昭和のスター!トニー谷とは?魅力や息子誘拐事件、タモリへの影響も!

他人をこき下ろしたり日系人・女性を馬鹿にするその芸が飽きられたのか、それとも世の中のモラルや差別意識への抵抗意識が高まったのかが原因と思われます。当時は希少であった毒舌司会者という存在に世間が慣れて斬新さも失われてしまったのでしょう。

また、誘拐事件を受けて「誘拐の発端は谷本人の芸風にある」とし、「芸風を変えるべき」とバッサリ言い切ってしまう評論家まで現れました。マスコミに翻弄された彼は大のマスコミ嫌いになり、休業もします。

テレビ版「アベック歌合戦」で復活するも・・・

1966年、ラジオからテレビへと舞台を移し、ソロバンを拍子木に持ち替えトレードマークのメガネも新調して司会者として復帰します。華麗なる復活に思えましたが先にも触れたとおりスポンサー企業が彼を嫌ったため次第にテレビの出演もなくなっていきました。

タモリと共演も!

何かと共通項が多いといわれるタモリの番組ではゲストとして夢の共演を果たしました。なごやかな雰囲気の中でタモリとの掛け合うトークはすばらしく、得意の英語を駆使し昔アメリカ兵たちの前で行ったという漫談を披露してたいへんウケたということです。

ピコ太郎やタモリ、大橋巨泉だけにとどまらずその他多くの芸能人との共通点がささやかれます。それはつまり、彼自身が後世に与えた影響がいかにすごいものであったかを証明しているといえます。

晩年とその最期

晩年は小さな劇場で芸を続けていましたが、1987年に肝臓がんで他界します。大のマスコミ嫌いであったため、遺言にのっとって弔問もいっさい受け付けずに家族葬で執り行われたという事です。

彼が亡くなった翌日7月17日に昭和の大物スター石原裕次郎が他界したため、大々的に取り上げられることはなくしばらく経ってから世間に知られることになりました。大物芸能人が立て続けに亡くなったことで、マスコミの標的になるのが避けられたという結果になりました。

トニー谷は今も昔も伝説的な芸人!

一流のボードビリアン・日本で初の毒舌大物司会者として戦後芸能界のスターダムを駆け上がり、世間からどんな評価を下されようとも独自の芸風を守りつづけました。彼の生き様そのものが徹底して「芸人」であり、あらゆる意味で「伝説」であったのです。

今でもネット上で動画はたくさんあげられていますが、50年以上前にもなる彼の芸はまったく知らない人が見てもじゅうぶんに楽しむことができます。日本が誇る一流芸人の舞台を気軽に味わってみてはいかがでしょうか。

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