【ヒルコ】障害を持ち生まれ、恵比寿神となった神の神話、解釈、考察など

「ヒルコ」という名前は、「不具児」を意味する古代琉球語「ビールー」と関連しているのでは、という説です。なぜ日本で編まれた歴史書である『古事記』のなかの記述を、古代琉球語によって読み解くのか、という疑問もありますが、このように神名の解釈に古代琉球語を用いるのは、ときどきあることです。

その理由としては、現在は失われてしまった古代日本語が、古代琉球語のなかに保存されている、という現象が起こっているからです。これは「方言周圏論」と呼ばれる説で、方言はあたかも同心円を描くかのように広がっていくという仮説であり、著名な民俗学者・柳田国男の『蝸牛考』などにも見られる説です。

②病名説

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「ヒルコ」とは、かつての病名に由来する名前なのではないかという説です。これは平安時代の漢和字典である『新撰字鏡(900年ごろに成立)』『倭名類聚鈔(930年ごろに成立)』の記述に基づく仮説です。これらの漢和字典の中には、それぞれ以下のような項目が記載されています。

「痿、痺也。不能行歩也。足比留牟。」(引用:『新撰字鏡』)

「痿痺…… 俗云比留无夜末比。不能行也。」(引用:『倭名類聚鈔』)

このうち、『新撰字鏡』の「比留牟」は「ひるむ」という当て字です。また、『倭名類聚鈔』の「比留无夜末比」は「ひるむやまい」という読みであり、いずれも「痿」という字の解説として「ひるむ」という言葉を載せています。この「ひるむ」が「ヒルコ」の語源となったのではないか、とする説です。

ヒルコ研究の諸相②:「哀れ」なるヒルコ

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続いては、奈良・平安期にすでに行われていた『古事記』及び『日本書紀』の研究の流れと、そうした研究及び同時代の文学作品などにおいて、ヒルコの存在がどのように受容されてきたか、という変遷についてご説明いたしましょう。

「祓われるもの」としてのヒルコ

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『古事記』『日本書紀』の成立からしばらくして、「日本紀講」という行事が実施されています。日本紀講とは、平安時代初期に公的に行われていた、『日本書紀』の講読のことで、現代における学会のような催しでした。

この日本紀講の影響のもとに成立したと考えられているのが、同じく平安初期に成立したとされる『先代旧事本紀』という、今日における研究書のような書物です。この『先代旧事本紀』においては、ヒルコの誕生は イザナギ・イザナミ両神が「陰陽の理」を違えた結果であるとされ、ヒルコは不吉な「祓われる(べき)もの」として解釈されています。

「哀れ」なるヒルコ

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ところがあるとき、ヒルコに別の側面から光が当てられます。そのきっかけは、日本紀講にともなう竟宴(きょうえん)でした。竟宴とは、日本紀講が終わったあとに催される宴のことで、今で言えば学会の後の打ち上げのようなものです。その席で、大江朝綱という人が、「得伊弉諾尊」と題した、次のような歌を詠んだのです。

父母は哀れと見ずや蛭子は三歳に成りぬ足立たずして(「父母は哀れと思わなかったのか、 蛭子は足が立たないまま三歳に成ってしまった」(引用:『「哀れ」なるヒルコへ : 神話生成の現場としての日本紀竟宴』)

この歌においては、ヒルコを生んだとされるイザナギ・イザナミ両神の、我が子を「哀れ」に思う心情に焦点が当てられています。この歌は竟宴の参加者たちに強い印象を与え、これから後のヒルコの「読み」にも影響を与えることとなりました。

『源氏物語』のなかのヒルコ

ヒルコのエピソードを「哀れ」の象徴として組み込んだ作品の例に、言わずと知れた『源氏物語』が挙げられます。『源氏物語』の「明石」の巻において、主人公・光源氏はとある事情により明石へと追放されていましたが、最後には許され、都へと戻ります。その際、光源氏は朱雀帝と歌のやりとりをします。以下がその場面です。

十五夜のおもしろう静かなるに、 昔のことかきつくし思し出られて、 しほたれさせたまふ。 もの心細く思さるるなるべし。
(帝)「遊びなどもせず、昔聞きし物の音なども聞かで、久しうなりにけるかな」
とのたまはするに、
(源氏)わたつ海にしづみうらぶれ蛭の児の
脚立たざりし年は経にけり
と聞こえたまへば、いとあはれに心恥つかしう思されて、
(帝)宮柱めぐりあひける時しあれ別ばれし春のうらみ残すな(引用:『源氏物語』「明石」)

この中で、光源氏は「しづみうらぶれ」た自分を「蛭の児」になぞらえており、自身にとって主君であり、父の如き存在でもあるはずの帝に対して、「あはれ」を求めています。それに対して、帝は「いとあはれに心恥つかし」、つまり帝としての責務を果たせていない自分を恥じている、という構図です。光源氏と帝の心の交流を見事に描写しています。

このように、平安時代を代表する『源氏物語』においても、「蛭の児」すなわちヒルコは「哀れ」の象徴として援用されています。当時の文化人のあいだで、ヒルコという存在がどのように受容されていたかを示す好例であるといえるでしょう。

ヒルコは不遇の目に合いながらも人々から愛される神様となった

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数奇な運命を辿った神、ヒルコ。障害を持って生まれ、実の両親の手によって捨てられても、なおエビス神として「成長」を果たし、今なお多くの人びとに愛されています。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。その特異なエピソードは、私たちにも大きな希望を与えてくれます。機会があれば是非、そんなヒルコをお祀りするのもよいでしょう。

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