下山事件は昭和最大のミステリー事件!国鉄総裁が失踪した事件の真相を考察!

下山事件は1949年、当時国鉄の総裁だった下山定則氏が失踪、翌日に轢死体となって発見された事件です。当時の日本は様々な政治的な混乱が続いており、下山定則の死亡は自殺と他殺で意見が別れました。そして事件は今なお解決していません。下山事件の概要と真相に迫ります。

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下山事件とは?

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日本が第2次世界大戦で敗北した間もない頃、日本は今から70年前に日本国有鉄道、今のJR等の電車や鉄道の元になるものを作りました。設立されたのは6月でその時のその機関のトップとして、この事件の名前にもなっている下山氏が選ばれて就任したのです。そして不可解な事件が起こったのは設立した1ヵ月後でした。

その1ヵ月後に下山氏はいつものように会社に向かっておりましたが、向かっている最中にどういう事か突如失踪してしまうのです。そしてその次の日になぜか遺体となって発見されたのです。果たしてこの謎の死は、誰かの手によるものなのか、或いは自ら死を選んだのか、その事が当時から現在までずっと判明していないのです。

下山事件の概要

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まだおそらく皆さんはこの事件についてあまり知っていないはずです。これから少しずつ皆さんにこの事件の概要を詳しくお話ししていきます。いつ頃失踪したのか、またいつ死体となって発見されたのか?当時の状況をイメージしながら読んでいただければよりこの事件の概要を把握できるはずです。皆さんも考察してみてください。

勿論概要だけではなく後程詳しく一つ一つの出来事を詳しく掘り下げて解説していきます。ですので最後まで読んでいただけたら幸いです。まずは大まかな基本と呼べる情報を皆さんも把握しておいてください。この事件は戦後間もない頃に起きていますが、2019年現在でも真相が判明していない謎多き歴史的事件なのです。

1949年7月5日国鉄総裁の下山定則が失踪する

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日本国内の大きな2エリアで核爆弾が投下されたり、たくさんの人々が戦争で兵士として戦士してしまったりと莫大なダメージを受けた第二次世界大戦。戦後日本は戦勝国のアメリカの元で復興、土地開発していく事になりました。そして戦後から4年後の6月に今のJRをはじめとする各鉄道の大元となった日本国有鉄道が設立されました。

その機関のトップに選ばれたのが、この事件の主人公でもある下山氏だったのです。設立され1ヵ月が経った7月、彼はいつもどおり自宅から会社の車に乗って職場に向かう途中、謎の失踪を遂げてしまうのです。職場に向かう際、現在でも有名な三越や会社の側にあるUFJ銀行に寄るなど、大変不可解な道順だったそうですが・・・。

翌日の7月6日下山定則の轢死体が発見される

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失踪したその日は、日本国有鉄道内ではかなり重要な人員や経営方針を決めるミーティングが午前に予定されていました。そのためトップ不在という事、そしてそのトップがもう既に会社に向かっている事を他の役員が知るとたちまち大騒ぎとなり、直ぐに警察に通報して捜索が開始されました。こうして失踪が発覚されたのです。

専属ドライバーから話を聞き最期に立ち寄ったと思われる場所周辺だけではなく、広範囲で捜索が開始されましたが、なかなか発見する事ができなかったのです。そして失踪から数時間経った後、日付は既に変わっていましたが、午前0時ごろ今の足立区周辺の線路間に、列車に轢かれた状態で遺体となって発見されたのです。

犯人は見つからず1964年に未解決事件となった

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死亡者は一体列車に轢かれて死亡したのか、或いは列車に轢かれる前から既に死亡していたのか、このどちらかによって、自殺であるか、他殺であるかの判断基準に大きく関わっていきます。しかしこの時現場に残された少ない情報を元にその2つの意見が飛び交い、はっきりと医学的に断定する事がで現在もできなかったのです。

他殺なのか、自殺なのかも曖昧なままはっきりせず、この事件の捜査は難航していきました。最終的には事件が起きた同年の12月に一つの捜査部隊が捜査を中止し、もう一つの操作部隊も翌年には捜査が事実上中止してしまったのです。そして事件から15年が経過した昭和39年にこの事件が他殺であれば事項となり迷宮入りしてしまったのです。

下山事件の死亡者下山定則の生い立ち

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この迷宮入りした謎の失踪事件の大まかな概要については分かっていただけたのではないでしょうか?失踪当日から迷宮入りするまでの部分について記述させていただきました。やはりこの事件の大きなポイントである、死後轢かれたのか(他殺)、轢かれて死亡した(自殺)これがはっきりと断定されていない点が捜査を難航させたのでしょうか?

ここからはこの謎めいた事件の主人公でもあり、死亡者でもある下山氏の事についてお話ししていきます。過去にどんな事をしていたのか、家庭環境や生い立ちなどについて詳しく解説していきます。是非読んでいただいて、そんな経歴や生い立ちを把握して、読者の皆さんも今一度この未解決の事件を推理してみて下さい。

下山事件の下山定則の生い立ち①1901年生まれ。司法官の父をもつ

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今から100年以上も前の明治34年に近畿地方にある兵庫県のとある地で生まれました。父はその時今で言う裁判官の職に就いていました。そのためか日本のあちこちを引越ししていたので転校転入を繰り返していたのです。彼は後に日本国有鉄道のトップになるわけですが、彼の父親もまたある一つの裁判所のトップに就任していました。

生まれは近畿地方の兵庫県ですが、あちこち転々としているので中学時代は三重県や静岡県で生活して、高校時代は京都府で生活していました。そして大学はあの日本で一番と言われている東京大学に進学して機械工学を学ぶのです。父親が裁判官ということもあって、彼もまた秀才でかなり頭が良かったのでしょう。

下山事件の下山定則の生い立ち②幼い頃から鉄道好き

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平成である現在も鉄道が好きな方や鉄道オタクがいますが、明治に生まれた彼もまた幼い頃から鉄道が大好きだったそうです。鉄道が大好きとわかるエピソードを皆さんにいくつかご紹介します。先ほどお話しした通り、彼が子供の頃は父親の仕事柄何度か引越しをして、転校転入を繰り返していました。

その引っ越した新しい地にある駅の各時刻表を暗記して、転入先で仲良くなった友達たちにそれを見せつけていたのです。また高校生時代には北は北海道から南は九州まで、日本中の各地にある駅全てを暗記していたのです。なんと駅の数はおおよそ一万近くあるのです。その駅名を全て暗記するという芸当は余程の鉄道好きしかできない事でしょう。

下山事件の下山定則の生い立ち③1949年国鉄の初代総裁に就任

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日本の最高峰の大学と言える東京大学卒業後は、日本の鉄道を管理する組織に入社して、どんどん技術者技能者としてのスキルを磨いていき、鉄道局の局長補佐にまで就任するのです。その後新幹線を開発した第一人者でもある島氏ともに、日本に技術を取り入れるために世界中を旅して回っていたのです。この島氏とは古くからの友人だっだのです。

世界中を旅して回っていった後、第二次世界大戦という世界中で起きた大きな戦争がポツダム宣言により終了した後、彼は日本国有鉄道のトップとして就任する事になります。彼は子供の時から死ぬまでずっと鉄道が大好きで、またそれに携わっている事を、読者の皆さんもよくわかっていただけたのではないでしょうか?

下山事件当時の時代背景とは

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この事件が起きたのは今から70年も前の事で、更には当時は第二次世界大戦で敗戦した直後という事もあり、日本は大きな損失と死者を出してため、かなりのダメージを追っていたのです。当時の日本がどんな状態であったか、世界ではどういった動きや流れがあったのか。その時代背景について皆さんに解説していきます。

時代背景からこの事件が起きた要因に繋がるかもしれません。事件当初死亡者である下山氏はどういった状態でどんな心境であったか、考えながら事件と結びつけながら読んで行ってください。当時の時代背景を把握するうえでは、日本国内の状況や世界がどういった態勢であったかが大きなポイントとなってくるのではないでしょうか?

事件当時の1949年は冷戦の初期

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