重信房子の現在は?活動と生涯を紹介!可愛いと話題の娘と逮捕の真相も!

この事件を起こした理由は、この施設は資本力と政治力で石油の前段階行なっていたことと、ベトナム戦争で石油の供給をアメリカへしていたことが考えられます。

その後、シンガポール政府やエジプト大使、日本駐在シンガポール特命全権大使らと交渉に及びますが、一向に話は進まず膠着状態となります。しかし、その後に起きる事件で国外出国に成功することとなります。

③在クウェート日本大使館占拠事件

同年2月にシンガポール事件の膠着状況をなんとかしようと、日本赤軍メンバーとPFLPメンバー5名の武装メンバーが在クウェート日本大使館占拠し、12名の大使館を人質とします。

シンガポール事件の犯人メンバー4名を、武装した状態で国外へ出国させることを要求しました。翌日このテロ事件を受け日本政府は、日本航空機を用意し犯人4名を要求どおり武装した状態で搭乗させました。

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犯人達を搭乗させた機体は、日本政府関係者や乗務員らとクウェート国際空港へ向かうこととなります。クウェートで在クウェート日本大使館占拠事件犯人5名を乗せクウェート政府、イラク政府に受け入れを拒否された後南イエメンで受け入れの許可をうけます。

南イエメン政府の協力の元、両犯人の計9名は逃亡に成功することとなりました。

④クアラルンプール事件

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1975年8月、マレーシアクアラルンプールのアメリカ・スウェーデン大使館に襲撃し、アメリカ総領事52名を人質としました。目的は日本政府に対し服役中のメンバーの7名の釈放でした。

日本政府は、反政府過激派の要求に初めて応じ服役中メンバーの日本赤軍への意思を確認し、参加意思を示した5名を釈放しました。

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釈放されたメンバーと共に、日本航空機でリビアへ出国しました。その後保釈されたメンバーの内2名は国際手配後身柄拘束され、残り3名は現在も国際手配中です。

⑤ダッカ日航機ハイジャック事件

1977年9月フランスパリのジャルル・ド・ゴール空港から東京国際空港行きの日本航空機が日本赤軍メンバー5名にハイジャックされる事件が起こりました。

ハイジャックの目的は、服役中メンバー9名の保釈と組織への参加、乗客乗務員人質にたいする600万ドルの身代金でした。この要求を拒否した場合や回答が得られない場合、アメリカ人の人質からの殺害を警告しました。

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日本政府との交渉の元、政府はこの要求に応じ食料及び身代金、釈放条件に意思を示したメンバー6名を日本航空機に乗せダッカへ輸送することとなりました。

⑥ジャカルタ事件

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1986年5月、ジャカルタにあるアメリカ大使館・日本大使館共にロケット弾が撃たれ、カナダ大使館にあった車が爆破されるテロ事件が起こりました。

東京・パリ・ロンドン・ローマの報道機関へ事件後犯行声明が届くことになります。捜査で事件に使われたロケット弾などを発射させたとされるホテルが判明し、日本赤軍メンバーの指紋が見つかります。

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11年後の1996年事件の犯人と断定された日本赤軍メンバーがネパールで拘束されアメリカへ移送されることとまります。その後アメリカで懲役30年の判決を下されますが、模範囚として刑期短縮され出所しますが日本へ強制送還されます。

日本では殺人未遂・現住建造物等放火未遂などの容疑で逮捕されます。その後無罪を主張しますが2016年懲役12年が再び下されることとなりました。

⑦三井物産マニラ支店長誘拐事件

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1986年11月フィリピン共産党軍事組織のメンバーに、三井物産マニラ支店の支店長を務めていた日本人が誘拐される事件が起きました。

その後翌年の1月に誘拐された支店長のものと思われる左手中指と脅迫文、支店長の写真や音声テープなどが三井物産本社やメディア各社へ送られてきました。

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犯人の要求は身代金のみであったことから、末端メンバーによる独断の誘拐事件とされ1000万ドルと引き換えに支店長の身柄を確保する事となりました。

その後犯人は逮捕されますが、犯人の供述から事件は日本赤軍の拠力の元行なわれたと詳しい詳細ははっきりしていまいままです。

⑧ローマ事件

1987年6月、ベネチアで行なわれたサミット開催の最中に反帝国主義国際旅団と名乗る組織から声明文が出されました。ローマにあるイギリスとアメリカの大使館めがけロケット弾が打ち込まれ、カナダ大使館では車が爆破されました。

事件に使われたと思われる車からは、日本赤軍メンバーの指紋が検出されたことから、日本赤軍の犯行とわかり逮捕後禁固17年の判決がくだされました。

⑨ナポリ事件

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198年4月イタリアのナポリにある米軍専用クラブ前でレンタカーが爆破される事件が起きました。聖戦旅団機構と名乗る組織から声明が出されました。

この事件で、5名が命を落とし負傷者は20名の被害者がでました。犯人だと断定した日本赤軍メンバー重信房子含む2名を欠席裁判にかけ房子は無罪、メンバーひとりを終身刑としています。

重信房子らが設立した日本赤軍の最後とは?

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学生運動を切欠に1970年代から勢いをあげ、日本赤軍を設立させ世界的にも名が知れるテロリスト集団として活動してきた房子ですが、2001年日本赤軍は解散を発表しました。

解散を発表するまでの、最後の日本赤軍の様子と房子以外のメンバーのその後もまとめてみていきます。

1980年代後半には時代遅れと言われ支援者が減っていた

1980年代後半には、70年代の学生運動や革命運動が流行っていた時代の思想はだんだんと変わり、時代遅れな思想と言われるようになってきました。

このような時代の流れから、新たな支持者や支援者などの者が減ってきてしまい難しい状態となっていました。さらに資金協力を得られていた国からの資金もストップされてしまいます。

1990年代になると活動ができないほど弱体化していった

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1990年代に入るとメンバー達の年齢も全体的に高齢となりほぼ80歳前後となっていたことや、主なメンバーの逮捕、資金調達の困難、時代の流れからの思想の違い、支持者の確保などが難しくなってきました。

時代背景や考えの変化から、この頃の日本赤軍は弱体化しほぼ解散状態でありました。

重信房子は2001年に獄中より解散を発表した

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弱体化の状態などもあり、房子は2001年に獄中より解散を発表しています。

多くの人々に迷惑をかけていたこと、世界を変えるといい気になっていたこと、大儀のためなら何をしてもいいと思っていたことなど自己批判をする発言をしました。

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解散宣言より正式に解散となりましたが、元メンバーの2名が解散宣言に対し無効宣言を出し新たに後継組織のムーブメント連帯を作り上げ今現在も活動しています。

重信房子以外のメンバーのその後とは?

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数々のテロ事件を起こしてきたメンバー達の多くは、逮捕され刑を受けていました。しかし、逮捕されたメンバーの多くは刑期終了し社会復帰をしているようです。

逮捕されていないメンバー数名は、今現在も逃亡を続け国際指名手配者となっています。社会復帰しているメンバーに関しても、生活困難から万引きなどで逮捕されたとの情報もあります。

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また、元メンバーで1979年に脱退しているある人物は、他メンバーの現在の状況に対し反社会的、反人民的性格があったとし自己含め批判的名発言をしています。勢いのあるテロリストであったメンバー達の現在は、色々と厳しい状況であるようです。

重信房子は日本赤軍の元リーダーで現在はガンを患いつつ服役中!

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普通の幼少期時代を過ごしてきた房子は、大学入学後学生運動に出会うことで、過激派テロリストとされ元日本赤軍の最高幹部にまでなり数々の過激事件を起こしました。

現在服役中でガンを患いながら服役中の身である房子は、人生の半分以上もの時間を革命家として費やし掛け抜けてきた人生を振り返り何を考えるのでしょうか。

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