千葉県の野田市には鈴木貫太郎記念館という建物が建てられてあります。青年将校らが反乱を企てたとする首謀者のうちの1人の安藤輝三大尉の遺族が、千葉県野田市長に遺品20品を記念館に寄贈するように譲り受けました。写真を見るからに昔の制服などが想像できます。
この記念館は昔の事件を思い出させるような場所でもあります。遺族が提供した遺品を使い歴史を語っています。写真なども白黒で展示されているため、本当にあったことを実感できるようなエキシビジョンとなっています。
遺品
これら遺品の中には、同時使われていた黒縁のメガネ、制服、日本刀、などもあり、拠点としていたお食事どころのマッチや、そのオーナーの名刺であったり、数々の昔のものが展示されています。もちろん写真も白黒であり、本当に起きた事件なんだと証明させられます。
もちろん彼らだけではなく書物もありより勉強させられるように構成されています。みなさんが気軽に行けるような場所でもありますので、興味のある方は是非行ってみるといいですね。日本の歴史も一緒に学んでいきましょう。
鈴木貫太郎との関係
記念館のタイトルでも使われている鈴木貫太郎は1945年首相も務めていたことになりますが、遺品を提供された遺族の父、安藤輝三大尉と同じ事件で負傷したとされていて、鈴木によると安藤は可愛い青年将校と慕っていたそうです。そして鈴木の遺族の承認を経て、遺品が譲り渡されたのです。
鈴木貫太郎と安藤煇三大尉も仲が良かったように、残った遺族らも関係を経ているようで、昔から代々継がれているような関係も、戦友と考えるようなことがあっても、続くことはなんともほっこりしたような気持ちになりますね。彼らにより昔を知るチャンスを与えてくれることに感謝したいです。
青年将校の遺族の辛さ
これまでに皇道派や統制派など、彼らに対しての意見や彼らはどんなことをしたのかなどに注目してきました。ですが、あくまでも彼らの意見であって、周りの意見はどうだったのか、特に親族など、遺族が殺されてしまったり、殺してしまうなどいろいろなみかたがあるとおもいます。
特にこの事件では多くの人たちがなくなったため、なかなか関係者の本当の話を元に事実を知ることが難しいです。文献など書物は出来事が記されてあっても詳しい内容はなかなか見つけられません。そこで、経験者、遺族からのお話を聞くことはとてもためになります。
遺族の辛さはどれくらいなのか
安田善三郎さんはこの時間に協力していた、青年将校の優れた兄を持つ方であります。彼が、自分の兄が青年将校だと情報を得たのはは2月29日だったそうです。当時は村にラジオが数台あればいい方だったので、情報の伝達速度が少し遅かったのです。
そしてこの通達を聞いた時の彼の家族は大騒ぎになる程だったそうで、昔から親に迷惑をかけないような兄出会ったため、その分のおどろきもおおきく、母は嘆き悲しんでしまったほどショックをうけてしまったそうです。
善三郎さんの人生
彼は当時小学生で、小学校でもいじめのようなものがあったと言います。例えば学校で先生から休んでいいという合図がいつまで経ってもなく、ずっと走らされたり、ということもあり、兄が人を殺したという、事件に関わったことによりいじめのようなものが発生したと感じていました。
そのようなことを経験していたため、士官学校のテストを受けた時もまた同じように見られてテストに落ちてしまうだろうと、感じたにも関わらず、それは見事に合格したという嬉しいときもあったそうです。
少し残念に思う
おそらく善三郎さんがちょっとしたいじめのようなものにあっていたのがあったので、恐らく家の近所など周りでも噂になっていたのかと思います。そうなると常に家で仕事をしている母親はそれを気にするようになってしまいます。
そのようなことから、彼が結婚した最中に、兄がこのようなことをしなければ、少しでも母の気が楽に、そして母親だけでなく両親をもっと幸せにできたのではないかとかんがえたそうです。彼は兄弟の中でも6男目であり、兄の出来事があったからなのか、頼もしいような存在になっていったのです。
二・二六事件|国を変えようとした若者たち
多数の若者がこの事件で尊い命を奪われてしまいましたが、その後すぐに彼らの目標となるような国に変わることはいきませんでした。ですが、今となっては都心と農村部ではほとんど格差なく暮らすことができています。
リスペクトして、そして天皇も市民に敬意を表し良き日本とへと成長している最中であり、少しは彼らの思い描いた国に変わっていることが確かなことから、彼らのためにもなっているということ、それはやっと報われたと言ってもいいことになります。これからも平和に暮らせる事を大切にしていかなければいけないのかもしれませんね。
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