この映画は、1971年に製作された記録映画です。日本赤軍がパレスチナに拠点を置いたとされる同年に作られましたが、映画監督は、題材の地となるパレスチナへ行き1週間ほどPFLPと共に行動をし撮った作品だけありリアルに描かれています。
パレスチナでの当時PFLPによる闘争などの政治的な意図を持ち人々の感情などに訴える事が目的であったのではないでしょうか。もちろん重信房子も登場人物のひとりとなっています。
上映
当時の日本は、日本赤軍などが起こした革命運動を知っていたにも関わらず実際海外やパレスチナなどで起きていた紛争は何のために行なわれていたかなど、確実な知識を持った人たちは少なかったといいます。
そんな当時の現状から、バスで全国を周り大学などを中心に上映するという形をとりました。日本では考えられない背景の生きる為に闘い、闘うことを止めたら生き抜けないパレスチナの人々の姿を伝えました。
上映後監督はパレスチナへ
パレスチナ解放運動へ参加するため、監督は上映後パレスチナへ行き共に活動をしたようです。レバノンで3年の服役をし日本帰国後1年の服役を終え創作を再開しています。
争わなくても問題なく生活できる日本では完全に悪となっている暴力や武装闘争は、現地パレスチナに人々には生きるスデであり一概に悪だと言えるのかなども考えてしまう作品です。
パレスチナの人々の生活は、今現在も変わることなく戦い続けているという事実をどう考えればいいのでしょうか。服役中の身でもある房子も当時のパレスチナに対し情熱を持って闘っていたことが良くわかります。
世界の人々に、大きなメッセージとして製作されたこの映画は、観る側の人々はどのようなメッセージを受け取ればいいのかも考えさせられる作品となっています。
Contents
重信房子が関与したとされるハーグ事件とは
1974年メンバーがパリのオルリー空港での米ドル偽装所持と旅券行使で逮捕されたことで、メンバー3人はハーグにあるフランス大使館を襲撃し、大使を人質にとりメンバーの保釈を要求するハーグ事件を起こします。
翌日協力組織でもあるPFLPも、フランス当局へプレッシャーをかけるためパリで爆弾を使いテロを起こす作戦で実行されました。赤軍側の要望は、メンバー釈放だけでなく100万ドルを慰謝料とし、さらに国外逃亡用飛行機でした。
交渉の末フランス政府はメンバーを保釈し、逃亡用飛行機を用意し、オランダ政府は慰謝料30万ドルを渡しました。犯人メンバーは、用意された飛行機でシリアダマスカス空港へ降り30万ドルと所持物を渡し投降しました。
房子も、この事件の関係者とされ国際指名手配をされますが、長い年月逃亡生活を続けることとなります。
重信房子は2000年に大阪で逮捕され起訴された
国際指名手配を受けた房子は、長い年月逃亡生活を送りますが、その長い逃亡生活にピリオドをうつ事となります。
過激な事件を起こすテロリストの女王とされていた彼女は、どのような逃亡生活を続け逮捕となってしまったのか、詳しく逮捕までをみていきましょう。
重信房子の逮捕①他人になりすまして日本に入国
長い年月国際逃亡をしていた房子は、自ら他人になりますことで生活をしていました。1997年から2000年の間偽装パスポートを手に入れ関西国際空港から中華人民共和国へと16回もの出入国を繰り返していました。
しかし、そんな逃亡生活も2000年11月に終わりを告げることとなります。
重信房子の逮捕②大阪に潜伏していたところを逮捕
偽造パスポートで日本へ入国し、大阪の西成区にあるマンションに身を隠していました。そんなある日、日本赤軍関係者を視察していた公安が、房子に似た女性を確認し捜査が開始されることとなります。
房子は独特のタバコの吸い方をしていたこと、顔のほくろが特徴でもありましたが化粧で確認することができず、彼女が使用したカップを押収し指紋を調べたところ本人と一致したことで逮捕に至りました。
事件から26年の間国際逃亡をはかっていましたが、旅券法違反容疑で大阪高槻市で逮捕されました。
重信房子はハーグ事件の関与で起訴され、懲役20年の判決
房子はハーグ事件の関与で、逮捕監禁罪・殺人未遂罪・共謀共同正犯の罪で起訴されることとなります。事件での武器調達や逃亡国との連絡、元メンバーの供述から事件後の反省発言などがあげられ犯行指導の首謀者とし無期懲役が求刑されます。
しかし、房子側はPFLPが計画した事件であり房子本人の指示はなかったこと、事件当時リビアにいた為事件とは無関係であることを主張しますが、主張内容は認められませんでした。
その結果無期懲役は免れ懲役20年の判決となります。その後も房子の娘と弁護士で控訴を繰り返しますが2010年懲役20年(未決拘留期間810日が引かれ実質17年)の刑期が決定しました。
2019年現在も服役中であり、刑期が終了するのは2027年とされています。
重信房子が可愛すぎるとネットで話題に
過激なテロリストや女革命家などハードなイメージがある重信房子ですが、そんな内面からは想像できないほど実際の房子は美人で可愛いと話題のようです。
房子にはひとりの娘がいるとされていますが、親子揃って綺麗だとネットでは注目を集めているとの情報もお伝えしていきます。
重信房子は美人としても知られている
この頃テロ行為などで世間を騒がせることが多かった房子は、メディアでもよく取り上げられる存在となっていました。報道される事件と共に日本赤軍最高幹部でもあった房子の写真も使われるようになりました。
その為、房子の顔写真を見た世間は美人や可愛いなど話題となったようです。日本赤軍内でも房子のカリスマ性は、内面的な部分や行動力だけでなく見た目からも繋がっていたようです。
重信房子のファンは公安の中にもいた?
過激なテロ事件を起こし公安は房子を取り締まりますが、その取り締まる側の公安の中にも美人で評判の房子のファンは多かったといいます。
過激な事件を起こしているとは思えないほどの、美人で可愛い見た目のギャップなどがファンができてしまうほどの魅力だったのかもしれません。
重信房子の娘でジャーナリストの重信メイも美人
房子にはひとりの娘がいます。母も美人や可愛いなどと話題になっただけあり娘のメイさんもかなりの美人のようです。メイさんは、現在ジャーナリストをしているという情報があります。
房子は奥平と別れたあとパレスチナ人と再婚しています。メイさんのハーフの顔立ちからパレスチナ人が父親であるレバノン系及びパレスチナ系日本人で、綺麗な顔立ちをされています。
重信メイの壮絶な人生!
母が国際的に有名なテロリストであったため、メイさんは幼少期から壮絶な人生であったようです。母共に居場所を隠すため、メイさんの出生届は20年もの間出しておらず、無国籍の状態であったとされています。
常に紛争が起こるような状態の中育ったメイさんは、幼少期から名前や住居など身分を隠しながら育ってきました。しかし、現在では日本の国籍を取りジャーナリストや英語教師などとして自分の人生を歩んでいるようです。
重信房子を支援する「オリーブ樹」とは?
重信房子を支援する会の団体が現在できています。この団体を通じて、現在の房子の様子がわかるようになっているようです。
どのような活動をしているのかみていきましょう。
重信房子さんを支える会「オリーブの樹」
重信房子さんを支える会が発行している機関紙として、「オリーブ樹」があります。
この機関紙のは、房子が刑務所内で書いている日記が掲載されているため、この会誌で近状報告をしています。会誌の内容は政治の話や、支える会での内容、房子の日誌の内容などが見れるようになっています。
重信房子の様子は会誌の内容で分かる?
近状の報告をされている会誌には、房子の日記の一部が掲載されることが多く天気や体調、刑務所内の様子、革命運動や政治などの内容が多く書かれています。
現在2019年7月の時点で2019年2月頃までの様子が掲載されています。
重信房子は書籍も多く出している!
房子は刑務所の中で書籍を多く書き出版しています。幼少期に小説家になりたいと夢に持っていただけあり、房子は文才にも優れていたようです。
その書籍をいくつかご紹介していきます。
重信房子の書籍①日本赤軍私史 パレスチナと共に
河出書房新社から2009年7月24日に出版された、重信房子の書籍です。
房子が日本赤軍の拠点地として選んだパレスチナに対する熱意から、日本赤軍創設から解散に至るまでの全てをはじめて詳細にまとめて書かれた書籍です。
テロ事件を起こした内容や状況など詳しく記されています。読者の感想などでは、革命運動は反対でありながらも気になって読んだという人が多く、細かい内容に騒然としたというものもありました。
日本赤軍、重信房子、革命運動などこの時代が気になる人には、興味がある内容ではないでしょうか。
重信房子の書籍②りんごの木の下であなたを産もうと決めた
幼冬舎から2001年4月1日に出版された娘メイさんに書かれた書籍です。
過激派テロリストでありながら、母になろうと決めたのはなぜなのか?そんな疑問は誰にでも思うことではないでしょうか。
房子が日本赤軍の最高幹部の傍ら、母となり子へ思う房子なりの思いが書かれています。この書籍は逮捕後刑務所内で書かれています。
読者の感想では、房子の子へ対する思いから見方が変わったという人から、全く共感できないといった否定的名感想もありましたが、母としての房子の思いが気になる人は是非一度手にとってみてはいかがでしょうか。
重信房子の書籍③ジャスミンを銃口に 重信歌集
幼冬舎から2005年7月1日に出版された歌集です。
獄中で書かれた短歌集とされています。全257首あり房子の人生での様々なことが綴られています。仲間の死、両親への気持ち、愛する人への思い、戦場の生活などなどを短歌で伝えています。
読者の感想は、他の書籍に比べ高評価な感想が多く房子が駆け抜けてきた時代の心情が感じ取られることや、感動して涙がでたなどと読んで良かったという人が多いようです。
また、本のタイトルもロマンチックで素敵などと高評価な意見も多くあげられています。
重信房子らが創設した日本赤軍が起こした事件
房子が創設した日本赤軍は、中東を中心にPFLPと共に数々のテロ事件を起こし世間を騒がしてきました。1970年代から80年代にかけて世界で起きた事件を追っていきましょう。
①ドバイ日航機ハイジャック事件
1973年7月、日本赤軍メンバー1名とPFLPメンバー4名がドバイ日航機ハイジャック事件を起こします。
ハイジャックした航空機は、パリ発のアムステルダムを経由して東京へ向かうボーイング747の日本航空の機体でした。アムステルダムを出た直後に手榴弾を爆発させメンバーのひとりは死亡、客室乗務員のひとりが軽傷となりました。
目的はテルアビブ空港乱射事件での犯人メンバーの釈放と500万ドルの要求でした。ハイジャックされた機体は、ドバイ国際空港からダマスカス国際空港を経由しリビアへ入りベンガジ国際空港へ降り立ちました。
141名の乗員乗客を解放したのち、機体を爆破しリビア政府の助けの元逃亡しました。
②シンガポール事件
翌年の1974年1月、日本赤軍メンバー2名とPFLPメンバー2名でシンガポール事件を起こします。
シンガポールの石油精製施設の石油タンクなどを爆破し国外へ出るために必要なボートをのっとる為5名の人質を取り国外移送を要求しましたが、シンガポール政府に包囲されることとなります。
この事件を起こした理由は、この施設は資本力と政治力で石油の前段階行なっていたことと、ベトナム戦争で石油の供給をアメリカへしていたことが考えられます。
その後、シンガポール政府やエジプト大使、日本駐在シンガポール特命全権大使らと交渉に及びますが、一向に話は進まず膠着状態となります。しかし、その後に起きる事件で国外出国に成功することとなります。
③在クウェート日本大使館占拠事件
同年2月にシンガポール事件の膠着状況をなんとかしようと、日本赤軍メンバーとPFLPメンバー5名の武装メンバーが在クウェート日本大使館占拠し、12名の大使館を人質とします。
シンガポール事件の犯人メンバー4名を、武装した状態で国外へ出国させることを要求しました。翌日このテロ事件を受け日本政府は、日本航空機を用意し犯人4名を要求どおり武装した状態で搭乗させました。
犯人達を搭乗させた機体は、日本政府関係者や乗務員らとクウェート国際空港へ向かうこととなります。クウェートで在クウェート日本大使館占拠事件犯人5名を乗せクウェート政府、イラク政府に受け入れを拒否された後南イエメンで受け入れの許可をうけます。
南イエメン政府の協力の元、両犯人の計9名は逃亡に成功することとなりました。
④クアラルンプール事件
1975年8月、マレーシアクアラルンプールのアメリカ・スウェーデン大使館に襲撃し、アメリカ総領事52名を人質としました。目的は日本政府に対し服役中のメンバーの7名の釈放でした。
日本政府は、反政府過激派の要求に初めて応じ服役中メンバーの日本赤軍への意思を確認し、参加意思を示した5名を釈放しました。
釈放されたメンバーと共に、日本航空機でリビアへ出国しました。その後保釈されたメンバーの内2名は国際手配後身柄拘束され、残り3名は現在も国際手配中です。
⑤ダッカ日航機ハイジャック事件
1977年9月フランスパリのジャルル・ド・ゴール空港から東京国際空港行きの日本航空機が日本赤軍メンバー5名にハイジャックされる事件が起こりました。
ハイジャックの目的は、服役中メンバー9名の保釈と組織への参加、乗客乗務員人質にたいする600万ドルの身代金でした。この要求を拒否した場合や回答が得られない場合、アメリカ人の人質からの殺害を警告しました。
日本政府との交渉の元、政府はこの要求に応じ食料及び身代金、釈放条件に意思を示したメンバー6名を日本航空機に乗せダッカへ輸送することとなりました。
⑥ジャカルタ事件
1986年5月、ジャカルタにあるアメリカ大使館・日本大使館共にロケット弾が撃たれ、カナダ大使館にあった車が爆破されるテロ事件が起こりました。
東京・パリ・ロンドン・ローマの報道機関へ事件後犯行声明が届くことになります。捜査で事件に使われたロケット弾などを発射させたとされるホテルが判明し、日本赤軍メンバーの指紋が見つかります。
11年後の1996年事件の犯人と断定された日本赤軍メンバーがネパールで拘束されアメリカへ移送されることとまります。その後アメリカで懲役30年の判決を下されますが、模範囚として刑期短縮され出所しますが日本へ強制送還されます。
日本では殺人未遂・現住建造物等放火未遂などの容疑で逮捕されます。その後無罪を主張しますが2016年懲役12年が再び下されることとなりました。
⑦三井物産マニラ支店長誘拐事件
1986年11月フィリピン共産党軍事組織のメンバーに、三井物産マニラ支店の支店長を務めていた日本人が誘拐される事件が起きました。
その後翌年の1月に誘拐された支店長のものと思われる左手中指と脅迫文、支店長の写真や音声テープなどが三井物産本社やメディア各社へ送られてきました。
犯人の要求は身代金のみであったことから、末端メンバーによる独断の誘拐事件とされ1000万ドルと引き換えに支店長の身柄を確保する事となりました。
その後犯人は逮捕されますが、犯人の供述から事件は日本赤軍の拠力の元行なわれたと詳しい詳細ははっきりしていまいままです。
⑧ローマ事件
1987年6月、ベネチアで行なわれたサミット開催の最中に反帝国主義国際旅団と名乗る組織から声明文が出されました。ローマにあるイギリスとアメリカの大使館めがけロケット弾が打ち込まれ、カナダ大使館では車が爆破されました。
事件に使われたと思われる車からは、日本赤軍メンバーの指紋が検出されたことから、日本赤軍の犯行とわかり逮捕後禁固17年の判決がくだされました。
⑨ナポリ事件
198年4月イタリアのナポリにある米軍専用クラブ前でレンタカーが爆破される事件が起きました。聖戦旅団機構と名乗る組織から声明が出されました。
この事件で、5名が命を落とし負傷者は20名の被害者がでました。犯人だと断定した日本赤軍メンバー重信房子含む2名を欠席裁判にかけ房子は無罪、メンバーひとりを終身刑としています。
重信房子らが設立した日本赤軍の最後とは?
学生運動を切欠に1970年代から勢いをあげ、日本赤軍を設立させ世界的にも名が知れるテロリスト集団として活動してきた房子ですが、2001年日本赤軍は解散を発表しました。
解散を発表するまでの、最後の日本赤軍の様子と房子以外のメンバーのその後もまとめてみていきます。
1980年代後半には時代遅れと言われ支援者が減っていた
1980年代後半には、70年代の学生運動や革命運動が流行っていた時代の思想はだんだんと変わり、時代遅れな思想と言われるようになってきました。
このような時代の流れから、新たな支持者や支援者などの者が減ってきてしまい難しい状態となっていました。さらに資金協力を得られていた国からの資金もストップされてしまいます。
1990年代になると活動ができないほど弱体化していった
1990年代に入るとメンバー達の年齢も全体的に高齢となりほぼ80歳前後となっていたことや、主なメンバーの逮捕、資金調達の困難、時代の流れからの思想の違い、支持者の確保などが難しくなってきました。
時代背景や考えの変化から、この頃の日本赤軍は弱体化しほぼ解散状態でありました。
重信房子は2001年に獄中より解散を発表した
弱体化の状態などもあり、房子は2001年に獄中より解散を発表しています。
多くの人々に迷惑をかけていたこと、世界を変えるといい気になっていたこと、大儀のためなら何をしてもいいと思っていたことなど自己批判をする発言をしました。
解散宣言より正式に解散となりましたが、元メンバーの2名が解散宣言に対し無効宣言を出し新たに後継組織のムーブメント連帯を作り上げ今現在も活動しています。
重信房子以外のメンバーのその後とは?
数々のテロ事件を起こしてきたメンバー達の多くは、逮捕され刑を受けていました。しかし、逮捕されたメンバーの多くは刑期終了し社会復帰をしているようです。
逮捕されていないメンバー数名は、今現在も逃亡を続け国際指名手配者となっています。社会復帰しているメンバーに関しても、生活困難から万引きなどで逮捕されたとの情報もあります。
また、元メンバーで1979年に脱退しているある人物は、他メンバーの現在の状況に対し反社会的、反人民的性格があったとし自己含め批判的名発言をしています。勢いのあるテロリストであったメンバー達の現在は、色々と厳しい状況であるようです。
重信房子は日本赤軍の元リーダーで現在はガンを患いつつ服役中!
普通の幼少期時代を過ごしてきた房子は、大学入学後学生運動に出会うことで、過激派テロリストとされ元日本赤軍の最高幹部にまでなり数々の過激事件を起こしました。
現在服役中でガンを患いながら服役中の身である房子は、人生の半分以上もの時間を革命家として費やし掛け抜けてきた人生を振り返り何を考えるのでしょうか。
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