東海村臨界事故とは?事故原因と被爆者のその後について解説!

現場のある村は「さつまいも」の産地であり周辺地域も農業地帯ですが、事故の後は米や野菜、魚や肉に限らず商工業、観光などあらゆる産業で長期に渡って風評被害が続きました。人が2人も死ぬほどの事故だったのだから、影響が無いはずはない、なるべく近寄らない方が良いに違いないという心理が人々の間に働き長い期間それが続いたのです。

体調悪化で職を失った人もいる

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現場から僅か120メートルの場所で自動車部品工場を営む夫妻は、被爆検査を受け「大丈夫です」と言われて帰宅しました。しかし、妻はその日の深夜から激しい下痢などに見舞われ仕事に行けなくなりました。事故のニュースを見たりすると動悸がしたりパニックになったりするPTSDにもなりました。夫は持病の皮膚病が悪化し入院、2001年に工場を閉めました。

他にも体調を崩した人が10名おり、一時は団結してJCOに対して損害賠償を求めました。様々な理由で次第に決裂し、最終的には工場を閉鎖した夫妻だけが訴え続けました。夫妻は2002年に水戸地裁に提訴しましたが10年、最高裁が訴えを退け敗訴。JCOは体調不良と事故との因果関係を否定したまま夫妻は既に他界。現在は夫妻の長男が事故を風化させまいと語り継いでいます。

心理的影響へのケアも必要

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事故当日、私は事故現場から80キロほど離れた所で仕事をしていました。職場のオーナーは「大変な事が起きようとしています。万が一の時は私は家族を連れて逃げますから皆さんも各自の判断で行動して下さい」と言われ、えらく緊張した記憶を今も思い出します。

原発は安全だと言われ続け、恐怖を感じること無くそこで生活していた近隣住民にとって事故はどれほどの恐怖を与えたでしょうか。簡単には平静に戻れないでしょう。PTSDなどは本人の心がけや工夫で何とかなるものでは無いので専門家のサポートが必要です。

東海村臨界事故からの教訓は得られたのか?

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2019年2月現在、日本国内で運用中の原子炉は37基、廃止・解体中が22基、現在計画中・建設中が青森県下北郡大間の1基と山口県熊毛郡の2基。停止中と運用中を合わせるとナント!59基もあるのです。悲惨な出来事から何を学んだのでしょうか。なぜこんなにも増え続けたのでしょうか。

当時は大事として捉えていなかった

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現場から500メートルしか離れていない場所に小学校や幼稚園があり、事故の2日後には再開されています。現場から一番近い学校と幼稚園だけでも休校にした方がという意見が出ても、「安全宣言が出ていますから」と再開されたそうです。

後に周辺に放射能が漏れていた事が暴露されるのですが、情報が無くても「万が一という事がある」という認識があれば違う選択をしたのではないでしょうか。事故後の村議会でも「原発のおかげで村が豊になっている」ことが評価されていて、事故後も意識の変化はそれほど無かったと当時の村議が話しています。

東海村臨界事故のその後

「小さな会社がいい加減な事をしたから事故が起きた」という総括をして、あくまでも原子力は安全だという考えを推し進め、人の力の及ばない天災に見舞われ福島第1原発の事故が起きました。その時に言われたのが「想定外」という言葉でした。想定内であろうと無かろうと覆水盆に返らず、今でも一部の地域は線量が高く家があっても住むことが出来ないでいます。

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