川奈毅(川名毅)の現在は?関東連合元リーダーの生い立ちや事件、芸能界との繋がり

当時は少年法が改正される前で、殺人を犯したとしても少年院に2-3年収監されるだけですぐ社会に戻って来ることができたため、川奈毅(川名毅)をはじめとした10代の少年たちにとって暴力や殺人のハードルはとても低いものでした。少年院に入った回数が多いほど、男としての格が上がるとも考えられていました。

各地の暴走族のリーダーになるような人物は、「殺人経験」「拷問の多様さ」「メンバーの統率力」「喧嘩の強さ」の四つのいずれもを持っていたと言われています。

川奈毅(川名毅)は俳優経験もある?

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「六本木の帝王」の異名と、若い時から暴力団に在籍していることから、恐ろしい風貌ではないかと思われがちですが、過去に映画に出演したことがあります。1991年に公開された吉田栄作主演の映画「代打教師 秋葉、真剣です!」で、当時20歳頃の若かりし川奈毅(川名毅)を見ることができます。

エキストラのような非常に短い出演ですが、芸能界にコネクションがあるだけでなく、容姿が整っているからこそ声が掛かったのでしょう。しかしこの後には特に俳優の経験が無いことから、俳優業には興味がなかったようです。

川奈毅(川名毅)はK-1創始者のボディーガードも務めた

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川奈毅(川名毅)は、総合格闘技K-1の創設者であり、格闘技ブームを巻き起こした立役者である石井和義のボディーガードを務めたこともあります。ボディガードと聞くと屈強な男たちをイメージする中で川奈毅(川名毅)の身長は170cm程とずいぶん小柄ですが、その体格の不利を補って余りある「頭脳」と「残忍さ」「凶暴さ」を兼ね備えていたと言われています。

石井和義ってどんな人?

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石井和義自身は、学生時代に僅か2年で空手の黒帯を習得し、その後は空手の師範を続け、38歳でK-1の前身である「格闘技オリンピック」を開催して本格的な興行の世界に身を置いた人物です。様々な格闘技の強さを知っているだけでなく、石井和義自身も個人格闘家としては並外れて強いことから、川奈毅(川名毅)に求めたのはスポーツとして格闘技を行う者の強さではなく、喧嘩やリンチで鍛えられた闇社会の強さであったと想像できます。

また石井和義は、格闘家から興行を成功させるための実業家になった人物ですから、金を稼ぐことに大きな執着心がありました。この点で、川奈毅(川名毅)と馬が合ったのではないかとも考えられます。1993年からK-1を開催して成功させ、民放各局で特番が組まれて放映されたほか、2002年には日本格闘技史上最大のイベントである「Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立」が行われ、石井和義は総合プロデューサーを務めました。

その後、2002年末に法人立つ脱税容疑で起訴され、裁判の結果1年10ヶ月の実刑判決が下っています。2008年に刑務所を出所し、その後は自叙伝を出版。現在は格闘技に関わりつつも、リングに上がったり解説席に座る、プロデューサーとして活動する等の表舞台からは徐々に姿を消しているようです。

川奈毅(川名毅)は語学堪能で外国人との間にも独自のネットワークを築く

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川奈毅(川名毅)は特に語学が堪能だったと言われています。地元である六本木界隈には国籍多様な外国人が多く住んでおり、外国系の裏組織も多数存在します。

その外国系裏組織に対し、川奈毅(川名毅)は持ち前の語学力とコミュニケーション力を駆使して彼らから信頼され、取引を融通してもらう等の便宜を図ってもらって裏社会での地位を高めていったと言われています。

川奈毅(川名毅)は三茶抗争で裏社会での権力を広げるも石井会に奪われる

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川奈毅(川名毅)が裏社会での地位を高める大きなきっかけが「三茶抗争」でした。三茶抗争とは、80年代の終わり頃から川奈毅(川名毅)が創設に関わった「三軒茶屋愚連隊」と、渋谷を根城にしていた反社会少年集団との抗争を指します。毎日のように三軒茶屋愚連隊は渋谷を襲撃し、反社会少年集団相手に残忍なリンチを繰り返しました。

この頃、主に三軒茶屋愚連隊の標的となったのはチーマーと呼ばれる若者たちでした。一方的に暴力を振るわれては黙っていられない渋谷のチーマー達は、三軒茶屋愚連隊とやり合うべくケンカが強いメンバーを集めて「湖池屋」を結成。しかし、この湖池屋は三軒茶屋愚連隊への報復活動の中で一般人を巻き込む暴力事件を起こしてしまい、警察が介入してほぼ全員が逮捕されることとなりました。

後日、この抗争に決着を付けるべく三軒茶屋愚連隊と湖池屋の上層部が話し合う場が持たれました。一触即発で抗争に発展するかに見えたその場を収めたのが川奈毅(川名毅)でした。

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結果として、川奈毅(川名毅)は渋谷界隈で名を轟かせ、大きな影響力を手に入れると共に、渋谷で三軒茶屋愚連隊とチーマー達が独自に持っていた風俗・詐欺・薬物等の稼ぎのルートをも手に入れることになりました。この時、20代前半でした。

この三茶抗争で得た利権のうち、稼ぎの大半を占めたのは麻薬取引によるものでした。当時リムジンを乗り回して渋谷・六本木を豪遊していた川奈毅(川名毅)は若い暴走族やチーマー達の憧れの的になると共に、絶対的な富と権力を手にしました。

こうして着実に裏社会での権力を広げていきましたが、その大きすぎる麻薬取引の利権は暴力団に狙われることとなり、2000年代に入った30代前半の頃、住吉会系暴力団の石井会に奪われてしまいました。

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ただ、相手が正規の暴力団であっても恐れることなど知らない川奈毅(川名毅)は、利権を奪われた後にその麻薬取引についての詳細を警察に密告し、石井会のトップを逮捕させて報復を果たしたと言われています。

もし報復に失敗して石井会のトップを抑えられなければ、命を狙われて当然の危険なやり取りですが、川奈毅(川名毅)はこの報復をやり遂げ、裏社会での自身の名声をさらに高め、恐れられたと言われています。

暴走族とチーマーの違い

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暴走族とチーマーは共に少年が10代頃から所属する反社会的な集団ですが、多くの点で違いがあります。チーマーは繁華街を根城にして徒党を組み、一般の人に対して恐喝や窃盗、暴力を繰り返す集団です。一方で暴走族は同じ中学校出身のメンバーでチームを組み、自らの地元を拠点に主にバイクで暴走行為を行います。

チーマーは暴走族のような暴走行為を行うことはほぼ無く、また暴走族は繁華街を根城にすることはありませんでした。ただ、渋谷近辺では暴走族メンバーの地元に繁華街がある等で活動範囲が重なることも多く、暴走族もチーマーも血気盛んな若者たちであるため、当時は顔を見ればすぐに揉めて、暴力を伴うリンチや抗争に発展していました。

また暴走族とチーマーはファッションの点でも大きく異なっていました。チーマーは、リーバイス等のジーンズやエンジニアブーツを着用したアメリカンカジュアルなストリートファッションを好む者が多く、髪を長くのばしてヘアバンドで止めるスタイルが主流でした。

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一方で暴走族は、チームで揃いの特攻服を着用し、チームの旗を掲げ、爆音を響かせるように特殊改造したバイクで暴走行為を行いました。髪は短髪の者が多く、チーマー達を「女性にもてることを目的にしたスタイル」だと馬鹿にしていたと言われています。

暴走族は同じ中学を出身者とする集まりであるため、必然的に先輩後輩の力関係が強く存在していました。反社会的な空気に馴染みすぎて非行や逮捕、少年院行きを繰り返し、一般的な進学や就職が難しくなってしまった者に対して先輩が暴力団への道を斡旋することも多く、暴力団の下部組織としての一面も持っていました。

薬物取引の具体的な方法

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一言で「違法薬物の取引」と言っても、例えばどのように受け渡しがされているのでしょうか。よく使われる受け渡し場所はクラブやパチンコ店等、人が多くて騒がしい場所です。

パチンコ店なら隣同士の台に座り、通常のプレイを楽しんでいるフリをしつつアイコンタクトをして連れ立ってトイレへ。トイレなら監視カメラもなく、薬物の受け渡しができます。クラブも同様の手口です。他には、スーパー銭湯やサウナも使われます。脱衣所には監視カメラがないため、人が少ない時間帯を狙えば受け渡しが可能です。

更には、直接手渡ししない方法としてコインロッカーを使う手口もあります。監視カメラが無い、もしくは死角になるロッカーの中に薬物を入れ、ロッカーの鍵は近くの自販機の下に隠します。薬物の買人は、自販機の下に硬貨を落とした振りをして鍵を拾い、ロッカーを開けます。

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こうして私たちの身近な場所で、違法薬物の売買は行われている可能性があります。証拠が残らないため、今も多くの取引は直接の手渡しで行われているようです。薬物取引に精通している人たちは、「この辺りは薬物取引が多く行われている」界隈をいくつも知っています。その取引方法は洗練されており、社会の目をうまく掻い潜ることで、見つかり辛く、かつ確実に薬物を受け渡すことができます。

川奈毅(川名毅)は関東連合のリーダーに就任

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川奈毅(川名毅)が関東連合でリーダーを務めていた時期の詳細は不明です。しかし、それまで暴力抗争に明け暮れるばかりの不良集団だった関東連合がその活動を一変し、渋谷や六本木などの繁華街を中心にシノギといった経済活動を広めたのが90年代から2000年代だった事から、川奈毅(川名毅)が関東連合のリーダーを務めたのはこの時期だったと推測されています。

またそれまで関東連合は、反社会的な少年や闇社会に接している人たちだけが知る存在でしたが、「市川海老蔵暴行事件」を経て世間に広く知られるようなりました。これは、2010年に11代目市川海老蔵が関東連合のメンバーに暴行された事件で、海老蔵が西麻布のバーで明け方に1人で飲んでいたところ、同じ店に居合わせたメンバーら数人とトラブルになり、暴行されて顔面に大怪我を負いました。

左頬を陥没骨折、さらに前歯の損傷、鼻の腫れなど顔面全体に広がる全治2ヶ月という怪我の大きさと、被害者が歌舞伎の世界で名が知れた市川海老蔵であったため、連日マスコミで大きく取り上げられました。

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またこの時、市川海老蔵が加害者側に頭突きをした、テキーラを灰皿に注いで飲ませようとした、「俺は人間国宝だ」と言った、等の暴力暴言の報道が過熱しました。市川海老蔵はその全てを否定しましたが、それによって事件はさらに大きく取り上げられることになりました。更に市川海老蔵の顔面整形手術の技法等、多様な側面からも話題を呼んだ出来事となりました。

これらの報道によって、これまで一般にはあまり知られていなかった関東連合の名は、暴力行為を行う反社会的な暴走族の軍団として世に大きく知られることになりましたが、当時は既に川奈毅(川名毅)は関東連合のリーダーではないことから、この事件への関与は薄いと言われています。

収益活動としてのシノギとは

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暴力団と聞くと、よく「シノギ」という手段で多額の金を手にしているイメージがあります。ドラマ等では風俗店の元締めとしての姿を描写されることが多いですが、このシノギには幾つかのパターンがあります。川奈毅(川名毅)がリーダーを務めた関東連合は暴力団ではありませんが、組織規模やその影響力から暴力団と同等の力を持っており、暴力団と同様のシノギを行って収益を得ていました。

シノギは、よくイメージされる風俗店の用心棒や元締めとして以外に、違法薬物の販売、売春の斡旋や賭博、またそれに伴う闇金融や恐喝も行われています。警察庁は特に暴力団の収益源となっている、覚せい剤取締法違反、恐喝、賭博、ノミ屋ダフ屋行為、の4つを「暴力団の伝統的資金獲得活動」としています。

中には合法な収益手段もあるシノギですが、大部分は違法であり、また最近はインターネットを使用した賭博や詐欺、世間を騒がせている「オレオレ詐欺」も首謀者は暴力団である場合が多いです。違法なだけあってその収益性はとても高く、詐欺はだまし取ったお金のすべてが暴力団の収入になりますし、違法薬物等も仕入れ値は売値の僅か5%程で、95%は利益になると言われています。

シノギの種類は時代に合わせて多様化していますが、いつの時代でもシノギは暴力団にとって手っ取り早く大金を稼ぐ違法な手段であり、暴力団の幹部たちは億単位の大きなお金を動かすことができます。

川奈毅(川名毅)は、三茶抗争の後から特に麻薬・覚せい剤の密輸や販売に詳しいルートを保持しており、川奈毅(川名毅)がリーダーを務めた頃の関東連合の主な収入源も、薬物から得ていたと言われています。

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