乙羽信子の死因や代表作を紹介!宝塚の経歴と映画監督の夫と子供も!

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表立っては、光彦に棘のあるいやらしい接し方をするのでが、裏では力強く支えたり、尽力してくれる、人々がうらやむような母親像をのぞかせてくれました。

乙羽信子の生い立ちは?どんな性格だったの?

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世に名を残し、内外ともに羨望の的であった大女優として君臨した、乙羽信子さんとはいったいどのような生い立ちを持っているのでしょうか。

ここでより詳しく、どのような経歴を重ねて、絶えず輝いていたのについて述べていきます。また、子供のころから宝塚に興味を抱いていたのは環境が起因しているようです。

乙羽信子の生い立ち①大阪育ちで神戸市の饅頭屋の養女になる

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生い立ちは、鳥取県の昔でいう西伯郡米子町で24年の10月に生を受け、星座はてんびん座です。補足すると現在は、町ではなく米子市となっているエリアです。そこから養女になり大阪に移りました。

養女というと、辛く厳しい生い立ちをご想像された方もいるのではないでしょうか。

乙羽信子の生い立ち②小学校時代から日本舞踊を習っていた

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後のアクトレスの経験の糧にもおおいになっているようにうかがえますが、幼少期から日本舞踊に触れていました。

当時、そのような習い事ができることからも、生い立ちてきには生活に余裕のある環境で育ったように見受けられます。

乙羽信子の生い立ち③1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学

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大阪に移ってからは、当時の育ての父の姉にあたる人物に連れられて、宝塚に赴いていたようです。

そこで、華やかなステージで人々を魅了する女性たちに目を輝かせて憧れるようになり、いつしか自身もこの世界へと思うようになりました。

年ごろになると、宝塚音楽歌劇学校に挑戦をして夢の第一段階が入学が叶うことになりました。

乙羽信子の生い立ち④初舞台は『宝塚花物語』その後トップ娘役に

初舞台を経て、その清楚な出で立ちもあってか、娘役として存在感が増していきました。

良くしてくれる人にも恵まれていたようで、退団後には後押しして陰ながら応援していた方にも恵まれました。乙羽信子さんの人柄は周囲の人をも魅了していたのかもしれません。

乙羽信子の宝塚時代の代表作・同期は誰?

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27期生は、一度は名前を聞いたことがある方も多いかもしれません。

越路吹雪さん、月丘夢路さんを初め、瑠璃豊美さん、東郷晴子さん、大路三千緒さん、浦島千歌子さんなどスター揃いで、輝かしい経歴を持った人が多くいました。

特に越路吹雪(こしじ ふぶき)さんは、当時の男役のトップスターとして絶大な人気を誇り、「シャンソンの女王」と呼ばれて人々から敬われてました。

圧倒的な歌唱力と表現力とルックスを武器に、当時の宝塚ファンは虜になっていました。

乙羽信子の生い立ち⑤「雨月物語/キュウバ/人魚姫」を最後に退団

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ラストの舞台となった、「雨月物語」と「キュウバ」と「人魚姫」の3種の作品からなるもので、宝塚での経歴の集大成的な作品になったかもしれません。

それぞれ違った雰囲気や趣向がありますので、演じての技量が問われる演目とも言えます。後年、多種多様な役をこなしていった、乙羽信子さんに相応しい締めだったかもしれません。

そして、さらなる躍進のため、次のステージを大映に移しました。今となっては、この決断は英断だったと誰もが言い切れるでしょう。

乙羽信子の結婚生活は?子供はいるの?

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芸能人の私生活に好奇心を抱いてしまう方も少なくないと思います。ここでは、夫妻のなれそめの感じや、結婚生活についてクローズアップしていきます。

また、お子さんがいるのかについても気になる方もいると思いますので、そちらについても触れていきます。

乙羽信子の夫は映画監督の新藤兼人

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夫は再三述べてきていますが、新藤兼人氏であり、ある意味二人の経歴は、乙羽信子さんがスターとしての輝きが増す程、夫兼人氏も巨匠としてより大きくなっていったようにも見えます。

「愛妻物語」をキッカケに知り合う

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直接的なきっかけとなったのは、1951年に公開された「愛妻物語」がきっかけだったと言われています。

ある意味、夫と妻に関する作品を機に、時を経て交際まで発展して、結婚に至るなんて、ぱっと見ではとてもロマンチックなことではないでしょうか。

乙羽信子は「原爆の子」の出演時には交際していた?

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大映を反対を押し切る強気な行動に出れたのはなぜでしょうか。実は、すでに兼人氏と交際をされていたのが関係しているのかもしれません。

たしかに乙羽信子さんは、実力もあるので、どちらにしても押し切ってしまえたのかもしれませんが、新藤氏との仲が関係している可能性は濃厚です。

実際、大映を退社後は、新藤氏の近代映画協会にたびたび携わっていますし、すでに何かしらの展望を予見していたのかもしれません。

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役だけでなく、自身の人生の経歴においても荒波を乗り越えていきました。

乙羽信子の夫・新藤兼人には出会ったころに妻がいた

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交際をされていた当時は、まだ他の女性と婚姻関係にあり、しかも兼人氏は二子の父親でもありました。

俗に言う不倫にあたるので、今でもワイドショーなどでは大騒ぎになるような話なので、当時と言えど、お忍びで注意をしながらデートを重ねていたのかもしれません。

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さらに新藤氏の交際が始まった時の妻はすでに二人目の妻でした。そして、その妻との結婚から3~4年後には乙羽信子と交際に至っています。

確かに、結婚して楽しいのは3年までとは言われますが、そんな倦怠期とは別に、乙羽信子さんには特別運命的に惹かれる者があったのでしょうか。

後程、その後の夫妻となってからの、状況についても迫っていきます。

乙羽信子は新藤兼人と出会って27年目、妻との死別と共に結婚

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兼人氏は、頻繁に乙羽信子さんを自身の作品に起用していきました、その間も二人の男女としての関係はずっと続いていたようです。

つに72年には離婚をするのですが、子供のことが気になってか、乙羽信子さんは求婚に対して首を縦に振ることはなかったそうです。

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しかし、それから6年後に自体が動き出しました。それは新藤さんの元妻が亡くなってしまったのです。

それを機に、夫65歳、妻53歳という晩婚となりました。最初の出会いからなんと、30年にも差し掛かるような年月を得てついに結ばれました。

前の妻の子供達からは

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実は結婚に踏み切ったのは、新藤さんの子らの影響がかなり大きかったと言われています。

ある日、兼人氏とその子供たちと、乙羽信子さんで食事になった時があったのですが、その時に子供たちが二人の結婚について後押ししてきたそうです。

子供を理由にプロポーズを断り続けた乙羽信子さんからしたら、子供にまで迎えられているという状況になっているので、決意をせざるを得なかったのかもしれません。

乙羽信子は結婚後も別居していた?

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実は結婚後に二人のライフスタイルが急変するということはありませんでした。式をあげることもなく、結婚したからと言って一緒に住むという流れにもなれませんでした。

二人とも表現者もしくは創作者としての環境づくりなのか、兼人氏は逗子で、信子さんは渋谷で住むという、はたから見たら不思議な関係になっていました。

大多数の人からしたら、想像しがたい、特別な絆で結ばれていたのかもしれません。

乙羽信子の血のつながらない息子は近代映画協会の新藤次郎

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すでに50代に入っていたからか、入籍をしても子供産むことはしなかったようです。

もしくは、高齢出産の懸念以前にどちらにしても、子を作ることは、何らかの考えのもと想定には入っていなかった可能性もあります。

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乙羽信子さんは、前妻の子である次郎さんを自身の子のように育てたそうです。それが、母役の芝居のリアリティに拍車をかけていたのかもしれません。

月日が流れてから、「近代映画協会」の事業は、息子である次郎氏に引き継がれ存続をしているそうです。

新藤次郎の娘も映画監督に

ぎんこさんという娘さんがいるそうですが、詳しいことはわかっていません。

ただ、「転がれ!たま子」で脚本をかいているのが、「しんどうぎんこ」という方で、新藤兼人さんの娘なのではないかと囁かれています。

しかも、次郎さんの息子にあたる「風さん」が監督をしているので、なんらかの関りのあることは非常に濃厚のように見受けられます。

乙羽信子の夫、新藤兼人は2012年に100歳で老衰で亡くなった

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2012年になんと百歳というとても長生きをして、お亡くなりになられました。葬儀には錚々たる面々が参列し、兼人さんの凄さを物語っているようでした。

日本政府は、多大なる業績に対して、従三位に追叙という閣議決定まで行いました。国まで関係してくるほど、映画業界の傑物だということを改め世の中の人々は認識させられました。

乙羽信子さんのように死の際まで、映画に従事していたという、生粋の人物だったというエピソードを一つご紹介します。

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寝たきりの状態で身体もままならなくなってしまっても、舞台を夢の中に移し、そこでシナリオを思い描いて、演出に精を出していたと言われています。

新藤兼人の自伝「ながい二人の道 乙羽信子とともに」

ながい二人の道 乙羽信子とともに

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東京新聞の出版局から出されたもので、新藤氏の頭の中で描いていたことや考えていたことが詰まった、至極の一冊となっております。

数々の名作に関するエピソードを交えながら、乙羽信子さんとともに歩んだ道のりについて書かれていて、改めて人生とは何かを考えさせられるようなおすすめの書籍です。

乙羽信子の最後の活動は?死因は肝臓がんだった?

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実は、死因になった癌になってからも撮影を続けていたそうです。まさに、強固な役者魂を持った方だったと言えます。実際に、どの映画の撮影時のことだったのでしょうか。

果たしてどのような最期を迎えたのでしょうか。ここでは死因についてより詳しくご説明していきます。

乙羽信子は「三文役者」でがんを悟らせぬ演技を披露

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時は平成になり、ドクターからは末期だと宣告を受けてしまいましたが、仕事を休むことはなかったそうです。

想像するだけで壮絶ですが、週に一度抗がん剤を用いながら、激しい痛みに耐えて、映像に携わっていました。

入院して仕事を辞めて床に伏しながら死を待つよりも、女優として最後の最後まで活動することを選びました。

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身内にあたる人々と病院の関係者以外には、末期ということは知っている者はおりませんでした。そして、命を燃やしながら仕事に除む彼女をご家族は制止することはできませんでした。

「三文役者」の時も、病気による苦しさから出てしまうような表情は一切見せなかったため、共演した人や、この映画に携わる人には気づかれないままでした。

実際、この作品は後に公開となったのですが、観たものは乙羽信子さんが苦しみをおくびにも見せない演技に、驚愕と共に、涙した方までいたそうです。

乙羽信子は「午後の遺言状」完成直後に上映を待たずに亡くなった

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映画が公開されたものを自身で触れることなく、穏やかに息をひそめて亡くなられたそうです。

若い時から芝居に殉じ、輝かしい経歴や功績を残した大女優は、死ぬ間際まで女優でありました。

そして、最後の映画を見届けることのないまま、女優として前のめりのまま亡くなるという生き方は、人々の心に何かを訴えかけるような生き様と言えます。

乙羽信子は死亡後に「日本アカデミー賞助演女優賞」を受賞

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有名な画家たちと同じように、亡くなってからも賞を受けた女優として、世の人々には作品とともに永遠胸に刻まれていくのでしょう。

自身の生き方や最後の在り方まで自身をつらぬき、死因が肝臓がんで亡くなってから賞をもらったことさえも、きっと本望だったかもしれません。

乙羽信子の死因は肝臓がんによる肝硬変

日本でも肝硬変が死因になることが多いのはなぜなのでしょうか。

それは、沈黙の臓器と言われるため、痛みや症状が出にくい為、発見が遅れがちになるので、どうしても死因として多くなってしまうからです。

乙羽信子さんが、いつ異常を感じた不明ですが、女優街道をずっとつっ走ってきた彼女にとって、肝臓がんが発覚するのは難しかったのかもしれません。

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さらに、映画を最優先していたため、治療がなかなかできなく悪化していき、それが死期を早めた死因でもあります。

乙羽信子の墓は京都市にある

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肝臓がんが死因でこの世を去り遺体となりますが、大半は京都市にあるお墓に収められることになりました。

しかし、遺骨の一部はある場所に散骨されることになりました。その場所とは、いったいどこでしょうか。

乙羽信子の遺骨の半分は「裸の島」の宿祢島に散布された

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代表的なものでもある「裸の島」と撮った場所である、広島県にある三原市の宿祢(すくね)島に、遺骨の半分は撒かれることになりました。

本人の希望を組んでか、ご遺族の気持ちから散骨されたのか定かではありませんが、きっと乙羽信子さんも安らいでいることでしょう。

乙羽信子の名言集

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世に生を可憐な生い立ちを得て、清純派として頭角を現し、一変して演技派として輝き続け、肝臓がんが死因になって亡くなるまで生涯走り続けてきました。

そんな彼女の残していった名言を辿っていきます。とても深そうな意味を持つものから、人に力を与えてくれそうなものまで余すことなくご紹介します。

「好かない男が山ほどの砂糖を運んできても、好いた男の塩の方が甘い。」

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これは寄ってくる男性の言葉について述べたのでしょうか。好きでもない男性から甘い言葉を聞かされるよりは、好いている人の叱咤の方が心地よく感じるということかもしれません。

それはまるで、兼人監督に対して信子さんの想いを語っているかのようにも感じます。

「いつも闘いです。自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか。」

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肝硬変が死因で亡くなる前まで、自身と戦い続け、素晴らしい作品を提供し続けた、乙羽信子さんらしい言葉と言えます。
絶えず革新的で、自身の既存の殻や経歴を生い立ちすらも刷新して、幅を広げていた彼女の生きざまを物語っています。

えくぼのお話

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乙羽信子さんといえば、「100万ドル」と言われるほどチャームポイントとなった「えくぼ」ですね。基本的には古来から素敵な象徴としてとらえられいたようです。

特に中国のえくぼの話はロマンチックで読む価値があります。他にも、日本や欧米でのお話も載せていますので、是非目を通してみてください。

中国の言い伝えでは

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えくぼは、死ぬ前の全ての出来事を忘れて、穏やかに眠るための配慮を拒否した人に、付けられる印と言われているそうです。

そして、えくぼがある人は冷たい川で千年という長い時間留まらなくてはならなくて、そのペナルティの期間が終了すると晴れて転生できるそうです。

一見、恐ろしい事のように感じますが、この話には続きがあります。

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ある男の人が、女性に向かって、前世でわたしたちは恋人だったかもしれないと、言いました。

男性に、えくぼがあるのは、前世の恋人の記憶を消したくなかったので1000年耐えたためだと語りました。

乙羽信子さんのバイタリティなら前世でそのぐらいの忍耐をもって、恋人のことを忘れないことを決断して、世に生まれた可能性もありますね。

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そして、障壁がありながらも、前世の恋人?であった新藤兼人さんと結ばれたのかもしれません。

1000年も耐えてきたのだから、30年ぐらいだと待ち時間として大した年月ではなかったなんて、この中国の伝説を聞くと勝手に、そんなロマンスを想像してしまうかもしれません。

日本では

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えくぼのお話についてはいくかあり、どれも基本的には素敵な話ばかりなので、もしえくぼがある人がいたらこの話をして喜ばせてあげるのもおすすめです。

代表的なものに、神様が関係している話と中国の伝説のように前世が起因してくるものがあります。それではさっそく見ていきましょう。

神さまの仕業

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神さまの指の跡がついてしまったものだという話があります。はたして、神様が何かを選定するためなのでしょうか、それとも単なるいたずらなのでしょうか。

なぜ、神様の指の跡がついてしまうかというと、あまりにもかわいい赤ちゃんの場合、神様はつい頬を指で押してしまうからだと言われています。

前世の行い

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前の世で親にしっかり食べ物を食べさせていた、まさに親孝行の証として捉えれているエピソードもあります。

そうした善行を前世で行っていたためか、今世ではえくぼがある人は、一生食べることに困らないというありがたい印とされているそうです。

人々が良い行いをすることを心がけるように、良い行いをしたら来世にも反映されると、誰かが考案したストーリーなのかもしれませんね。

アメリカでは

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生まれ出ずる前に、祝福を受けて育った幸運なベイビーのエビデンスとしてえくぼが備わっているという話です。

誰が祝福をして、頬が窪んでしまったかというと、エンジェルによる仕業らしく、彼らが頬にキスをしてしまったためにできるという話です。

いかにもアメリカらしい、素敵なお話ですね。確かに、言われてみれば天使がキスしたような痕跡に見えなくもありませんね。

ヨーロッパでは

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アメリカ合衆国でのお話と少々似ています。こちらもエンジェルによるもので、ただキスをしてできるわけではなく、触れたことによってえくぼが生じるというケースです。

そして、それだけでなく、こちらも日本の前世の行いのような特典付きで、どんなことがあっても神様が守ってくれるというお墨付きを手にすることができるそうです。

警戒されるえくぼもある

国よっては多種多様なエピソードとなって伝わっていますが、基本的にはえくぼの持つ印象は良い事づくしな色合いがつよいですね。

しかし、中にはインディアンえくぼと呼ばれる忌み嫌われるものもあります。はたして、どんな位置にあるえくぼで、どんなデメリットがあるのでしょうか。

インディアンえくぼ

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他の呼び名では鬼えくぼとも呼ばれるもので、このえくぼをもつ女性との結婚は避けるべきだという話があります。

ただ、異性にはとてもモテやすくなるそうです。異性という言い回しからすると、男性が鬼えくぼがある場合は、メリットしかないように思えますが、真相はどうなのでしょうか。

ちなみに、ロケーションとしては目の下ぐらいの頬の高い位置あたりにできるえくぼだそうです。一度、ご自身で鏡で確認してみるのもいいかもしれませんね。

乙羽信子の自伝・著書とは?

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大女優の半生にご興味をお持ちになった方も少なくないのではないでしょうか。ここでは、乙羽信子さんの自身の経歴や人生を綴った本と、対話集についてご紹介していきます。

こちらを手に取りお読みになると、あなたに何か人生において新しい発見を促してくれるようなヒントを与えてくれるかもしれません。

乙羽信子の自伝『どろんこ半生記』

乙羽信子どろんこ半生記 (朝日文庫)

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役柄ではデビューでは、夫を支える妻を演じていましたが、実社会ではどうだったのでしょうか。また、どろんこという言葉のタイトルの選び方に琴線が触れた方もいるかもしれません。

良く上がる話に女優は男性のようなものだという話が出たりしますが、女優然としていた、彼女の素顔は一体どのようなものだったのでしょうか。

通常の女優と言う位置づけではない「大」がつくほどの、尋常ならざるスターであった彼女の生い立ちなどを彼女の口から語ったとても興味深い本です。

乙羽信子と夫との共同執筆『ふたりの居る場所』

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いろいろなシチュエーションの中お二人が語った、とても好奇心をそそられる純然たる対話集です。

監督は夫婦での会話をする場合なかなか本音は出にくいが、どちらかというとトピックを限定して話す方が本音が出るのではないかといったようなことを口にしたことがありました。

それをヒントに、対話という形でいろいろなことを、お二方が語られている作品ができあがりました。

乙羽信子が役として演じられているドラマがあった

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越路吹雪さんを中心にして作られたストーリーのドラマが去年の一月放送されていました。

乙羽信子さんと彼女は密接なつながりにある間柄でした。ここではそのドラマの詳細について語っていきます。

また、乙羽信子さんを演じた女優さんはどなたでしょうか、そのあたりについても迫っていきます。

「越路吹雪物語」

越路吹雪物語

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宝塚だけでなく、終戦後のスター中のスターである越路吹雪さんの半生を描いた作品です。

「おしん」と同様に生い立ちを経て、年齢を経るにつれて演じる女優さんが変わっていきます。吹雪さんの絶頂期には宝塚のトップスターでもある大地真央さんが起用されています。

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幼少時代から始まり、劇団へ入団し、退団後の栄華やジレンマなどの人間模様を描いた素晴らしいドラマです。

乙羽信子さんと越路吹雪さんと宝塚の学校時代からの親友として登場し、重要な存在でした。

乙羽信子役には咲妃みゆ

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宝塚の娘役のトップひた走っていた、乙羽信子さんと同様に、トップ娘役を張っていた咲妃みゆさんが抜擢されることになりました。

すでに退団されていて、初の映像での仕事で乙羽信子さんを演じることになりました。とてもかわいらしい女性で、娘役のトップにとしては、納得といった感じのルックスをしております。

もし、ご興味のある方は「越路吹雪物語」をご覧になってみるのもどうでしょうか。

乙羽信子は今なお語り継がれる名女優!

生い立ちから鑑みると、幼少期から華やかな世界への呼び水に誘われていたようにも見えます。

数々の映画へ出演し、時には栄えある賞も授与されたりと経歴も申し分ない大女優さんと言えます。夫であり監督である新藤氏と仲睦まじく、充実した人生を歩んだのかもしれません。

死因は肝硬変で80歳を迎えることなく亡くなってしまいましたが、もし生きていたら、素晴らしい作品をまだまだ世に残していたことでしょう。

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乙羽信子さんの作品を改めてチェックして、人の素晴らしさや人間の可能性に触れて見るのはいかがでしょうか。

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