乙羽信子の死因や代表作を紹介!宝塚の経歴と映画監督の夫と子供も!

乙羽信子はおしんの晩年役などで知られる昭和の名女優の一人で、1994年に肝硬変で亡くなっています。「愛妻物語」や「落葉樹」など夫である新藤兼人監督の作品に出演し、多くの大ヒットを生み出しました。乙羽信子は宝塚でも活動しており、人気の娘役でした。

この記事をかいた人

彼にはもう八十四日間も一匹の魚も釣れない日続いていた。 釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。

乙羽信子とは?元宝塚の映画女優!

Free-Photos / Pixabay

今からさかのぼる事25年前に、死因は肝臓がんでお亡くなりになった大女優の方で、昭和を代表する方に乙羽信子さんという方がいました。

宝塚にも所属していて、錚々たる面々と肩を並べて大活躍しておりました。

演技力がとても高い女優さんとしても名高く、乙羽信子さんの凄さを拝める作品には「裸の島」があります。

TygerTy / Pixabay

セリフがまるでないという演者の力量がなければ務まらないものでしたが、見事に演じ切りました。

今回の記事では、歩んできた道のりや、死因について、さらには夫についても触れていきます。

また、名言なども揃えて見ましたので、ご覧いただければ、あなたの人生において何かインスピレーションを与えてくれるかもしれません。

乙羽信子とはどんな女優だった?

geralt / Pixabay

すでに肝硬変が死因で、この世を旅立ってしまわれましたが、現世の多くの人々に素晴らしい影響を与えました。果たして、どのような死因によってお隠れになったのでしょうか。

まずはどんな舞台で活躍したか経歴についてざっと触れていきます。私生活では大女優でありながら、夫を持ち妻ともなりました。

乙羽信子とは①昭和の映画・ドラマに出演した大女優

画像は、「残菊物語」で「お徳」を演じた時の乙羽信子氏で、ショービジネスの歴史を感じされるようなワンシーンです。

前述で述べた通りさまざまな映画にも出ましたが、実はドラマにも出演し熱演していました。

ご存知のかたも多いと思いますが、戦争のさなかとその後をたくましく渡り歩いた女性の生い立ちを描いた「おしん」でも携わっていて、乙羽信子さんの経歴に彩を添えています。

乙羽信子とは②愛称はオカジ

左は「画報近代映画」の表紙になったときの絵で、健康的で現代でも映えそうなお顔立ちをしております。右画像は、後年のカットで、時の流れを感じさせます。

芸名は乙羽信子ですが、本名の苗字は加治と言います。それに「お」を付けて、このような呼び名で親しまれていました。

乙羽信子とは②出身は宝塚

宝塚時代のワンカットで、乙羽信子さんの表情から穏やかな安堵を享受してもらえるような印象を受けます。

生い立ちを少々述べますと、出自は違うエリアなのですが、神戸に住む機会を得て、宝塚を観ることをたびたび経験しました。

pavstern / Pixabay

いつしか、少女乙羽信子は、その世界に憧れるようになり、最終的には入学することができました。

ところで宝塚ファン必見の演目と言えば、雪組などで行われた「ボニー&クライド」をご存知でしょうか。

こちらに「ボニー&クライドの記事が掲載されていますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。また、記事の中に、宝塚で演じた詳細についても載っていますのでお楽しみください。

乙羽信子とは③53歳で結婚

NEXT 乙羽信子とは③53歳で結婚