この運動ではブント指導となり、機動隊が出動するほどの激しい事態になり当時運動へ参加していた東京大学生が命を落とすこととなりました。
この騒動の責任をとり内閣総辞職をし、新内閣となったことで騒動は納まっていきました。しかし現在でも新左翼運動での安保条約反対運動は行なわれている状態です。
学生運動③羽田闘争
1967年当時の総理大臣の外国訪問を阻止するため学生も加わり運動が起こりました。この時、運動に参加した学生達の戦闘着は、ヘルメットを被りゲバルト棒(四角の木材棒)でした。
このスタイルが戦闘着として学生運動定番となり、後の学生運動でのスタイルに定着していきました。
ゲバルトとは
ドイツ語で暴力や威力などを意味する言葉です。ゲバルト棒もこの意味から名づけられたと考えますが、学生運動でよく使われる内ゲバも内部ゲバルトの略で、学生同士の異なる党派との運動や闘争に対して使います。国家・警察などとの抗争は外ゲバとも呼ばれます。
内ゲバについてもっと詳しく知りたい方は、こちらの記事も一緒にどうぞ
全学共闘会議(全共闘)
1968年全学共闘会議組織を学生達は各大学ごと作り上げました。それまでは、政党や学部などそれぞれで活動をおこなっていましたが、チームの境をなくしまとめる目的でつくりました。
東大闘争
大学に全共闘がそれそれでき、東京大学医学部生のインターン制度の環境を良くしようと学生運動が起こりました。この運動は長期間のストライキ・講堂占領など過激な内容となっていきました。
東大闘争を切欠に、学生運動は全国で流行だし各地の都市部に限らず大学での運動が多く行われるようになりました。
Contents
重信房子と日本赤軍
最高地位にたった彼女は、日本赤軍の指導権を持つこととなりました。この頃、彼女はある決意をし革命運動を広げるために動き出すこととなります。
どのような決意を固め動き出したのかみていきましょう。
重信房子と日本赤軍①パレスチナで赤軍派の海外基地を作ることを決意
共産主義者同盟赤軍派の理論でもある世界革命実現理論の国際根拠地論の元、海外でも活動ができる場所や同盟軍が必要と考え1971年夫の奥平剛士とともに海外基地としてパレスチナで基地を作りました。
1974年に正式呼び名が日本赤軍となりますが、それ以前はアラブ赤軍や革命赤軍などと呼ばれていました。また、この頃親友でもあった遠山美枝子は、連合赤軍が起こした事件で命を落とすこととなってしまいました。
この知らせをパレスチナで聞くこととなり、大変悲しんだようです。しかし、この親友の死が房子の革命運動に対する情熱をさらに燃やすこととなるようです。
重信房子と日本赤軍②奥平剛士と偽装結婚し日本を出国
パレスチナへ目を向け出国を実行する頃には、事件の関与など革命運動を激しくやっていた房子は日本出国ができない理由がありました。
テロ集団として有名となってしまった彼女は公安から目を付けられていた為簡単に出国する事は不可能でした。その為、奥平と偽装結婚をし戸籍や苗字を変え日本出国を企み渡航することに成功することとなります。
重信房子と日本赤軍③パレスチナで日本赤軍で結成
偽造戸籍のおかげで日本出国を無事成功させ、パレスチナへと日本赤軍の拠点を置き、日本だけでなく海外でも同時に革命運動を行なうこととなります。
パレスチナの地を選んだ理由や思想なども分かりやすく解説していきます。
重信房子はなぜ日本赤軍の拠点をパレスチナにしたのか
海外拠点地と考えた理由として、当時イスラエルからの紛争が起き土地を取られたりなどの迫害を現地では起きていました。
そのため、この地に目を付け潜入することで海外基地での国際根拠地論の元革命運動を成功させられると考えたのです。
重信房子は「よど号ハイジャック事件」に加担していた?
よど号の犯人グループに当時は目をつけられていませんでしたが、犯人のひとり柴田泰弘のアルバムから房子がチマチョゴリを着ている写真があったことから、当時の事件に加担していたのではないかとの疑いがかかることとなります。
偽装の戸籍を作り上げなければならなかった最もの理由でもあります。
重信房子が目を付けた「国際根拠地論」とは?
新左翼系団体の一部であった共産主義者同盟赤軍派の中の政治に対するひとつの思想です。北朝鮮への亡命を行なう為起こしたよど号事件により有名になった理論です。
先進国においての階級社会での会社的格差をなくすことや、民族解放闘争(植民地支配からの自由と独立を求める)などの政権が行っているだけの社会主義国を正すという世界革命を目指した理論です。
重信房子がパレスチナにいる頃に起きた日本での事件とは?
パレスチナに拠点を構えた頃、日本でも連合赤軍により同時に革命運動は行なわれていました。
その頃日本で起きた事件をまとめてみました。
「連合赤軍山岳ベース事件」
グループ内の幹部組の逮捕などが重なり組織の資金調達の為に銀行強盗や数々のテロ行為などをしたことにより都市部での活動がやりにくくなってきました。
そこで、組織の勢力を取り戻そうと軍事訓練や武器(爆弾など)の製作のための活動する場として密かに群馬の山岳地帯をベースとしました。
この頃山岳ベース内では、過去の反省を意味とする組織内の見直しが行われていました。当初は作業から外すだけの行動であったものの、次第にエスカレートし極寒の地での野外正座、食事なし、殴るなどの暴行を反省として行なわれました。
この見直し行動は、組織内での死亡者を出すなど組織勢力をあげるどころか組織衰弱に繋がる行動でもありました。この見直しでの反省会の死亡者のひとりが、房子の同士でもあった遠山も含まれていました。その知らせをパレスチナでうけ大変悲しんだようです。
そのうち警察の山狩りが始まったとの情報をラジオなどから知り、自分達の身の安全をはかる為メンバーらは警察から逃れるために山岳ベースをでて逃げることとなりました。
「あさま山荘事件」
脱走者や逮捕者以外のメンバーは、警察から逃れるため群馬から長野へ山間部などを通り逃亡しました。長野県の軽井沢へ逃亡した残りのメンバー5人は、土地勘もなかったためたまたま見つけた逃亡に使えそうな車があった浅間山荘へ立てこもります。
山荘の周りを警官や機動隊に囲まれる状態となったが、山岳ベース事件での犠牲者や逮捕者への代償とし、メンバーは徹底的に闘うことを決意し立てこもりは約10日ほどもの日数でありました。
山荘に居た管理人の妻のひとりを人質とし逮捕された組織メンバーの釈放を要求し機動隊員と一般民3人が死亡、27人が重軽傷を負い犯人は全員逮捕され人質も無事に救助され事件は終結しました。
メンバー5人は、その後の裁判で死刑判決、無期懲役、懲役13年などの判決がくだされました。当時犯人メンバーの中には、16歳がいた為逮捕後中東少年院へと送られています。この事件にもっと興味がある方はこちらもどうぞ
重信房子の夫の奥平剛士の死
偽装戸籍のもと夫婦となり共にパレスチナへ渡り活動をしていた戸籍上夫の奥平剛士は、この頃イスラエルのロッド空港で奥平の死に繋がる大きなテロ事件を実行することとなります。
偽装結婚し戸籍上の夫はどのようなテロ事件を起こし生涯に幕を閉じたのかみていきましょう。