川奈毅(川名毅)の現在は?関東連合元リーダーの生い立ちや事件、芸能界との繋がり

川奈毅(川名毅)は10代のとき「三軒茶屋愚連隊」に所属

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川奈毅(川名毅)は、10代で暴力団「松葉会」に所属しながら、同時に関東連合の傘下である「上町小次郎」という暴走族チームに在籍していました。その後すぐに上町小次郎ではチームのリーダーに就任し、更に別の関東連合に組する暴走族、「三軒茶屋愚連隊」にも創設から参加し、多方面に関係していたとされています。

「愚連」は、暴走族等の反社会的な若者がよく使う、もともと存在する言葉に別の漢字を当てて作った造語です。もとは「紅蓮」ですが、「愚連」という言葉は多くの暴走族で良く使われたため、暴走族に入るような社会からはみ出し気味の状態を「愚連る(ぐれる)」と呼ぶようになりました。

川奈毅(川名毅)の才能は暴力団や暴走族の中で次々に開花し、闇社会で頭角を現していきました。この時から暴力団内部や芸能界でのコネクションづくりや資金集めを進めていたようです。

「夜露死苦」に代表される言葉たち

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この頃、10代の暴走族をはじめとした反社会的少年たちが使っていた「愚連」のような言葉たち。代表的なのは「宜しく」を当て字にした「夜露死苦」ですが、他にどのようなものがあるのでしょうか。

・「本気(マジ)」 本気と書いて「マジ」と読みます。今も若者の間で口語として使われています。

・「走死走愛(そうしそうあい)」 相思相愛を語源として、女を愛するよりもバイクで暴走することが好きだ、という暴走族のポリシーを意味する言葉です。

・「愛羅武勇(あいらぶゆう)」 英語のアイラブユーを語源として、女性と愛を語る時にはこの字を使っていました。

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他にも、学生カバンに赤いテープを貼れば「喧嘩買います」、白いテープを貼れば「喧嘩売ります」という意味になり、通じる者同士で日常的に喧嘩の売り買いが行われていました。

この時代は、特に深い理由もなく喧嘩を売買して日常的に暴力行為を行っていました。今よりも、暴力や反社会的集団が一般社会の中で身近に感じられる時代だったと言えます。

関東連合の喧嘩の恐ろしさ

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川奈毅(川名毅)をはじめとした当時の関東連合は、対立している暴走族グループとの抗争や、敵対している反社会的集団へ襲撃するときには、今ではなかなか考えられない恐ろしいリンチを行っていました。

まずは、リンチの対象者を徹底的に調べ上げ、本人だけでなくその家族や恋人の情報も収集します。その上で、まずはターゲットを拉致し(夜道を歩いているところを包丁で脅す、背後から死なない程度にバイクで轢く、等)、暴力を振るって半殺しにした後で、今後逆らったり報復を考えたりしないように恐怖感を植え付け(男同士のSEX、飲尿や食糞を強要してその写真や動画の撮影)、更に金品を強奪していました。

それでも反抗的な態度を取る場合は、金属バッドで手足をぐちゃぐちゃになるまで叩き潰したり、深夜のガードレールに磔にして放置したりという非道を繰り返しました。更に効果的に屈服させるため、時にはターゲットの目の前でその両親に対して暴行を加えたり、恋人を拉致して強姦したり、ということも行われていました。

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関東連合に所属する暴走族メンバーにとっては、「誰よりも喧嘩が強い存在として恐れられること」が何よりかっこよい美学とされ、どうすれぱ相手に恐怖心を植え付けられ、心身共に降伏させられるか、に日夜没頭していました。そのため、どこをどうすればより痛く、我慢ができないほど辛く、屈辱的で、本能的に逆らわなくなるか、という点に重きが置かれており、暴力よりは拷問に近いと言えます。

当時は少年法が改正される前で、殺人を犯したとしても少年院に2-3年収監されるだけですぐ社会に戻って来ることができたため、川奈毅(川名毅)をはじめとした10代の少年たちにとって暴力や殺人のハードルはとても低いものでした。少年院に入った回数が多いほど、男としての格が上がるとも考えられていました。

各地の暴走族のリーダーになるような人物は、「殺人経験」「拷問の多様さ」「メンバーの統率力」「喧嘩の強さ」の四つのいずれもを持っていたと言われています。

川奈毅(川名毅)は俳優経験もある?

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「六本木の帝王」の異名と、若い時から暴力団に在籍していることから、恐ろしい風貌ではないかと思われがちですが、過去に映画に出演したことがあります。1991年に公開された吉田栄作主演の映画「代打教師 秋葉、真剣です!」で、当時20歳頃の若かりし川奈毅(川名毅)を見ることができます。

エキストラのような非常に短い出演ですが、芸能界にコネクションがあるだけでなく、容姿が整っているからこそ声が掛かったのでしょう。しかしこの後には特に俳優の経験が無いことから、俳優業には興味がなかったようです。

川奈毅(川名毅)はK-1創始者のボディーガードも務めた

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川奈毅(川名毅)は、総合格闘技K-1の創設者であり、格闘技ブームを巻き起こした立役者である石井和義のボディーガードを務めたこともあります。ボディガードと聞くと屈強な男たちをイメージする中で川奈毅(川名毅)の身長は170cm程とずいぶん小柄ですが、その体格の不利を補って余りある「頭脳」と「残忍さ」「凶暴さ」を兼ね備えていたと言われています。

石井和義ってどんな人?

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石井和義自身は、学生時代に僅か2年で空手の黒帯を習得し、その後は空手の師範を続け、38歳でK-1の前身である「格闘技オリンピック」を開催して本格的な興行の世界に身を置いた人物です。様々な格闘技の強さを知っているだけでなく、石井和義自身も個人格闘家としては並外れて強いことから、川奈毅(川名毅)に求めたのはスポーツとして格闘技を行う者の強さではなく、喧嘩やリンチで鍛えられた闇社会の強さであったと想像できます。

また石井和義は、格闘家から興行を成功させるための実業家になった人物ですから、金を稼ぐことに大きな執着心がありました。この点で、川奈毅(川名毅)と馬が合ったのではないかとも考えられます。1993年からK-1を開催して成功させ、民放各局で特番が組まれて放映されたほか、2002年には日本格闘技史上最大のイベントである「Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立」が行われ、石井和義は総合プロデューサーを務めました。

その後、2002年末に法人立つ脱税容疑で起訴され、裁判の結果1年10ヶ月の実刑判決が下っています。2008年に刑務所を出所し、その後は自叙伝を出版。現在は格闘技に関わりつつも、リングに上がったり解説席に座る、プロデューサーとして活動する等の表舞台からは徐々に姿を消しているようです。

川奈毅(川名毅)は語学堪能で外国人との間にも独自のネットワークを築く

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川奈毅(川名毅)は特に語学が堪能だったと言われています。地元である六本木界隈には国籍多様な外国人が多く住んでおり、外国系の裏組織も多数存在します。

その外国系裏組織に対し、川奈毅(川名毅)は持ち前の語学力とコミュニケーション力を駆使して彼らから信頼され、取引を融通してもらう等の便宜を図ってもらって裏社会での地位を高めていったと言われています。

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