花形敬とは?「伝説の喧嘩師」と呼ばれた素手喧嘩(ステゴロ)最強の男!

花形敬の伝説を紹介していきます!気になるその強さは伝説を知れば如何ほどだったかわかるはず。また、力道山との関係や花形敬がモデルとなった映画や漫画も合わせて紹介。花形敬がどういった人物であったか詳しく知りたいという方も必見の内容です。

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初めまして。皆様の関心と興味を引き付ける記事をたくさん書いていきます!

花形敬は戦後日本の伝説的ヤクザ!

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皆さんは「花形敬」という1人の男ををご存じでしょうか?現在は既に令和となっていますが、彼が生きたのは2つ元号が前の昭和の時代であり、今でも尚、様々な作品にテーマ・題材にされるなど色濃い人生を送った有名な人物なのです。

ではその色濃い人生とはどういったものなのでしょうか?今回の記事の中でもそれを深彫りして皆さんにご紹介していきますが、ここでまず簡単に説明するならば、アウトロー、暴力団員として生涯を送った人物であります。

とはいえただのゴロツキ、チンピラとは違い、強面具合も強さ、威圧感など任侠や極道において不可欠な要素のほとんどが一級品だったと語られています。

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初めに花形敬という1人の昭和のアングラ界にアウトロー、暴力団員がどんな人物であったか、概要をざっくりと簡単にご紹介していきます。

きっとその概要だけでも男性であれば魅力的に感じて、どこか憧れて興味をそそるのではないでしょうか。

伝説の喧嘩師の異名を持つ花形敬

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花形敬、彼の名を語るうえで付きまとうのはなんといっても「ケンカ」です。皆さんがよくするケンカとは恐らくは、口げんか怪我をしない程度のどつき合い・殴り合いであるはずです。

しかしそういった日常的なケンカとはわけが違います。もっと本気でガチで、もっと激しく肉体的な痛みが伴う、映画やアニメ、漫画の世界といった創作作品でしか見れないような、激しくインパクトのあるものなのです。

とはいえ、鉄パイプや金属バット、拳銃といった凶器を所持してバチバチにやり合う、一歩間違えれば命を落としかねない危険なものでありません。つまり道具には一切頼らないのです。

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己の拳のみで戦う、実に漢らしいケンカ、すなわち「ステゴロ」の条件の中では、右に出るものがいないと巷で噂になり、その伝説が令和となった今でも語り草になるくらい、花形敬は強かった。と頻繁に話題になります。

前述では命を落としかねない危険なものではない。とそう説明しましたが、少し語弊があるかもしれません。一般人、一般の男性であれば、素手や拳で殴り合ったとしても限度を理解してしますし、それほどのパワーはないでしょう。

しかし花形敬は全くの別物、先ほども解説した通り、全ての要素が一級品であり、また極道や任侠の世界に生きるアウトローなのです。相手の息の根を止める勢いで、容赦なくその凄まじい拳を振りかざしていたことでしょう。

安藤昇に最も寵愛を受けた男と呼ばれるも33歳で刺殺された

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花形敬という1人の男が、令和となった現在においてもこれほどまでに強い、伝説、最強とその名と共に認知されているのは「安藤昇」という人物の影響が果てしなく大きいでしょう。

安藤昇という人物も日本ではかなり認知されている昭和の有名人であり、暴力団の組長でありながら、テレビや映画など表立った舞台でも活躍するなど、一風変わった肩書を多く持つアウトローの1人であります。

実はそんな安藤昇という暴力団のトップに人一倍可愛がられて、一目置かれ、頼りにされていたのが花形敬だったのです。

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安藤昇が、アングラや任侠の世界だけではなく、世間に大きな影響力と宣伝力を持つ、芸能界や業界にも精通していて、部下である花形敬の活躍や伝説を語って発信していたからこそ、更に彼の名が日本中に知れ渡ることになったのでしょう。

それほどまでに強く、最強の名を欲しいがままにした花形敬も、最期は30代前半に刃物で刺されて命を落としてしまいました。まさに短く太く生きたので、この点もまた彼の印象を色濃くして「漢」と印象付ける大きな要素と考えられます。

花形敬のプロフィール

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こちらで花形敬という人物の基本情報を簡単にまとめていきます。2019年(令和元年)となった現在から約90年前の昭和5年9月27日に生まれており、つまりまだ第二次世界大戦が起きる前の時代に生まれているのです。

実際に第二次世界大戦が起きている頃は中学生から高校生の年ごろだったと考えられます。

彼のトレードマークとなるのは、そのインパクトある強面な見た目・ルックスでしょう。

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身長は175センチメートル前後、がっしりとしたガタイ、ブラックジャックと張るくらいの顔面の傷跡、メガネ、全身白い背びれに、頭にはハット。

上記の特徴を踏まえてイメージするだけでも奇抜で怖そうな印象を受けますが、その当時はまだ西洋の文化が今ほど伝わっていない昭和の初めだったので、花形敬が余計に街中を歩いていれば目立ったことでしょう。

身長が175センチメートルというのは、現代ではごく普通ですが、当時の日本の成人男性の平均身長は160センチメートル前後なので、周りからしたら相当な長身で、まさに大男として恐れられていたに違いないでしょう。

伝説のヤクザ!花形敬の生い立ちから安藤組幹部までの軌跡

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ここまでざっくりと花形敬という1人の男の基本情報、概要をクローズアップしていきましたが、きっと実際どれだけケンカが強かったのか、どんな生涯を送って伝説となったのか?など彼について気になり興味が湧いたのではないでしょうか?

ここから徐々に深彫りしていき、より詳細なエピソードや情報を皆さんにご紹介してきます。

まずはこちらでは花形敬の少年時代、生い立ちからどのようにしてアウトローとなり、暴力団員となりアングラ界を渡っていたのか。その太く短い生涯にフォーカスを当てて詳しく語っていきます。

少年時代から体が大きく喧嘩っ早く「怪物」と呼ばれた

花形敬は物心がついてない頃か、つくくらいの年頃から既に、人よりもその大柄なカラダが目立っていました。大きかったのは見た目やルックスだけではありません。野心や態度も人一倍に大きい物だったと言います。

彼は少年から既にワルに目覚めていたのです。家庭環境が影響したとも考えられますが、肝心の両親や家庭の事については、ほとんど明らかとなっていません。

彼がアウトロー、ヤンキーとなったのは、突然のことだったと知人がそう語ります。元々は将来を見据えて、勉学に勤しむ真面目なガリ勉な生徒だったらしく、視力が悪くなってから、いつの間にかベクトルが大きくずれてワルになったそうです。

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自分と同じように、真面目や勉強とは無縁の、尖ったヤンキーたちに目を付けられ、また目を付け己の拳だけでケンカを日常茶飯事に行い、暴力という原始的な方法でスクールカーストを上り詰めていったのです。

いつしか他の同年代のヤンキーや同級生、地域の少年たちから、花形敬の存在を恐れられるようになり、非凡で類まれなガタイとセンスで、この時すでに「怪物」と称されて、一目置かれるようになっていったのです。

国士舘中学校では石井福造と番長争いを演じる

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花形敬は問題行動や非行を多く起こして、自ら公立中学校を辞めると、今なお多くのオリンピック選手やスポーツ選手を輩出している、名門私立の「国士館中学校」に入学しました。

運動能力が抜きんでた生徒が多く所属する、その中学校には、後に今なお存在する博徒系暴力団組織の「住吉会」の石井会の初代会長である「石井福造」が在籍していて、石井はヤンキー・不良グループのトップに君臨する番長だったのです。

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