アナタハンの女王事件の真相!女王蜂こと比嘉和子の人生とその後

漂流者達は終戦を一向に信じませんでしたが、米軍が日本の新聞や漂流者達の家族の手紙などを届ける事によってやっと漂流者達は終戦を受け入れ、投降することになります。島に漂流した男性は31名いましたが、帰国する際には20人にまで減っていました。男性達が全員投降したのは彼女が帰国して1年後、1951年の事になります。

アナタハンの女王事件における殺人事件

出典:PhotoAC

比嘉和子は島から帰国後の報道にて、「島で結婚したのが4人、これは拳銃で脅されての事、そして私の為に殺されたのが2人」と語っており、「帰沖した際には洋裁で生計を立てたい」と語っています。

アナタハンの女王事件の殺人①1人目の殺害

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B29の残骸から拳銃を手にする事が出来た2人の男性は拳銃を理由に島で権力を持つようになります。島で初めて死人が出たのは、拳銃を手に入れて間もない頃とされています。1人目の死因は木から落ちた衝撃とされていますが、元々木から落ちた男性と拳銃を持った男性は日頃から仲が悪かったそうなので漂流者達の中で疑心暗鬼が広がります。

アナタハンの女王事件の殺人②2人目の殺害

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2人の男性は拳銃で脅し、関係を迫るようになります。和子は仕方なくこの男性達と関係を持つ事になります。しかし、この時実はもう1人の男性とも関係を持っており、事実上3人の男性と夫婦関係にありました。1947年、2人の男性達の間でトラブルが起き、1人が遂に射殺を行います。

アナタハンの女王事件の殺人③3人目の殺害

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3人目の男性の死因は夜釣りの最中、何らかのトラブルで海に落ちてしまった事による溺死とされています。しかし、この男性は泳ぎが島の誰よりも上手だったという事もあり、溺死はありえないとされています。この時島の住人達はこの男性の死因を不可解に思う事になります。

アナタハンの女王事件の殺人④4人目の殺害

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関係を持った二人の男性が死んだという事もあり、和子は夫婦関係にあるもう1人の男性と落ち着く事になります。しかし、平和な時間はそう長くはありませんでした。今度は和子の夫婦関係にある最後の男性が射殺される事になります。犯人は元コックの男性で、拳銃を持った二人の男性が死んだ後にその拳銃を盗んだとされています。

アナタハンの女王事件の殺人⑤拳銃を捨てても殺人は続いた

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元コックの男性と仕方なく夫婦関係に落ちました。しかしこの元コックも2年後に何者かに殺されます。島にいた男性達はこのままでは殺人が絶えないという危険を感じ、和子に正式な結婚と拳銃の破棄を提案します。そして結婚も済ませ、拳銃は破棄されますが殺し合いは続いていきます。

アナタハンの女王事件が終わった理由

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男性達の争いは米軍の船が島に到着した事によって終焉を迎えます。たった1人米軍に救助された和子は島で起きた事を語り、まだ漂流者がいるという事を伝え、米軍が残りの男性全員を救出しに向かいます。

こうして男性達の争いは終わりを迎えます。こうした男性の独占欲による被害はストーカーと類似する部分があります。下記記事ではストーカーによる事件を紹介しているので気になる方は下記記事もご覧下さい。

和子の逃亡と保護

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拳銃は破棄されたものの、男性達の間では殺し合いが続きます。これではらちが明かないと判断した男性達は、全ての元凶である和子の殺害を計画します。この殺害計画の会話を聞いていた1人の男性が和子にその事実を伝え、和子は男性達からの逃亡生活を始めます。逃亡生活1ヶ月が過ぎた頃、島に米軍が来た事によって和子は無事保護されます。

アナタハンの女王事件の最後の殺人

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和子が逃亡してからも男性達の殺人は続いてしまいます。最後の犠牲者となったのは和子と最後の夫婦関係にあった男性です。殺害された理由として、実はこの男性、和子と関係にあった1人の男性を嫉妬で殺したという疑いがあり、その殺人の罪として斬首刑にされたと言われています。

島へと届けられる家族からの手紙

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米軍は男性達の兄弟や親、妻などの手紙を200通以上持って島にいる男性達を救出しようとしますが、はじめはなかなか信じてもらう事ができませんでした。何度も呼び掛けを行い、遂に呼び掛けに応じ、投降する事になります。その際、手紙を確認した所で、はっきり身内の字だと確認する事ができ、ここでやっと終戦の事実を認める事になります。

奇跡の生還のその後

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島に漂流して7年、無事生き残った男性達は米軍によって救出されました。すぐに帰国という流れではなくグアムの基地に一旦送られます。そして1951年7月26日男性達は羽田空港に到着し、やっと帰国する事になります。到着した際には大勢の人がつめかけ帰国を祝福しました。また、マスコミにも大々的に取り上げられる事になります。

アナタハンの女王事件のその後

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沢山の死者が出たアナタハン女王事件は、米軍の救出、そして家族の手紙の力によって終焉を迎えます。マスコミにも奇跡の帰還と報道され、生還者達は祝福ムードに包まれました。しかし、島にいた人々はその後、波乱な人生を歩む事になります。

帰還した兵士たちを待つ意外な真実

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奇跡の帰還を果たした男性達でしたが、男性達の一部の妻達は夫は戦死したと思い込み、別の男性と再婚をしている状態であったり、自分の弟と結婚していたりと、思ってもみない事態となっていました。また、帰還した男性達は、死亡した男性の事を厳しく尋問される事になります。

アナタハンの女王・女王蜂とレッテル張りをされた和子

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後々それぞれの証言が食い違う所が出てきた為、更に厳しく追求される事になります。そして事件が明るみになります。事件が明るみなった後、マスコミは比嘉和子に対して「アナタハンの女王」、「男を惑わす女性」といった報道をするようになります。

毎日新聞での報道

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この事件をいち早くスクープとして取り上げたのが毎日新聞ですが、実は読売新聞の若手記者が情報をいち早く掴んでいたとされています。情報は掴んでいたものの、上司がデスクに報告しなかった事により、毎日新聞に先越された結果になってしまいます。ちなみに当時情報を掴んでいた読売若手記者は後に読売巨人軍オーナーとなる渡辺恒雄氏です。

アナタハンの女王・比嘉和子とは①生い立ち

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比嘉和子という女性の詳しい情報は沖縄県生まれという事だけです。生年月日は1922年8月5日と発表されていますが、1924年生まれという説も挙がっています。血液型、身長、体重などの細かい情報は判明していません。

マスコミによって様々なレッテルを貼られてしまった比嘉和子ですが、事件が起きる前はパガン島という島でカフェ店員として平凡に暮らしていました。そしてその後運命の男性と結婚をし、その夫の転勤によって、人生の歯車が狂い始めます。

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