少ないとはいえ危険な被曝量には違いありません。
一時は白血球がゼロになり非常に危険な状態だったそうですが、幸い回復し3ヶ月後に退院することが出来ました。入院中に一緒に入院した他の2人は亡くなり、一人ぼっちになってしまった、相槌を打ってくれる人が居なくなった、臨界体験者が自分だけになってしまった孤独感が大きかったと後に語っています。
横川豊さんの現在の生活とは?
退院後数ヶ月で職場復帰した後、既に定年退職し現在は70歳を過ぎ関東で暮らしているようです。以前は取材に答えていましたが、最近は断っているそうです。2人の作業員とはスペシャルクルーと呼ばれ、その副長として燃料用ウラン溶液の製造に関わっていました。過去の取材では、2ヶ月に一度は無くなった2人の墓前に参っていると語っており、きっと今も続けているのでしょう。