牛島辰熊は最強の柔道家
まずは牛島辰熊について簡単に紹介します。1904年3月10日に誕生。熊本県で精油業を営む家庭で育ちました。身長170cm、体重85kgで筋肉に恵まれた体格。大日本武徳会柔道教士であり、その強さから鬼の牛島、不敗の牛島と呼ばれていました。鬼と呼ばれた牛島の最強伝説を紹介していきます。
牛島辰熊最強伝説①
次から次へと攻め技を繰り出す荒々しい姿から対戦相手にまるで”猛虎”のようであると恐れられていた牛島辰熊には語り継がれるべき数々の伝説が存在します。”鬼の牛島”や”不敗の牛島”と呼ばれることとなる歴史的試合を振り返っていきましょう。
当時の日本一決定戦を連覇
まだ全国規模の大会がなかった1920年代当時、実質的な日本一決定戦とされていたのは明治神宮大会だった。その後1930年に東京にて全日本柔道選士権大会が開催されるようになる。明治神宮大会、昭和天覧試合に並ぶビッグタイトルとなり、選手にとって憧れの大会であった。
明治神宮大会を3連覇
この大会にて牛島辰熊は1925年から1927年にかけて青年団の部の個人戦にて3連覇を果たしています。当時の日本一を決める大会といえる明治神宮大会での偉業であり、まさに伝説の始まりです。
もちろん伝説と言われるているわけですからこれだけで終わることはなく、牛島辰熊が勝ち取った優勝記録はまだまだ続いていきます。この明治神宮大会で連覇を果たした数年後の1930年より東京にて全日本選士権が始まります。
全日本選士権連覇
全日本選士権第2回大会にあたる1931年、第3回大会にあたる1932年に壮年前期(20~29歳)の部で連覇を果たします。これにより実質日本一決定戦で5度の勝利を飾ることとなったのです。当時の柔道界では最強と謳われるのに相応しい結果である。
牛島辰熊最強伝説②
牛島辰熊が残した最強伝説はもちろん試合結果だけではありません。常人では真似できないような筋肉トレーニングや体の内側から強さを得ようとする勝利へのこだわりと執着ともいえるほど精神力と努力は最強伝説として語られるべきものである。
試合ではなく死合の古流柔術
兄の影響で始めた古流柔術である肥後柔術は試合相手が「参った」と降参するまで勝負は終わることはありません。腰に木製の短刀を指し、勝負後半には相手の首を切りつける動作をすることで一本を取るということもあった。古流柔術は殺人武術という位置づけとされていたのです。
今では考えられないような技法ですが、柔道のルールは時代と共に変わっていったことがよくわかります。近年でもオリンピックなどの大きな試合があるたびに頻繁にルール改訂されているので観戦の際には事前にルールを確認しておくとより楽しめるでしょう。
牛島辰熊の得意技
一番に得意としていたのが寝技であり、何度も相手をねじ伏せてきました。他にも横四方固めや内股、背負い投げも得意でとにかく攻めて攻めてといく攻撃性のある戦い方でで牛島辰熊は勝ち続けていったのです。
試合前のルーティン
試合前夜にはスッポンの血を飲むことで体に力を蓄えていました。試合当日にはマムシの粉を口に含み畳に上がり周囲に臭いをまき散らし試合相手を驚かせていました。普通では考えられない行動に勝利への執着心がうかがえます。
牛島辰熊最強伝説③
最強と言われ続けるにはそれ相応の精神力と努力が誰よりも必要でした。牛島辰熊が常に強くあり続けるために掲げていたモットーやトレーニング内容がどんなものだったのか、ぜひ知っていただきたいと思います。
「生の極限は死」「死の極限は生」
死の寸前まで戦うことではじめて覚醒し潜在能力を引き出すことができるのでは、と牛島は考えていました。死の極限を超えた先にある強さを常に求めていたからなのです。今の力では満足しない向上心が強さの秘訣だったのでしょう。
朝のトレーニング
60kgもあるローラーを牽きながら走り込んでおり、朝であろうとハードなトレーニングはかかしませんでした。さらに自身を奮い立たせるために茶の葉を噛みしめ、大木に向かって体当たりを繰り返していたのです。木に帯を結び背負い投げの特訓も行っていました。