重信房子の現在は?活動と生涯を紹介!可愛いと話題の娘と逮捕の真相も!

日本赤軍を創設した過激な新左翼活動家として知られるのが重信房子です。この記事では、重信房子がどんな生涯を歩んできたのか、どのような経緯をたどることで日本赤軍を創設したかなどを詳しく解説していきます。

また、赤軍組織が起こした事件についても詳しく紹介していきます。

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重信房子とは?日本赤軍の元最高幹部の新左翼活動家

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重信房子はどのような人物であったのか、女性でありながら過激な活動家として様々な事件を起こしてきました。初めに房子の人物像を簡単にご説明していきます。

重信房子は日本赤軍の元最高幹部

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大学生時代房子は、学生主体の革命運動に力を入れます。後に革命運動の重要な人物となり、1969年共産主義同盟赤軍派を作った創立メンバーにまります。

その後日本赤軍を作り、ごく普通の女性であった彼女は新左翼活動家として最高幹部者にまで上り詰めた過激共産主義者として名が世間に知れ渡ります。

重信房子はハーグ事件への関与で逮捕された

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最高幹部者の新左翼活動家とし房子は様々な革命運動としてテロ事件などもおこしてきました。1974年に起きたフランス大使館への立てこもりのハーグ事件に、彼女も関係していたとして、後に逮捕されています。

現在も服役中の身で、医療刑務所で治療をしています。

重信房子の現在は?

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ここからは房子について詳しくみていきます。房子は現在どこで何をしてそのような状態であるのかなど、現在の様子を見ていきます。

重信房子は他人になりすまして入国して大阪で逮捕

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ハーグ事件に房子は武器などを用意した人物として間接的に関与したとされ国際指名手配者とされていました。しかし、20年間逃亡をした後、他人になりすまして偽造パスポートで入国したさい大阪にて逮捕されています。

現在はガン闘病中?東日本成人矯正医療センターで服役中

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判決が下された後も、事件に関与はしていないと何回か控訴していますが認められませんでした。

現在房子は、ガン闘病中との情報があり東日本成人矯正医療センター(八王子医療刑務所から移送)で治療を行ないながら服役中とされています。

重信房子の生い立ち

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最高幹部にまで上り詰めた女王房子はどのような生い立ちであったのかも気になるところです。幼少期の頃から過激な事をする思考や行動はあったのでしょうか?

どのようなような幼少期を送り、そのような人物であったのか詳しく見ていきます。

重信房子の生い立ち①1945年に東京で生まれる

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9月28日に東京世田谷で誕生し、兄弟は4人で房子は次女として生まれました。この頃は、太平洋戦争が終わってすぐの時期でもありました。

重信房子の生い立ち②父親は右翼団体の金鶏学院の門下生

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父親の末夫は鹿児島出身者であり、右翼団体の金鶏学院の門下生でありました。

政治暗殺事件でもしられる血盟団事件に右翼団体は関与していたため、父親もメンバーであったなどの情報もありますが、この事件に関与はしていなく全く関係がないようです。

重信房子の生い立ち③父親の影響を大きく受ける

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房子は、幼少期から見ていた父親に影響を大きく受けていたようです。しかし、いたって普通に育った房子は人を思いやりお互い助け合いよい社会を作るための「小さな親切運動」などにも幼少期参加するなど積極的に活動していました。

重信房子の生い立ち④将来は学校の先生と小説家を目指す文学少女

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革命運動や女性最高幹部など過激な印象がありますが、そんな房子は幼少期将来学校の先生と小説家になりたいとの夢を持っていました。

幼少期は極々普通の一般的な夢を抱く少女であったようです。しかし、よい社会を作るための運動に参加したり、この頃から将来の夢をしっかり抱いていたことからも、信念をしっかりともった少女であったのではないでしょうか。

重信房子の大学入学後

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幼少期に抱いていた夢に向けチャレンジしようと、房子は高校卒業後キッコーマンへ就職し夜間生として大学へ通い始めます。しかし、大学入学後房子の人生に大きな影響を与えることとなります。

大学入学後の房子の様子を追っていきましょう。

重信房子の大学入学後①1968年明大紛争に参加

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夜間部生として明治大学へ入学した後、同じ夜間部生の遠山美枝子と知り合います。当時大学の学費値上げに反対するため学生運動(明大紛争)が起きます。

遠山に誘われたことを切欠に、この明大紛争に参加することとなりました。参加理由は元々学生運動にすごく興味があったという訳でもなく、なんとなく誘われてという軽い気持ちであったようです。

重信房子の大学入学後②明大紛争のあと共産主義者同盟に加入

明大紛争を経験した房子は、運動に情熱を持ち始めその後日本の新左翼でもある共産主義者同盟(二次ブント)に加入することとなります。

房子の加入した二次ブントは、中央大・明治大を中心とし関西ブントと統一し結成されました。これを期にさまざまな闘争にも参加していくことになります。

重信房子の大学入学後③神田カルチェ・ラタン闘争にも参加

1968年東京駿河台で二次ブント含む社学同による神田カルチェ・ラタン(解放区闘争)に参加することとなります。アジア太平洋閣僚会議の開催により、日本帝国主義によるアジア再侵略と70年安保実質化を目的とし会議開催抗議の闘争をおこないました。

700名の社学同と共に、駿河台付近2通りに机などでバリケードを作るが機動隊が来たことで大きな騒ぎまでにはならず解散することとなりました。解散時集まった社学同人数は3000名ほどにまで増えていました。

重信房子の大学入学後④組織の分裂後は共産主義者同盟赤軍派に加入

共産主義者同盟(二次ブント)の組織は分裂し、後に房子は関西ブントを中心とし創立された共産主義者同盟赤軍派の組織のメンバーとなります。

共産主義者同盟赤軍は、後の連合赤軍や日本赤軍組織を作り上げる原点となる過激集団でありました。公安からも目を光らされる集団として暴動など起こしていました。

この時代の学生運動を詳しく説明

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1910年頃から10年程続いた大正デモクラシーが学生運動の始まりの時代とも言われています。現在ではこのような運動もほぼ衰退しています。

学生主体の革命運動が激しく流行った戦後には、大学紛争が都市部中心に起こるようになりました。社会的・政治的・文化的運動を目的とした学生が起こす運動です。

学生運動の目的とは

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運動をする元々の目的は、大学側に対する学費値上げや大学設備など学生が勉強しやすい良い環境に改善してもらうことを目的とした運動でした。

大学内でポスターを作って貼ったり、ビラをまいたり看板を立てかけ演説をするなど学生の思いを主張するといった内容でした。

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しかし、第二次世界大戦が終え戦時中運動が行なえなっかた学生が大学へ戻る頃には、戦争を経験した学生達の訴えは、大学へだけでなく政府などの政治に関する内容と変化することで激しい運動へと変わりました。

学生運動の歴史

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学生達は、戦後の1948年学生団体の全学連(全日本学生自治会総連合の略)を立ち上げ学生デモをしていましたが、1958年一次ブントが作り上げられ、全学連がまとまり運動をしていきました。

1970年代の世間では、学生が一生懸命勉強する為の環境を良くしようと頑張っていると共感を持っていたものの次第に学生運動は武装や死亡者がでる過激な内容となったことで批判される行動となりました。

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しかし、1972年アメリカからの沖縄領土返還や高度経済成長期に入り産業や経済が豊かになったことで学生運動も次第に少なくなっていきました。

全学連とは

学生団体として結成され当初は日本共産党よりの考えが強くありましたが、1955年安保反対運動が切欠で共産党の考えを批判するようになりました。

現在、革マル派系・日本共産党(民青)系・中核派系・革労協(現代社派)系・革労協(赤砦社派)系の5つ団体となっています。

ブントとは

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この言葉の意味はドイツ語で連合・絆・同盟などを意味します。

1958~1960年一次ブント(新左翼党派の共産主義者同盟)が結成され当初300名程でしたが最盛期には3000名程の在籍人数となっていました。一次ブントは安保闘争後一度解散となり1966~1970年には二次ブントとされました。

学生運動①ベトナム戦争反対運動

1955~1975年アメリカが支持する南ベトナムとソ連が支持する北ベトナムが起こしたベトナム戦争を切欠に、学生達は反対運動で盛り上がりを見せることとなります。

当時南ベトナムへと多くの兵士を派遣し、戦争が激しくなる事に日本だけでなく世界で反対運動が行われていました。

学生運動②安保闘争

旧日米安全保障条約ではアメリカ基地を日本へ作るのに土地を提供するだけとされていましたが、1960年日米安全保障条約の改正が行われました。

新たな内容は、アメリカと日本は協力国としお互いの国を一緒に守るというものでした。この内容に日本まで戦争に巻き込まれると学生はじめ、政治家達は反対運動を起こしました。

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