ケガがきっかけで、おじさんはあごが外せるようになりました。あの顔の縮み具合は、あごを外して行っていたんですね。自在にあごを外せるなんて驚きです。大きな事故でしたが、その経験が後の芸に繋がるなんて、人生どうなるかわからない物ですね。
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くしゃおじさんの生い立ち①幼少期~芸人まで
貴重な体験を経て、芸を身につけたくしゃおじさん。どんな生い立ちだったのか、気になりますよね。生まれたふるさとや経歴、顔を縮める芸の他に得意な芸はあったのか等見ていきたいと思います。
くしゃおじさんの生い立ち①青森出身・本名は成田幸雄
東北の青森県北津軽郡出身です。本名は成田幸雄(なりた こうゆう)と言います。生年月日は大正5年説と大正8年説があります。どちらの説も本人が雑誌の取材で答えています。12月生まれというのは、どちらの取材でも一致しています。
くしゃおじさんの生い立ち②津軽民謡で賞を獲得
成田さんは小学6年生の時、県内で行われた民謡大会に出場しています。まず町の予選を勝ち抜き、群の予選に進みます。そこでもまた勝ち抜いて県大会に出場し、なんと入賞を勝ち取るのです。元々芸達者だったんですね。
県大会で3位までの入賞者にはレコーディングが約束されており、仙台市のレコード会社で「津軽じょんがら」を録音して、レコードを作成しました。芸能界との縁は、小さい頃から培われていました。
くしゃおじさんの生い立ち③卒業後、家業を手伝う
成田さんの実家は青森で建築業を営んでいました。おじさんは高等小学校に通っていましたが、小学校を卒業した後に、家業である建築業を手伝っていました。すぐに芸能界を目指していた訳では無かったんですね。
くしゃおじさんの生い立ち④小学校の教員にもなっていた
おじさんは分教場で先生として勤務していた時代もありました。分教場とは辺地など離れた所に住んでいる生徒や児童の為に、本校とは別の所に設けられた学校のことです。当時「共産党は悪くない」と生徒に発言して、教壇を追われたとインタビューで答えています。
成田さんの芸歴①浪曲師に弟子入り
民謡大会で入賞を果たしている成田さん。元々民謡が得意なおじさんでしたが、大人になってから浪曲師に弟子入りしています。浪曲とは浪花節とも呼ばれ、三味線を弾きながら物語を語る演芸です。
成田さんの芸歴①二代目桃中軒雲右衛門に弟子入り
実家を勘当されてしまった成田さん。浪曲師の二代目桃中軒雲右衛門に弟子入りしました。昭和11年の21才の時でした。1939年に「桃中軒白雲」として活動しています。独立後実家に戻った時には、村中から歓迎されました。
成田さんの芸歴②慰問芸人として満州へ
戦争中は満州鉄道の嘱託となり、浪曲師として慰問に訪れていました。その為召集は免れましたが、教育召集は何度か受けています。その教育召集の際の馬に乗る練習で落馬の事故に遭っています。満州の慰問の時にはまだ顔芸は使われていなかったんですね。