ディアトロフ峠事件の真実とは?不可解すぎる未解決事件の謎と真相を検証

登山中の若者9人を襲った、悲劇のディアトロフ峠事件。見つかった遺体には不可解な点が多数ありましたが、ロシア政府の圧力により真相は迷宮入りに…。この記事では、ディアトロフ峠事件の詳細やロシアが隠したがる内容、事件後60年越しに解明された真相をご紹介いたします。

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好奇心に突き動かされてただひたすら忙しい日々を送っています。

ディアトロフ峠事件とは?

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ディアトロフで謎の死を遂げた9人のパーティーは1959年2月2日の夜になにかに遭遇しました。イーゴリ・ディアトロフがリーダーであったことからこの地は、デァアトロフ峠と呼ばれています。ディアトロフ事件はあまりに不可解な点が多く、謎の未解決事件として、60年たった今なお語り継がれています。

2018年12月6日に日本では奇跡体験アンビリーバボで取り上げて以来、知らない人はいないと言われるほど有名な事件になりました。色々な検証やたくさんの説が浮上していますが、全てを解明し、説明できるだけの情報まだありません。最近になって、新たに有力な情報がもたらされました。

登山中の若者9人が死亡した事件

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1959年にウラル山脈のディアトロフ峠で男女9人が謎の死を遂げました。彼らはスノートレッキングに来ていて、ホラートシャッフル山の東斜面でそれぞれが離れたところで遺体となって発見されました。発見されたときの状態からか、ロシア政府は今現在に至るまで、一切の情報の公開をしてきませんでした。

また現場への立ち入りを3年間禁止していました。ソ連時代からこの事件を引き継いだロシア政府最高検察庁は2019年2月1日に、雪崩などの自然現象によるものだとの見解を示しましたが、それでもなお、異論を唱える者もいます。これまでにこの事故を即座に機密文書扱いにして、隠したためロシアの陰謀説などの憶測だらけの説が生まれました。

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しかし2013年にジャーナリストのドニーアイカーによって「死に山」が発行されたことにより、推理合戦に終止符が打たれたかのように思われました。日本では遅れて2018年に「死に山」は発行になりました。これによって初めてこの事件を知った人も加わり、話題になっています。再びディアトロフ事件見直して、最新の情報を見て見ましょう。

殺人も疑う不可解な遺体

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発見された遺体には不可解な特徴がありました。かれらは薄着で靴を履いていませんでした。ここはマイナス30℃にもなる山の中です。遺体の顔は黒く、髪が白髪になってしまった遺体もありました。半裸の遺体も冬山では異様なものでした。

また女性隊員はたっぷり防寒具を着込んでいました。デァトルフは2個の腕時計をしていました。他のメンバーの服を着ている者もいます。明らかに剥ぎ取ったものです。また外部からの強い力が加わり肋骨が折れたり、目玉がなかったり、舌がない者もいました。

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山には彼らしか登山隊は入っておらず、内部のトラブルのために何者かに殺害されたという見方もありました。しかし、内部トラブルはありえないとの見方が大半で、内部トラブル説は有力ではありませんでした。そうなると、誰もいない山奥で仲間割れではないとなると、原因の究明は難しくなります。

「未知の不可抗力」として捜査は終結

積極的に事件の捜査をしていた主任捜査官レフィイバノフは呼び出しを受けてモスクワに行きました。彼はすぐに捜査本部に戻りましたが、これまでと違い、事件に対して消極的な捜査しか行わなくなっていました。そして事件から4カ月後には捜査打ち切りの判断が下されました。

捜査打ち切りの理由としてあげたのは未知の不可抗力だったのです。打ち切りの判断がされた後、モスクワに行くまえに検証のため送った服の放射能測定のデータが戻ってきました。データは通常の2倍の放射能の数値を示しています。なぜ9人の若者が亡くなっているのに、真相の究明をしないのでしょうか。

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背景にはソ連の圧力があったと言われていますが、このままこの事件は何十年もの間、闇に埋もれてしまいました。捜査資料は機密文書扱いになり、真相を探すのは困難を極めました。事件の背後には触れてはいけない旧ソ連の最大級の闇があると噂されています。

ディアトロフ事件パーティメンバー

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メンバーを改めて紹介しておきます。一覧にすると、事件の重大さが改めて判ります。若くして命を失った者たちのためにも、早く事実が解明してほしいものです。家族は事件を風化させないために、ディアトロフ財団が設立されています。財団はユーリー、クンツェ(当時12歳でした)によって設立されました。

メンバー一覧

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財団の目的は、事件の再捜査をロシア当局に求めること及び、ディアトロフ記念館の維持です。財団はウラル工科大学が支援しています。メンバー全員の簡単なプロフィールを紹介して置きます。顔写真はネット上で公開されています。

イーゴリー、アレクセーエヴィチ、ディアトロフ

23才 リーダーです。慎重で、落ち着いています。メンバーのジーナに言い寄っていました。登山の経験が豊富でした。発見されたときに、ドロシエンコの服を着ていました。ディアトロフ峠は彼の名にちなんで付けられました。

ユーリー、ニコラエヴィチ、ドロシエンコ

過去にジーナの恋人でしたが友人関係になっています。クマを地質調査用のハンマーで追い払った勇者です。しかし、なぜか、かれの服はディアトロフに剥ぎ取られていました。このあたりも謎が深まります。先にユーリーがなくなって死者の服を剥いだのでしょうか。

ユーリー、アレクセーエヴィチ、クリヴォニシチェンコ “ゲオルギー”

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24才、ウラル工科大学を卒業したばかりで参加。ジョークで人を楽しませ、マンドリンを弾きます。放射能技士でもあり、経験豊富。杉の木の下でドロシエンコとともに発見。下着のみ着用、靴はなく、足に焼けどがありました。低体温症が死因になっています。

ジナイダ、アレクセーエヴナ、コルモゴロワ“ジーナ”

22才、ウラル工科大学4回生。経験豊富なハイカーで、毒ヘビに噛まれもトレッキングを完遂する精神力があります。活動的で、外交的です。様々なものに関心があり、敬意を持った、人との接し方で愛されていました。発見時の着衣は比較的まともでした。ドロシエンコの元恋人。

ルステム、ウラジーミロヴィチ、スロボディン

23才、ウラル工科大学卒業生で、優秀なアスリート。物静かでバランスマンと評されていました。常に同じアプローチができる人物。発見時には片足だけブーツを履いていました。格闘時に見られる挫傷があり、頭部に鈍器で殴られた破壊がありました。

リュドミラ、アレクサンドロヴナ、ドゥビニナ “リューダ”

20才、ウラル工科大学3回生。リューダは活発で歌や踊り、撮影が好きで、タフな性格。遺体からは眼球と舌がない状態で発見されました。生きた状態で舌をまるごと失ったと見られています。被服からは放射能が検出されています。

セミョーン、アレクサンドロヴィチ、ゾロタリョフ “サシャ”

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37才、謎の人物。本名はセミョーンですが、アレキサンダーやサシャと呼ばせていました。ロシア語、ドイツ語、ポーランド語、ウクライナ語を話します。仲間たちには内緒でカメラを所持、ネガは破損していて見れませんでした。骨折は多数箇所に及び眼球は失われていました。事件が彼に起因すると考える動きもあります。

アレクサンドル、セルゲーエヴィチ、コレヴァトフ

24才、ウラル工科大学物理専攻4回生。優秀だと評価されています。原子力の研究をしていたこともあります。統率力もすぐれ、勤勉であり、理論的に話します。遺体は腐敗し情報は得られませんでした。

ニコライ、ウラジーミロヴィチ、チボ=ブリニョーリ ”コリャ”

23才。ウラル工科大学1958年卒業。父親は処刑されています。優しく明るい性格。率直な人柄はみんなに愛されていました。今回最後のトレッキングにすると母親と約束していましたが還らぬ人になってしまいました。

ユーリー、エフィモヴィチ、ユーディン

21才。持病が悪化して途中でリタイヤしたために難を逃れました。唯一の生存者で2013年4月27日に亡くなりました。ユーリーはディアトロフ隊に関していくつかの貴重な証言をしていますが、その後取材を一切受け付けなくなりました。2013年にジャーナリストと対談しています。

ディアトロフ峠事件の概要①登山開始

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ディアトロフ峠の登山を開始するときに、一緒に行くメンバーは皆申し分ない仲間になるような優秀なメンバーで、誰もが登頂に成功することは信じていました。そこには一抹の不安もなく、残された写真にも笑顔が溢れていました。

ディアトロフ峠はなだらかな丘で見晴らしが良いところです。途中でリタイアした1人を除く9人のパーティ全員が、マイナス30℃の極寒の夜に、テント中側から刃物で横に裂き、防寒具もつけず裸足で外に飛び出し、奇怪な死に方をしていました。捜査は未知の不可抗力のため打ち切りになってしまい、この事件はいまだに謎のままなのです。

テスト試験としてオトルテン山にアタック

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ウラル工学大学の生徒と卒業生で構成されているワンダーホーゲル部の9人ともうひとりのメンバーはトレッキング3級の資格取得を目的として、また、ソビエト連邦が定めるアスリート育成プログラムのスポーツマイスターの資格取得を目指していました。全員が、なんとしてもこの資格が欲しかったのです。

一行はオトルテン山を最終の目的地として、1月23日夜、からセロフまで列車で移動し、その後はトラックで移動しました。ソビエトのエカテリンブルクを出発地点としました。登頂を始めると、森林地帯を進み、5日でパーティは最後のポイントに到着しました。ここで食料を帰路に備えて取り分け、この場所に残しました。

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この地点からアタックが開始されます。このルートは難度が高く、厳しいルートですが、全員が山の経験が豊富でした。とくに、隊長のディアトロフはみんなの信頼を集めていました。誰もが登頂の成功を確信するほど、冬山に長けたメンバーだったのです。

体調不良で一名が離脱

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1月28日、最後のキャンプ地でユーリユーディンは持病のリュウマチが悪化したため、リタイヤしています。唯一の生還者であり、真相解明のキーマンだと思われていました。足が痛むと訴えていたユーリはなかなかリタイアを決断できないでいましたが、女性メンバー2人の説得を聞き入れる形で、ここで別れました。

ユーリは地質学を研究していました。ユーリーは生還したものの一切の取材を拒否して姿を消してしまいました。後にユーリーの取材に漕ぎ着けたのが、ジャーナリストのアイカー氏なのです。ディアトロフ隊は9名になり登頂を開始します。この地でマンシ族と遭遇しています。マンシ族は彼らにホラチャフリ峠には気をつけろと忠告しています。

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彼らはここを死の山と呼び、近づかないと言うのです。マンシ族はこの厳しい山岳地帯で狩猟をしている民族です。マンシ族がこの山を1番わかっている者だと言うことは当然のことで、事件後は研究者や取材班などがマンシ族に接触しています。

吹雪によりルートを誤る一行

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ヴィジャイ村から開始して、ホラートシャイフル山を経て、別のルートを辿り15日程で戻る行程100㎞の冬山は経験豊富な彼らにとっても難易度が高いルートでした。1959年2月1日に撮影された写真が残っています。その日はひどい吹雪で、先頭に立つ者の後ろ姿は吹雪の中にかき消えるかのようでした。

写真からしても、強い風が吹いていたのが想像できます。彼らはこの日、ルートを誤ったとされています。設営されたテントはホラートシャッフル山から300mの斜面でした。当初の予定地点よりも西に道をそれてしまっています。そこから、オトルテン山の南に位置するホラートシャッフルへ登り始めてしまいました。

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途中間違いに気がついた一行は下に森林地帯があるのにもかかわらず、遮るものがない山の斜面にテントを張りました。トレッキング3級にパスする条件に、斜面にキャンプを設営する条件があったためと生存者のユーリは説明しています。

テントを張り一夜を明かす…

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この日の日没は16時48分、ディアトロフ隊がテントに入ったのは21時だとわかっています。彼らの日記や写真が残されています。またロシアでは、ディアトロフ隊の著書がたくさん出版されているので、彼らの行動はかなり細部にわたり判っているのです。ホラチャフリ峠はなだらかな丘があるばかりです。

近くに遮るものはなく、一面が平坦な傾斜の雪原です。少し下に降りると森林地帯があり、風も遮り安全です。なぜこの地点にキャンプを張ったのかは生存者ユーリーが語りました。ここはホラチャフリ、死の山と呼ばれています。1097m地点で標高870m付近です。デァトロフ峠は標高775m地点になります。

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斜面にテントを張るためと言うユーリーの説明は信じられるもので、この時点では危機感はなかったとされています。なだらかな斜面で雪崩は発生しにくい土地でした。少し下りると森林地帯ですが、ここで下ることによるタイムロスも避けたかったのではないかと、ユーリーは言います。

ディアトロフ峠事件の概要②捜索隊出動

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彼らが下山しないと騒ぎ出した時に、事故や事件などまったく予想されていませんでした。捜索隊が出たのは8日も後のことです。しかしまだこの時点では、誰もが彼らは無事であることを疑いませんでした。彼らは、山のスペシャリストです。捜索隊は彼らの救出に向かいます。

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