犯人は全国を転々としながら、おせんころがしの一件より前にも人を殺し、またその後も悔いることなく犯行を繰り返していたのです。
1948年三角関係の女性二人を殺害
最初の殺人は昭和23年に静岡県で起きています。当時栗田は複数の女性と同時に交際していました。そのうちの一人に結婚を迫られ、鬱陶しくなったという理由で最初の殺人を犯します。
またそのことを知り自首をすすめた別の女性も立て続けに殺害。この件は後に別件で逮捕された栗田が自供するまで発覚しませんでした。
1951年小山事件
その3年後、栃木県で栗田は再び凶行に走ります。盗み目的でふらついていたところ、ある家で赤子と若い母親が寝ていたため、そのまま侵入し強姦、そのまま絞殺し、着物など家財を盗んで逃走しました。
なお殺害した女性をふたたび犯す、台所のものを庭に埋める、大便をして去るなど奇怪な行動の目立つ事件です。
1952年強盗および強姦殺人
おせんころがしで起こした事件からわずか3か月後という短い期間で、栗田は畳みかけるように罪を重ねます。千葉市内において、民家に侵入しますが、家人である主婦に見つかったため絞殺、その後強姦。居合わせた叔母(60代)も包丁で刺し殺しています。
この事件で指紋が検出されたことにより、栗田源蔵はついに逮捕されることになりました。
おせんころがし殺人事件と別件で2つの死刑判決
数多くの凶行を重ねてきた栗田源蔵には死刑判決が下りました。それも別々の殺人事件で、それぞれ死刑が宣告されています。
つまり日本の裁判史上において初めて「死刑判決を2つ下された」人物ということになります。これは80年代に入るまで栗田が唯一の判例でした。
栗田源蔵は2つの死刑判決を受けた最初の判例
まずは昭和27年にまずは千葉県内で起きた事件、おせんころがしで発生した母子3名殺害と、市内の主婦・叔母の殺害事件で死刑判決が下ります。
翌年末には、三角関係女性2名殺害と、栃木県で起こした殺人に関しても同様の判決が下りました。現代に置き換えて考えても異例の事態といえます。
1959年栗田源蔵死刑執行
拘置後も栗田の粗暴さは相変わらずでしたが、死刑確定後はやはりショックだったようで、徐々に体調や精神に変調をきたし「死にたくない、助けてください」と懇願するようになります。
やがて拘禁によるノイローゼを発症していき、昭和34年の執行直前にはすっかり元の気弱な性分に戻っていました。
死刑廃止論に栗田源蔵が引き合いに
死刑執行の数年前、昭和31年には、死刑廃止論が国会であがりましたが、その際おせんころがし殺人事件・ならびに栗田源蔵の名を引き合いに「世の中には淘汰する以外にない大量殺人者がいる」とまで言われています。
結局、死刑廃止に至ることはありませんでした。
おせんころがし殺人事件現場は屈指の心霊スポット
このように残忍な事件の舞台となってしまったおせんころがしですが、心霊スポットとしても有名な場所です。ですがそれは上記の事件があったから、というだけではありません。
それはもっと昔に同じ崖で起きた、一人の娘の死にまつわる悲しい伝説が由来となっていました。
「おせんころがし」という名前の由来
豪族の一人娘お仙は日ごろから年貢に苦しむ領民に心痛め、強欲な父を見かねて説得しましたが聞き入れてくれません。ある日のこと、領民が父の殺害を計画し機会をうかがっているのを知ったお仙は、自ら父の身代わりとなり領民に断崖から夜の海へ投げこまれてしまいました。領民たちは、それが身代わりのお仙であったことを翌朝まで知りませんでした。(引用:山さ行がねが)
このように、心優しい娘が村のために身を投じたという伝説から、崖一帯は「おせん転がし」と呼ばれるようになりました。
その後父親の非道三昧が伝えられていないことからすると、娘の犠牲でようやく心改めたのでしょう。実に痛ましい歴史のお話です。
おせんころがしは自殺の名所
この物悲しい伝説と凶悪事件が重なり、また崖の名前が怖気を煽るものであったため、徐々に心霊スポット化していったと思われます。
投身自殺も多く、また海沿いの切り立った道路ですから、強風に煽られて転落してしまうこともあります。もし事故だったとしても、場所柄として自殺の噂が立ちやすいため、都市伝説化の一因になっている模様です。