乙羽信子の死因や代表作を紹介!宝塚の経歴と映画監督の夫と子供も!

乙羽信子はおしんの晩年役などで知られる昭和の名女優の一人で、1994年に肝硬変で亡くなっています。「愛妻物語」や「落葉樹」など夫である新藤兼人監督の作品に出演し、多くの大ヒットを生み出しました。乙羽信子は宝塚でも活動しており、人気の娘役でした。

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彼にはもう八十四日間も一匹の魚も釣れない日続いていた。 釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。
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乙羽信子とは?元宝塚の映画女優!

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今からさかのぼる事25年前に、死因は肝臓がんでお亡くなりになった大女優の方で、昭和を代表する方に乙羽信子さんという方がいました。

宝塚にも所属していて、錚々たる面々と肩を並べて大活躍しておりました。

演技力がとても高い女優さんとしても名高く、乙羽信子さんの凄さを拝める作品には「裸の島」があります。

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セリフがまるでないという演者の力量がなければ務まらないものでしたが、見事に演じ切りました。

今回の記事では、歩んできた道のりや、死因について、さらには夫についても触れていきます。

また、名言なども揃えて見ましたので、ご覧いただければ、あなたの人生において何かインスピレーションを与えてくれるかもしれません。

乙羽信子とはどんな女優だった?

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すでに肝硬変が死因で、この世を旅立ってしまわれましたが、現世の多くの人々に素晴らしい影響を与えました。果たして、どのような死因によってお隠れになったのでしょうか。

まずはどんな舞台で活躍したか経歴についてざっと触れていきます。私生活では大女優でありながら、夫を持ち妻ともなりました。

乙羽信子とは①昭和の映画・ドラマに出演した大女優

画像は、「残菊物語」で「お徳」を演じた時の乙羽信子氏で、ショービジネスの歴史を感じされるようなワンシーンです。

前述で述べた通りさまざまな映画にも出ましたが、実はドラマにも出演し熱演していました。

ご存知のかたも多いと思いますが、戦争のさなかとその後をたくましく渡り歩いた女性の生い立ちを描いた「おしん」でも携わっていて、乙羽信子さんの経歴に彩を添えています。

乙羽信子とは②愛称はオカジ

左は「画報近代映画」の表紙になったときの絵で、健康的で現代でも映えそうなお顔立ちをしております。右画像は、後年のカットで、時の流れを感じさせます。

芸名は乙羽信子ですが、本名の苗字は加治と言います。それに「お」を付けて、このような呼び名で親しまれていました。

乙羽信子とは②出身は宝塚

宝塚時代のワンカットで、乙羽信子さんの表情から穏やかな安堵を享受してもらえるような印象を受けます。

生い立ちを少々述べますと、出自は違うエリアなのですが、神戸に住む機会を得て、宝塚を観ることをたびたび経験しました。

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いつしか、少女乙羽信子は、その世界に憧れるようになり、最終的には入学することができました。

ところで宝塚ファン必見の演目と言えば、雪組などで行われた「ボニー&クライド」をご存知でしょうか。

こちらに「ボニー&クライドの記事が掲載されていますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。また、記事の中に、宝塚で演じた詳細についても載っていますのでお楽しみください。

乙羽信子とは③53歳で結婚

忙しく活動をしていたこともあり、婚期は遅かったです。夫は映画監督でもある新藤兼人氏になります。上の画像は、「午後の遺言状」の撮影中にお二人が写っているものです。

乙羽信子とは④1994年に肝硬変で死亡

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死因は、肝臓を悪くしてしまったことで、74歳という年齢で、波乱万丈の乙羽信子さんの人生は幕を閉じました。

しかし、ずっと駆け抜けてきて、身体に鞭打って生きてきた人生としては、なかなか長寿であったともいえるのではないでしょうか。

乙羽信子の経歴は?なぜ宝塚を脱退したの?

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宝塚を経て、俗に言う清純派として躍進し、後期にはリアリティのある実力派として変貌していった乙羽信子さんのより詳しい経歴について迫っていきます。

また、宝塚を退団し、その後は大映も大社しましたが、その背景にはどのような経緯があったのでしょうか。

乙羽信子だんは、数々の栄誉のある賞も獲得していますので、そちらもご紹介していきます。

乙羽信子の経歴①宝塚退団後大映から純情型女優としてデビュー

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1937年に入学後、「宝塚花物語」が乙羽信子さんの学校での初舞台となりました。ちなみに入団したとき、93人の中では、中よりやや低いランクでした。

同じ時期に入った時でも、デビュー演目はそれぞれ人によって異なるようです。

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終戦後の公演では、娘役の中でトップに位置するまで出世し、戦後の黄金期と言われる時代の最初のタームで活躍していました。

自身の娘役としての存在感にかげりを感じ始め、「雨月物語/キュウバ/人魚姫」を機に退団しました。

まるで、一足先に抜けて松竹に属した、淡島千景さんを手本にしての、行動ではと言われていました。乙羽信子さんに関しては進んだ先は、大映になります。

乙羽信子の経歴②キャッチフレーズは「百万ドルのエクボ」

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大映に入るからのチャームポイントとして話題にあがっていたのは、乙羽信子さんのえくぼでした。やはり、いつの時代もえくぼというものは人の心を掴むものなのかもしれません。

そこで、「百萬弗のゑくぼ」という通りなのもと、乙羽信子さんはピュアな感じのスターとして飛び立ちました。

乙羽信子の経歴③新藤兼人作品への出演で大映を退社

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後の夫となる兼人氏が造った「近代映画協会」が生み出した第一回目となる自主制作の作品となった「原爆の子」に、乙羽信子さんは参加します。

少々問題があり、大映は乙羽信子の出演に賛成しませんでしたが、反対をつっぱねて実行し、それを転機として大映を辞めてしまいました。

乙羽信子の経歴④ヌードもこなす体当たりな演技が話題に

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退社後も、「近代映画協会」との関りは続いて、精力的に作品に参加していきます。

清純的なイメージからは一変して、乙羽信子のスタイルはリアリティのある実力派へと変貌し、最終的には日本の映画界の偉人として、未来永劫、人々の心に残る存在となりました。

乙羽信子の経歴⑤「裸の島」でモスクワ国際映画グランプリ受賞

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非常にアーティスティックで、演者の質がより重要とされる「裸の島」で乙羽信子さんはアクトレスとして輝きを増しました。

作品自体、世界での評価も高く、インターナショナルムービーにおける賞まで授与されることになります。

ヴェネツィア国際映画祭イタリア映画ジャーナリスト選出最優秀女優賞を受賞

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乙羽信子さんが結婚してからの、再起動の作品である「絞殺」で、さらに高みに昇りつめます。

映画の世界でも栄えあるものとされる、ヴェネツィアで開催された映画祭で、ジャーナリスト達が選んだアクトレスを称賛する賞を授かることになります。

乙羽信子の代表作①代表映画一覧

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言わずと知れた大女優と言われる所以になった、乙羽信子さんの出演映画の数々を、時には評価も交えてご紹介していきます。

乙羽信子の代表映画①1950年「處女峰」(デビュー作)

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富田常雄氏が著した「處女」という小説を映画化したもので、著者は有名な「姿三四郎」の原作者でもあります。

3人のハイソな姉妹たちに恋慕されている青年実業家が、最終的に長女を傷つけてしまうという色恋のストーリーです。

長女と男性がもともといい名づけという間柄だったのですが、彼が本当に好きなのは、乙羽信子さんが演じる二女でした。

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50年代、特に初頭では女性の潔白性や純潔といったものが、特に注目を集めていて処女性とは、当時の一種のセンセーショナル事項となっていました。

そこで、乙羽信子という清純派で名を馳せていた女優を起用することで、なおさら話題を集めました。

現代の感覚とは違って、女性に対する隔たりを象徴しているかのような時代でした。

乙羽信子の代表映画②1951年「愛妻物語」

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新藤氏が監督をしていて、かつ自身の自伝を投影した内容となっています。役者陣には宇野重吉さんと乙羽信子さんが参加しています。

ここでの乙羽信子さんの役は、なかなか日の目をみないシナリオライターを影から、ひたむきに支える女性を演じています。

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結局、無理がたたってか、病にかかり倒れてしまうのですが、パッションに溢れていて人々の心を打ち評判でした。

夫となる兼人氏とのなれそめのターニングポイントとなった作品でもあります。

乙羽信子の代表映画③1952年「原爆の子」

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こちらも新藤氏が脚本をしていて、乙羽信子さんももちろん出演しています。実際に原爆によって苦しんだ広島の子供たちが書いた作文をベースにして、手掛けられました。

繊細なテーマですが、非常に高い評価を得て、チェコスロバキアで映画における平和賞、ひいては英国アカデミーによる国連賞まで獲得した、世界的にも重要な位置づけのムービーです。

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主人公は広島に住んでいたのですが、原爆が投下されてファミリーの中で一人だけ生き残りました。主人公の孝子を乙羽信子さんが演じています。

戦いが終わり、瀬戸内海に浮かぶ小さな島で、小学校の教師と働く日常を送っていました。しかし、ふと夏休みを利用して故郷を訪れることになります。

被災したころは幼稚園に勤めていて、当時の園児たちの今の状況を知りたいと思い、行動に起こしていきそこでさまざまな経験をしていくというお話です。

乙羽信子の代表映画④1954年「どぶ」

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愛妻でも出演した、宇野さんと乙羽信子さんが再び出演し、脚本は兼人さんです。ここでは演じ手として乙羽信子さんのステップアップにつながるような配役に挑戦しました。

知恵遅れという、演じる場合はとても難易度の高い仕事をやり遂げ、乙羽信子さんがさらに独特の魅力を開花させるターニングポイントとなりました。

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純真で無垢な女性によって、周囲の者たちの心が揺さぶられて、改心して真面目に真摯に生きて行こうという流れに、多くの日本国民の心を刺激しました。

戦争が終わったばかりの鶴見区にあったある部落を新藤氏が自ら取材をしてたというリアリティが滲み出ています。

ギャンブルに目が無い男性、知恵遅れの女性、新興宗教を盲信する老女、すごい俳優だと自称する男性など荒廃したエリアにいる面々の人間模様を表した力作です。

乙羽信子の代表映画⑤1966年「本能」

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40代になりさらに魅力が増して、まばゆくなってきました。そんな矢先に、観世流能楽師の観世栄夫さんと共演した力作になります。

原爆の後遺症で性的な機能不全を抱えている男性を、再び甦らそうと奮起する、とてもユニークな役どころになっています。

絶望の淵にいる、自信もなにもかくもどこかへ忘れてしまった人に発破をかけるという繊細かつ大胆なお話です。

乙羽信子の代表映画⑥1972年「鉄輪」

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ちなみに、「鉄輪」と書いて「かなわ」と読みます。

古典芸能の名作を骨組みにかかえこみ、過去と現代を交えながら、男女の機微が展開していくという、とても特殊でユニークなものとして話題にあがりました。

この頃からカラーでの映像が普及し始め、新藤氏にとってもカラー作品の処女作となるものになっています。再び、役者には観世さんが出演しています。

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艶やかで、あやうい濡れ場は世間の目を釘付けにし、乙羽信子さんの大人の色気が世間を魅了しました。

夫を奪われたジェラスによって、泥棒猫を藁人形を用いて、呪い殺そうとする、鬼気迫り常軌を逸しているインパクトのあるシーンは必見です。

70年代初頭にこれだけ豪快に性描写を取り入れてるのは、新藤氏ならではと言った所ではないでしょうか。

乙羽信子の代表映画⑦1979年「絞殺」

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前述の通り、日本という枠を超えて、世界で非常に絶賛され、賞という形で明確にその才能を世に認識させました。

今回も代用者がいないほどスキルフルなもので、恐ろしさのあまりおしっこをもらしてしまうという、非常に困難な役さえ演じ切りました。

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ここでの情交シーンも逸品で、いやらしいという感じと言うより、まさにアートと感じさせる圧巻な雰囲気があります。

開成高校生が殺害された事件を参考に新藤さんが、閉鎖されてしまっているような世界の中での、人現関係の崩壊をテーマに脚本を書きました。

息子の同級生の少女が義父に犯され続けていて、ついには少女が義父を殺してしまったことが発端になっています。

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息子は憤りをぶつけるが如く自身の親に暴力を振るいだし、実の母を犯そうしようとするまでに至ります。

息子の行いに対して、危険を感じた父親は殺害してしまいます。母は、息子を返せと父に責めよって、ついには後を追うように死んでしまいました。

殺したところで、何の解決にもならないということが視聴者の心にグサッと刺さります。首を吊って自殺してしまった母役を乙羽信子さんが演じてます。

乙羽信子の代表映画⑧1986年「落葉樹」

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新藤さんが自身の幼き日を参考にして描かれています。年齢を経た作家が遠い日を追想し、今は死んでしまった母を想いい起こすという、涙無くしては見れないような感動作です。

貧困によって家族は散り散りになり、家だけでなく土地まで放棄するといった、過酷な少年期に焦点があたっていきます。

少年の母親役は乙羽信子さんで、優しく、時には厳しい、海のように壮大な母を見うけることができます。

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60を超えているにも関わらず、少年と真っ裸で入浴しているシーンまであり、相変わらず脱ぎっぷりの良い女優としても健在でした。

乙羽信子の代表映画⑨1992年「釣りバカ日誌5」

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西田敏行さんと三國連太郎の名コンビで知られている、浜ちゃんスーさんが至る所を訪れては、人間らしく温かい物語を見せてくれる痛快なシリーズです。

この頃には、すっかり母親役としてもお茶の間に認知されていることもあり、乙羽信子さんは浜ちゃんの親として姿を見せております。

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浜ちゃんの母が、孫の育児のために九州からやってくるのだが、ぎっくり腰のため助けることができなくなりました。

しかたなく浜ちゃんは自身の会社に息子を連れて行くのだが、そこで起こるどたばた劇を面白くユーモラスに描いた、ほっこりする映画です。

乙羽信子の代表映画⑩1995年「午後の遺言状」(遺作)

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残念ながら公開される頃には、死因は肝臓を悪くして、すでにこの世にいませんでした。最後まで名女優として、乙羽信子さんは人生の大半を映像に捧げました。

アクトレスの主人公が所有する別荘、委託でマネジメントしてる人物の役でした。

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オーナである主人公に対してもはっきり発言をする爽快な女性の役で、世間の心を代弁しているようで受け手の心を鷲掴みにしました。

ところで映画と言えば、キャンプなどしながら映画をみることができる機器でポータブルプロジェクターというものをご存知でしょうか。

もし、これから使ってみたいとご興味のある方や、購入を考えている方がいらっしゃいましたら、こちらの記事も是非あわせてご覧ください。

乙羽信子の代表作①代表ドラマ一覧

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ドラマの世界でも乙羽信子さんは、頭角を現していて、日本のお茶の間に広く知られていくことになりました。

無数にある乙羽信子さんがドラマの数々を、世間の評判を交えながら述べていきます。

乙羽信子の代表ドラマ①1968年「肝っ玉かあさん」

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プロデューサーは石井ふく子さん、主役に京塚昌子さんで、乙羽信子はそば屋さんの職人の妻をとして出ました。作中での白無垢姿シーンもあり、ファンの方は必見とも言えます。

夫婦喧嘩が絶えないながらも、本当の愛とは何かを視聴者に教えてくれるような、夫婦像を提供しました。

基本的に切迫したシリアスな役が多い乙羽信子さんが、ここでは親近感の湧く、感情豊かな女性を表現していて、演技の幅の広さをうかがわせていました。

乙羽信子の代表ドラマ②1980年「遠くはなれて子守唄」

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絶大でカリスマ的な人気を誇っていた西城秀樹さんが、俳優へトライしていった時期のドラマです。

ヒデキさんの母役を受け持ったのが乙羽信子さんで、センシティブな心のフローや変化をすばらしい手腕で魅せています。

母の思う、息子の成長に対する寂しや不安は、見る者の共感を呼び、乙羽信子さんを見守るような温かい目でテレビジョンに釘付けになった方々も少なくありませんでした。

乙羽信子の代表ドラマ③1981年~1982年「女たちの海峡」

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当時すでに60歳にさしかかろうとしていた時期にも関わらず、フラメンコの踊り手という身体的にハードな配役に抜擢されました。

裏側では、年を経ているにもかかわらず、一日10時間以上もプラクティスを重ねるという、大変な努力をされていました。

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やはり、無理がたたったのか、疲労骨折まで起こしてしまいました。役者に対する、なみなみならぬ情熱を感じる姿に、視聴者は舌を巻きました。

練習相手の方がもうやりたくないと思うほど、稽古かさねるようなバイタリティをもっているという話を聞くこともあります。

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かかとが使い物にならなくなるまで、フラメンコの練習をする時もあって、その情熱はどこから生まれてくるのか興味を持たれた方もたくさんいました。

物語自体は、実の血のつながった母を探す娘に、恋心を抱いてしまう義弟のという禁断の愛を描いたものです。生まれの秘密を抱えたまま、心が揺れ動く女心を描いている作品です。

育ての母親役にミヤコ蝶々さんを起用し、実の母親役に乙羽信子さんとなっており、娘はスペインに母を探しに旅立つという展開になっています。

乙羽信子の代表ドラマ④1981年~1985年「サザエさん」

国民的漫画としても、知れ渡っていますが、実は幾度か実写化もされていて、乙羽信子さんがナミヘイを夫に持つフネ役で出演したこともありました。

ナミヘイには、小林亜聖さんが起用されて厳格な父親像にぴったりでした。現代の若い方も大半の方は知っていると思いますので、まずはこちらから拝見してみるのも良いかもしれません。

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官能的な役を演じてた一方で、優しく温かさが滲み出る母親役まで演じる乙羽信子さんは幾人かの女優を目指す人たちの憧れでもありました。

この頃には、巷でも乙羽信子さんが素敵な母親としてのイメージが広く浸透していったころでもありました。

乙羽信子の代表ドラマ⑤1983年~1984年「おしん」

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エヌ・エッチ・ケーにおいて、もっとも大盛況だったドラマと言えば、真っ先ににあがる作品です。

今では、世界各国でも人気を博している、日本の当時の背景をも窺える文化的にも重要なドラマとなっております。

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主人公のおしんは、生い立ちから育っていくにつれて、違う女優さんが段階を経て演じてきました。乙羽信子さんの担当は、年齢的にも晩年にあたる時期を受け持ちました。

どこの時期も大役ではありますが、人生の締めくくりの時期にあたる部分を、素晴らしい演技で人々に魅せて、世間は大女優の力を再確認するに至りました。

乙羽信子の代表ドラマ⑥1987年~1990年「浅見光彦ミステリー」

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近年だと、沢村一樹氏や中村俊輔などイケメンと言われる人が全シリーズにおいて主役をはっていた、内田康夫氏作の浅見光彦シリーズにも登場しました。

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昔から名俳優で老いてますます勢いが増している「相棒」が当たり役の水谷豊さんが主演の時に、母親役をしました。

浅見光彦作品のファンの方々からは、乙羽信子さんの母役がはまりすぎていると評判でした。

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