花魁淵は山梨の最恐心霊スポット!そこで起きた凄惨な事件と心霊体験とは

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この時、花魁がそのような場所にいるはずがありません。この地で無残に殺された彼女たちの魂が残り続け、その苦しみに現在も嘆き続けているのかもしれません。

花魁淵の本当の場所は別にある?

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花魁淵の事件の後、村人たちによって現場の少し下流に慰霊碑が立てられました。これは現在「おいらん堂」と呼ばれており、村人が作ったとされる木像が一緒に並べられています。

実際の現場はその上流であるでしょうが、どこで起こったかという詳細の記録は残っていません。

事件が起きたのは藤尾橋という説も

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一番有力とされる場所は、花魁淵の看板が立てられている場所より200メートルほど上流の、「ゴリョウ滝」と呼ばれる滝の場所です。この近くには「藤尾橋」という橋が架かっています。

この藤尾橋で事件が起こったと、郷土史家たちの中で見解が一致しています。なぜここより下流で花魁淵と呼ばれるようになったかと言うと、流れされた花魁たちが多く横たわっていたのが、この場所だったからと言われます。

場所が違うのは慰霊碑を移し替えてしまったため

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また、立正佼成会の建てた慰霊碑は、「伝説にふさわしい場所に」という理由により移動されています。「化粧をした花魁のように美しい」と、この地を形容した東京都水道局の中川氏の提案により、移動が行われたとされます。

花魁淵の事件を嘘だと否定する説も

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花魁淵のこの事件は、多くの人に知られていますがあくまで“伝説”です。伝えられる事件の所々には様々な疑問が残されており、信憑性は低いとする声も少なくありません。

そしてなんと、明治時代になるまでこれらの伝承は、地元の人々にも伝えられていなかったとされるのです。

黒山金山の近くには遊郭は存在していなかった

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金を発掘する金山衆のために呼ばれたという花魁たちですが、この付近には花魁が常駐できるような建物の痕跡が発見されていません。つまり、遊郭らしきものは見つかっておらず、女性が呼び寄せられてのかも不明なのです。

殺害方法が確実でない

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2つ目は、殺害方法がなぜ「橋を落とす」といった方法だったかということです。伝説でも、瀕死ながらも生き残った花魁がいたと言われています。

口封じのために殺害を考えたのであれば、このような不確実な方法をとるでしょうか。相手はか弱い女性です。男性の手にかかれば抵抗は出来ませんし、毒殺といった確実な方法があったのでは、という疑問が残ります。

花魁同様に情報を持っていた労働者はどうなったのか

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労働者たちは、花魁たちより確実に金山についての情報を持っていたでしょう。それにもかかわらず、なぜ労働者は生き残り、花魁は殺されることになったのでしょうか。

さらにこの時、すでに金は採掘し尽していたという説もあります。それであれば労働者も花魁も、殺される必要などないのです。

戦国時代には花魁が存在しなかった

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そもそも、戦国時代には「花魁」という言葉は存在していません。花魁は、江戸時代から使われるようになった言葉で、吉原遊郭の中で位の高い遊女のことを指します。

このことから、もし遊女が関係する事件が起きていたとしても、当時から「花魁淵」とは呼ばれていなかったことが分かります。

花魁淵への行き方は?

甲州市からお越しの場合は、国道411号に乗り北へ向かいます。大菩薩ラインと呼ばれるこの道を行き、一ノ瀬高橋トンネルを抜けると岩岳橋へ出ます。すぐに大常木トンネルへと続くのですが、この中間の左手側に花魁淵へ続く道の入り口があります。

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