くしゃおじさんとは
ちょっと怖いお話かと思った方もいらっしゃるかもしれません。くしゃみをするおじさんでもくしゃくしゃに小さくなっているおじさんでもありません。人離れした技で一世を風靡したおじさんなんです。
くしゃおじさんは顔が一瞬で短くなる一発芸で活躍
普段は普通の顔をしているのに、一瞬で常人では出来ない顔の縮め具合が出来てしまう人なんです。マネしようと思っても、くしゃっとなっている割合が大きすぎて、とてもまねできる物ではありません。この常人離れした芸で大活躍しました。
くしゃおじさんは1970年~80年代のお茶の間で人気
昭和時代の1970~1980年頃に大人気となりました。まるでアニメのように顔が瞬間的に縮む様子はとてもインパクトが大きく、当時のお茶の間で話題を呼びました。珍しい芸風が、子供から大人まで幅広い世代に受け入れられました。
くしゃおじさんはTVで人気者に
人気がうなぎ登りとなりTVでも引っ張りだこに。当時様々なTV番組に出演しています。安心して家族で見られ、それでいてちょっとショッキングな程度が丁度よく、お茶の間受けしました。どんなTV番組に出演していたのか見てみましょう。
くしゃおじさんが出演した番組①「特ダネ登場」
東芝ファミリーホール劇場「特ダネ登場!?」と言う番組に出演したのがブレイクのきっかけでした。舞台に上がっていたくしゃおじさんを番組のプロデューサーが見出して、出演したのが最初のTV出演でした。
奇人変人的な特技を持っている人物を紹介したり、ハンディキャップを持った人が障害を克服し、社会で活躍している人にスポットライトを当てたコーナーが人気でした。この番組に出たことによって、おじさんの認知度が高くなっていきました。
くしゃおじさんが出演した番組②「マチャアキのガンバレ9時まで!!」
堺正章と研ナオコがメイン司会を勤めていた番組で、ブリッジと言う短い2つの場面のつなぎ役として、レギュラー出演していました。この番組のマスコットとしてくしゃ人形が作られており、視聴者へのプレゼントとして送られていました。
くしゃおじさんはなぜあの技を身に付けられたの?
普通の人は顔を縮めるなんて出来ませんよね。下唇を鼻の所まで持ってきて、大体元の顔の大きさの半分くらいに小さくしてしまうなんてすごいです。誰にでも出来るわけでは無い技をおじさんはどうやって身に付けたのでしょうか。
くしゃおじさんは幼少期に川に飛び込んで頭を打っていた
小学校に通っていた頃、2年生の時川で遊んでいる際に飛び込みをやって、頭を打ってしまいました。今でも川に飛び込んで頭をぶつける事故がニュースになったりしますよね。命に関わらずに済んで良かったですね。
この事故がくしゃおじさんへの第一歩となりました。脳天を直撃した衝撃で脳しんとうを起こしましたが、何とか自力で岸まで泳ぎ着いたようです。この時からあごが少し縮められるようになりました。
くしゃおじさんは軍隊時代に落馬で頭をぶつけていた
軍で教育を受けていた時代に馬から落馬してしまい、その時もまた頭を打ってしまいました。この二度目の事故で、子供の頃に落ちてしまったあごが更に落ちてしまいました。過去に何度も頭をうってしまっていたんですね。
くしゃおじさんはその後あご外しを体得した
ケガがきっかけで、おじさんはあごが外せるようになりました。あの顔の縮み具合は、あごを外して行っていたんですね。自在にあごを外せるなんて驚きです。大きな事故でしたが、その経験が後の芸に繋がるなんて、人生どうなるかわからない物ですね。
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くしゃおじさんの生い立ち①幼少期~芸人まで
貴重な体験を経て、芸を身につけたくしゃおじさん。どんな生い立ちだったのか、気になりますよね。生まれたふるさとや経歴、顔を縮める芸の他に得意な芸はあったのか等見ていきたいと思います。
くしゃおじさんの生い立ち①青森出身・本名は成田幸雄
東北の青森県北津軽郡出身です。本名は成田幸雄(なりた こうゆう)と言います。生年月日は大正5年説と大正8年説があります。どちらの説も本人が雑誌の取材で答えています。12月生まれというのは、どちらの取材でも一致しています。
くしゃおじさんの生い立ち②津軽民謡で賞を獲得
成田さんは小学6年生の時、県内で行われた民謡大会に出場しています。まず町の予選を勝ち抜き、群の予選に進みます。そこでもまた勝ち抜いて県大会に出場し、なんと入賞を勝ち取るのです。元々芸達者だったんですね。
県大会で3位までの入賞者にはレコーディングが約束されており、仙台市のレコード会社で「津軽じょんがら」を録音して、レコードを作成しました。芸能界との縁は、小さい頃から培われていました。
くしゃおじさんの生い立ち③卒業後、家業を手伝う
成田さんの実家は青森で建築業を営んでいました。おじさんは高等小学校に通っていましたが、小学校を卒業した後に、家業である建築業を手伝っていました。すぐに芸能界を目指していた訳では無かったんですね。
くしゃおじさんの生い立ち④小学校の教員にもなっていた
おじさんは分教場で先生として勤務していた時代もありました。分教場とは辺地など離れた所に住んでいる生徒や児童の為に、本校とは別の所に設けられた学校のことです。当時「共産党は悪くない」と生徒に発言して、教壇を追われたとインタビューで答えています。
成田さんの芸歴①浪曲師に弟子入り
民謡大会で入賞を果たしている成田さん。元々民謡が得意なおじさんでしたが、大人になってから浪曲師に弟子入りしています。浪曲とは浪花節とも呼ばれ、三味線を弾きながら物語を語る演芸です。
成田さんの芸歴①二代目桃中軒雲右衛門に弟子入り
実家を勘当されてしまった成田さん。浪曲師の二代目桃中軒雲右衛門に弟子入りしました。昭和11年の21才の時でした。1939年に「桃中軒白雲」として活動しています。独立後実家に戻った時には、村中から歓迎されました。
成田さんの芸歴②慰問芸人として満州へ
戦争中は満州鉄道の嘱託となり、浪曲師として慰問に訪れていました。その為召集は免れましたが、教育召集は何度か受けています。その教育召集の際の馬に乗る練習で落馬の事故に遭っています。満州の慰問の時にはまだ顔芸は使われていなかったんですね。
成田さんの芸歴③あご外しは師匠には認められず
落馬の事故に遭い、あごを外せるようになったくしゃおじさん。自分であごを外したり元に戻したりする訓練をしていると、手加減を間違えてペシャッと下あごと上あごがくっついてしまい、あのあごが潰れたような顔が出来上がったようです。その時は自分でもびっくりしたそうです。
敗戦した後も慰問を続けていましたが、浪曲の人気が落ちてきたため苦労を重ねました。そんな中、師匠と一緒に舞台を回っていた際に、あごを外した百面相をお客さんに見せたところとても受けました。しかし師匠からは浪曲師なんだからふざけて人を笑わせるなとひどく怒られたと東スポに答えています。
成田さんの芸歴④師匠の逝去後は一座を解散
二代目が亡くなり一座を率いましたが、正式な襲名かはあやしいところです。この頃に襲名したとすると、もう一人の三代目を名乗る者が存命中なので、二人雲右衛門が居たということになってしまうからです。その後も巡業を続けましたが、2年後に解散してしまいます。
成田さんの芸歴②顔芸がTVで大ブレイク
顔芸がうなぎ登りで人気となり、TVでの活躍が増えると、くしゃおじさんはどんどん活躍の場を広げていきます。中々同じ芸風の芸人さんもいませんし、大ブレイクしました。TV以外にどんな活躍をしていたのでしょうか。
成田さんはホテルの所属芸人になる
成田さんは水上に移り住み、ホテルと専属契約を結びます。浪花節や浪曲を使ったコントや、妻のイヨさんと「東ひょっとこ・おかめ」というコンビを組んでいました。漫才師になったと言っていますが、実際は何でもやる宴会芸のような物でした。
成田さんは「びっくりアワー」に出演し脚光を浴びる
成田さんは水上で舞台に出ていました。その成田さんを番組のプロデューサーが見出して、TVに出演したのがブレイクのきっかけでした。それが「世界びっくりアワー」と言う番組です。この番組は一般の出演者がモノマネや珍しい特技などを披露する番組でした。