川奈毅(川名毅)とは?「六本木の帝王」と呼ばれた関東連合の元リーダー
川奈毅(川名毅)は、1975年頃から東京都内各地で活動していた暴走族やその他犯罪者たちの集団「関東連合」の元リーダーです。関東連合は暴力団とは異なり、主に中学校が同じ地元の若者たちで構成されている暴走族を束ねる存在で、メンバーは10代の若者が中心でした。
川奈毅(川名毅)は10代から闇社会に触れ、渋谷界隈で薬物取引を中心に活動して名を上げ、関東連合のリーダーに就任して「六本木の帝王」と呼ばれるまでになりました。その後もプロダクション経営者として2000年代の芸能界に深く関わり、多くの違法薬物を提供したとされています。今でも多くの人の記憶に残る「押尾学事件」で使われた薬物は、彼が提供したものではないかと言われています。
川奈毅(川名毅)の生い立ちと関東連合リーダー就任まで
川奈毅(川名毅)は、どのような少年・青年時代を過ごしたのでしょうか。彼の出身地から関東連合のリーダーに就任するまでの経歴をまとめてみました。
川奈毅(川名毅)は東京都世田谷区出身
出身は東京都世田谷区。1970~1971年生まれで、身長は170cm前後。10代のときには既に暴力団「松葉会」に所属しながら、関東連合に属する暴走族チームのひとつである「上町小次郎」に加入していたと言われています。
「松葉会」は現在では指定暴力団に指定されている24団体のうちのひとつで、推定で450人の組員がいる大きな暴力団です。一方で「上町小次郎」は古くから関東連合に所属していた歴史のある暴走族チームで、一時活動が低迷して有名無実化していた関東連合の復活を企て、他の暴走族チームとの繋がりを強くして関東連合復活のきっかけを作りました。
暴走族とは
暴走族と聞くと、夜にチームで集まって「集会」を行っているイメージがあります。この集会とは、公園や広い駐車場等、多くのバイクや車が止められるところに時間を決めて集まり、そこから全員で暴走を開始する、いわば暴走族が暴走する基本の活動のことを指します。
主に、1つの暴走族チームは自らの縄張り内で集会・暴走を行います。これは縄張りの見回りやリクルーティングを兼ねており、暴走を見せつけることで、近隣のチームを牽制し、更に価値観を共有できる地元の新規メンバーを募っていました。
この時代、暴走族のチームとしての強さは喧嘩の強さとイコールだったため、喧嘩が強いメンバーが集まる暴走族チームは次々と近隣のチームを吸収合併し、勢力範囲を広げていきました。また吸収とはいかずとも近隣のチーム同士で交流が持たれることも多く、一度の集会で50-100台のバイクが集まって暴走することが日常的に行われていました。
暴走族の集会・暴走が集まると国道などの広い道路はバイクでいっぱいになり、一般の車は脇道に避けたり停止して暴走が過ぎ去るのを待つ、といった光景がぜよく見られました。また、効率よく暴走するために、赤信号の交差点に突っ込んで一般車を止め、チームの暴走を最優先で通すための役割や、チームが警察に捕まらないために、暴走の最後尾をわざと走り、強烈な蛇行運転(ローリング)で道路に火花を飛ばして警察からの追及を緩める役割が誕生しました。それぞれの役割は大きな度胸と確かな運転技術が必要で、一目置かれる存在となっていました。
また、正月や七夕などのイベント時には特に交流のあるチームで集まって連合集会が開かれることが多く、縄張りを抜けて遠征しているところに別の暴走族チームとぶつかり、そのままリンチや抗争に発展する場合もあり、暴走族にとって集会と喧嘩は切っても切り離せないものでした。
関東連合ってなに?
関東連合とは、東京都世田谷区を中心にして1973年に結成された暴走族の連合体です。結成当時は約3000名ものメンバーで構成され、暴走族同士で争いが起きて暴力事件に発展することを避けるために作られました。
当初は会長職があり、定期的に幹部会等も開催されて組織運営がされていましたが、1980年代中ごろから組織らしい活動が無くなり、1990年代には関東連合は名前だけでほぼ壊滅状態になっていました。この頃に、「上町小次郎」が関東連合復活を企図しました。
時代はちょうど、改正暴力団対策法や暴力団排除条例等の制定で暴力団は一時の勢いを失いつつあり、関東連合はそれに代わる反社会的な組織として台頭しました。暴力団のような明確な組織性はなく、それぞれの暴走族グループのリーダーを中心とした独自の人間関係で繋がるゆるやかな組織である関東連合は、警察からの捜査の目を掻い潜りやすかったと言われています。
暴力団とは
暴力団とは、国から「暴力あるいは暴力的な脅迫および違法行為によって自己の私的な目的を達しようとする反社会的集団」とされており、その構成員や関係者は、不当にかつ日常的に暴力や違法行為を行う可能性が高いとされています。現在は、特に対策が必要であるとして指定を受けた「指定暴力団」が5団体あり、この5団体で全国すべての暴力団の構成員の70%を占めていると言われています。
日本刀や銃器など、本来なら所持や使用が法令で禁止されているはずの武器を用いて抗争を行うことがあり、たびたび殺人事件に発展している他、これも法令で禁止されている賭博や薬物取引、闇金融や売春の斡旋等で収入を得ています。ただ中には、政治団体や一般企業、NPO法人等の合法的な組織を傘下に持つ暴力団もあり、一般的な事業を行う傍らで闇社会への隠れ蓑にもなっています。
刺青・指詰め・盃事等の独自の文化があり、特に刺青は暴力団に関係している証として一般人からは敬遠される傾向があります。構成員は「暴力団員」と呼ばれることが最も一般的ですが、ヤクザや極道、悪党などの呼称も広義では同じ意味として使われています。
川奈毅(川名毅)の父親はキャリア官僚で叔父が検察官?
川奈毅(川名毅)の家族については長年憶測が飛び交っており、まず父親は財務省のキャリア官僚ではないかと噂されています。理由は、川奈毅(川名毅)には少年時代から関東連合のリーダーに就任してからも、一度も逮捕歴が無いためです。彼の経歴から殺しも含めた暴力や薬物取扱い等、多くの法律違反を犯してきたと考えられる中、あまりに不自然に見えます。
父親自身が、息子が逮捕されることでキャリアの経歴に傷が付く、もしくは退官を余儀なくされることを恐れて、自身の立場と権力を使って揉み消したのでは、と言われています。もし殺しや違法薬物での逮捕となれば、父親が国の中枢である財務省で働き続けるのは難しいと言わざるを得ません。
また、川奈毅(川名毅)の叔父は、最も頭の良さが必要な職業のひとつである検察官ではないかといわれています。司法試験に合格した人の中から、さらにごく僅かのエリートしかなれない検察官。
川奈毅(川名毅)は頭が切れることで有名で、関東連合や所属する暴力団ではブレーンとして活躍しました。その頭の良さは父や叔父から受け継いだものと言えます。
キャリア官僚と検察官って何がすごいの?
キャリア官僚とは、一般的に「国家公務員総合職試験」に合格した人のことを言います。将来的に官庁等で課長以上の職、つまり文字通り「上に立つ」ことを期待されているため、入庁の時点で既にキャリア(昇進)が確約されている存在、という意味でキャリア官僚と言われています。
特別にキャリア官僚に対する年収や処遇を確約している法律法令その他は存在しないのであくまで慣習ですが、キャリアでないノンキャリアの平均年収が500-600万円で、キャリア官僚の平均年収は1,000万円を超えると言われており、両者は出世のスピードに明らかな差があります。また、キャリア官僚の最高位である事務次官まで上り詰めれば、年収は2,200-2,500万円にもなります。
一方で検察官は日本全国に僅か3,000人ほどしかいません。年収の平均は検察官全体では600万円程ですが、最高位の検事長になれば1,600万円程になります。そもそも最難関の司法試験に合格しなければ検察官への道は開かれず、また国民の安全を守る法の番人として、やりがい溢れる職と言えます。
キャリア官僚と検察官は共に国家公務員で、国民生活のためにそれぞれ法を作る立場と守る立場にあります。そのような父親と叔父を持ちながら、川奈毅(川名毅)が違法の限りを尽くしていたというのは皮肉だと言わざるをえません。更には、国家公務員だからこそ血縁に犯罪者を出せない、という事情を逆手に取って川奈毅(川名毅)が父親と叔父に事件の揉み消しを迫っていた可能性も考えられます。
川奈毅(川名毅)は10代のとき「三軒茶屋愚連隊」に所属
川奈毅(川名毅)は、10代で暴力団「松葉会」に所属しながら、同時に関東連合の傘下である「上町小次郎」という暴走族チームに在籍していました。その後すぐに上町小次郎ではチームのリーダーに就任し、更に別の関東連合に組する暴走族、「三軒茶屋愚連隊」にも創設から参加し、多方面に関係していたとされています。
「愚連」は、暴走族等の反社会的な若者がよく使う、もともと存在する言葉に別の漢字を当てて作った造語です。もとは「紅蓮」ですが、「愚連」という言葉は多くの暴走族で良く使われたため、暴走族に入るような社会からはみ出し気味の状態を「愚連る(ぐれる)」と呼ぶようになりました。
川奈毅(川名毅)の才能は暴力団や暴走族の中で次々に開花し、闇社会で頭角を現していきました。この時から暴力団内部や芸能界でのコネクションづくりや資金集めを進めていたようです。
「夜露死苦」に代表される言葉たち
この頃、10代の暴走族をはじめとした反社会的少年たちが使っていた「愚連」のような言葉たち。代表的なのは「宜しく」を当て字にした「夜露死苦」ですが、他にどのようなものがあるのでしょうか。
・「本気(マジ)」 本気と書いて「マジ」と読みます。今も若者の間で口語として使われています。
・「走死走愛(そうしそうあい)」 相思相愛を語源として、女を愛するよりもバイクで暴走することが好きだ、という暴走族のポリシーを意味する言葉です。
・「愛羅武勇(あいらぶゆう)」 英語のアイラブユーを語源として、女性と愛を語る時にはこの字を使っていました。
他にも、学生カバンに赤いテープを貼れば「喧嘩買います」、白いテープを貼れば「喧嘩売ります」という意味になり、通じる者同士で日常的に喧嘩の売り買いが行われていました。
この時代は、特に深い理由もなく喧嘩を売買して日常的に暴力行為を行っていました。今よりも、暴力や反社会的集団が一般社会の中で身近に感じられる時代だったと言えます。
関東連合の喧嘩の恐ろしさ
川奈毅(川名毅)をはじめとした当時の関東連合は、対立している暴走族グループとの抗争や、敵対している反社会的集団へ襲撃するときには、今ではなかなか考えられない恐ろしいリンチを行っていました。
まずは、リンチの対象者を徹底的に調べ上げ、本人だけでなくその家族や恋人の情報も収集します。その上で、まずはターゲットを拉致し(夜道を歩いているところを包丁で脅す、背後から死なない程度にバイクで轢く、等)、暴力を振るって半殺しにした後で、今後逆らったり報復を考えたりしないように恐怖感を植え付け(男同士のSEX、飲尿や食糞を強要してその写真や動画の撮影)、更に金品を強奪していました。
それでも反抗的な態度を取る場合は、金属バッドで手足をぐちゃぐちゃになるまで叩き潰したり、深夜のガードレールに磔にして放置したりという非道を繰り返しました。更に効果的に屈服させるため、時にはターゲットの目の前でその両親に対して暴行を加えたり、恋人を拉致して強姦したり、ということも行われていました。
関東連合に所属する暴走族メンバーにとっては、「誰よりも喧嘩が強い存在として恐れられること」が何よりかっこよい美学とされ、どうすれぱ相手に恐怖心を植え付けられ、心身共に降伏させられるか、に日夜没頭していました。そのため、どこをどうすればより痛く、我慢ができないほど辛く、屈辱的で、本能的に逆らわなくなるか、という点に重きが置かれており、暴力よりは拷問に近いと言えます。
当時は少年法が改正される前で、殺人を犯したとしても少年院に2-3年収監されるだけですぐ社会に戻って来ることができたため、川奈毅(川名毅)をはじめとした10代の少年たちにとって暴力や殺人のハードルはとても低いものでした。少年院に入った回数が多いほど、男としての格が上がるとも考えられていました。
各地の暴走族のリーダーになるような人物は、「殺人経験」「拷問の多様さ」「メンバーの統率力」「喧嘩の強さ」の四つのいずれもを持っていたと言われています。
川奈毅(川名毅)は俳優経験もある?
「六本木の帝王」の異名と、若い時から暴力団に在籍していることから、恐ろしい風貌ではないかと思われがちですが、過去に映画に出演したことがあります。1991年に公開された吉田栄作主演の映画「代打教師 秋葉、真剣です!」で、当時20歳頃の若かりし川奈毅(川名毅)を見ることができます。
エキストラのような非常に短い出演ですが、芸能界にコネクションがあるだけでなく、容姿が整っているからこそ声が掛かったのでしょう。しかしこの後には特に俳優の経験が無いことから、俳優業には興味がなかったようです。
川奈毅(川名毅)はK-1創始者のボディーガードも務めた
川奈毅(川名毅)は、総合格闘技K-1の創設者であり、格闘技ブームを巻き起こした立役者である石井和義のボディーガードを務めたこともあります。ボディガードと聞くと屈強な男たちをイメージする中で川奈毅(川名毅)の身長は170cm程とずいぶん小柄ですが、その体格の不利を補って余りある「頭脳」と「残忍さ」「凶暴さ」を兼ね備えていたと言われています。
石井和義ってどんな人?
石井和義自身は、学生時代に僅か2年で空手の黒帯を習得し、その後は空手の師範を続け、38歳でK-1の前身である「格闘技オリンピック」を開催して本格的な興行の世界に身を置いた人物です。様々な格闘技の強さを知っているだけでなく、石井和義自身も個人格闘家としては並外れて強いことから、川奈毅(川名毅)に求めたのはスポーツとして格闘技を行う者の強さではなく、喧嘩やリンチで鍛えられた闇社会の強さであったと想像できます。
また石井和義は、格闘家から興行を成功させるための実業家になった人物ですから、金を稼ぐことに大きな執着心がありました。この点で、川奈毅(川名毅)と馬が合ったのではないかとも考えられます。1993年からK-1を開催して成功させ、民放各局で特番が組まれて放映されたほか、2002年には日本格闘技史上最大のイベントである「Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立」が行われ、石井和義は総合プロデューサーを務めました。
その後、2002年末に法人立つ脱税容疑で起訴され、裁判の結果1年10ヶ月の実刑判決が下っています。2008年に刑務所を出所し、その後は自叙伝を出版。現在は格闘技に関わりつつも、リングに上がったり解説席に座る、プロデューサーとして活動する等の表舞台からは徐々に姿を消しているようです。
川奈毅(川名毅)は語学堪能で外国人との間にも独自のネットワークを築く
川奈毅(川名毅)は特に語学が堪能だったと言われています。地元である六本木界隈には国籍多様な外国人が多く住んでおり、外国系の裏組織も多数存在します。
その外国系裏組織に対し、川奈毅(川名毅)は持ち前の語学力とコミュニケーション力を駆使して彼らから信頼され、取引を融通してもらう等の便宜を図ってもらって裏社会での地位を高めていったと言われています。
川奈毅(川名毅)は三茶抗争で裏社会での権力を広げるも石井会に奪われる
川奈毅(川名毅)が裏社会での地位を高める大きなきっかけが「三茶抗争」でした。三茶抗争とは、80年代の終わり頃から川奈毅(川名毅)が創設に関わった「三軒茶屋愚連隊」と、渋谷を根城にしていた反社会少年集団との抗争を指します。毎日のように三軒茶屋愚連隊は渋谷を襲撃し、反社会少年集団相手に残忍なリンチを繰り返しました。
この頃、主に三軒茶屋愚連隊の標的となったのはチーマーと呼ばれる若者たちでした。一方的に暴力を振るわれては黙っていられない渋谷のチーマー達は、三軒茶屋愚連隊とやり合うべくケンカが強いメンバーを集めて「湖池屋」を結成。しかし、この湖池屋は三軒茶屋愚連隊への報復活動の中で一般人を巻き込む暴力事件を起こしてしまい、警察が介入してほぼ全員が逮捕されることとなりました。
後日、この抗争に決着を付けるべく三軒茶屋愚連隊と湖池屋の上層部が話し合う場が持たれました。一触即発で抗争に発展するかに見えたその場を収めたのが川奈毅(川名毅)でした。
結果として、川奈毅(川名毅)は渋谷界隈で名を轟かせ、大きな影響力を手に入れると共に、渋谷で三軒茶屋愚連隊とチーマー達が独自に持っていた風俗・詐欺・薬物等の稼ぎのルートをも手に入れることになりました。この時、20代前半でした。
この三茶抗争で得た利権のうち、稼ぎの大半を占めたのは麻薬取引によるものでした。当時リムジンを乗り回して渋谷・六本木を豪遊していた川奈毅(川名毅)は若い暴走族やチーマー達の憧れの的になると共に、絶対的な富と権力を手にしました。
こうして着実に裏社会での権力を広げていきましたが、その大きすぎる麻薬取引の利権は暴力団に狙われることとなり、2000年代に入った30代前半の頃、住吉会系暴力団の石井会に奪われてしまいました。
ただ、相手が正規の暴力団であっても恐れることなど知らない川奈毅(川名毅)は、利権を奪われた後にその麻薬取引についての詳細を警察に密告し、石井会のトップを逮捕させて報復を果たしたと言われています。
もし報復に失敗して石井会のトップを抑えられなければ、命を狙われて当然の危険なやり取りですが、川奈毅(川名毅)はこの報復をやり遂げ、裏社会での自身の名声をさらに高め、恐れられたと言われています。
暴走族とチーマーの違い
暴走族とチーマーは共に少年が10代頃から所属する反社会的な集団ですが、多くの点で違いがあります。チーマーは繁華街を根城にして徒党を組み、一般の人に対して恐喝や窃盗、暴力を繰り返す集団です。一方で暴走族は同じ中学校出身のメンバーでチームを組み、自らの地元を拠点に主にバイクで暴走行為を行います。
チーマーは暴走族のような暴走行為を行うことはほぼ無く、また暴走族は繁華街を根城にすることはありませんでした。ただ、渋谷近辺では暴走族メンバーの地元に繁華街がある等で活動範囲が重なることも多く、暴走族もチーマーも血気盛んな若者たちであるため、当時は顔を見ればすぐに揉めて、暴力を伴うリンチや抗争に発展していました。
また暴走族とチーマーはファッションの点でも大きく異なっていました。チーマーは、リーバイス等のジーンズやエンジニアブーツを着用したアメリカンカジュアルなストリートファッションを好む者が多く、髪を長くのばしてヘアバンドで止めるスタイルが主流でした。
一方で暴走族は、チームで揃いの特攻服を着用し、チームの旗を掲げ、爆音を響かせるように特殊改造したバイクで暴走行為を行いました。髪は短髪の者が多く、チーマー達を「女性にもてることを目的にしたスタイル」だと馬鹿にしていたと言われています。
暴走族は同じ中学を出身者とする集まりであるため、必然的に先輩後輩の力関係が強く存在していました。反社会的な空気に馴染みすぎて非行や逮捕、少年院行きを繰り返し、一般的な進学や就職が難しくなってしまった者に対して先輩が暴力団への道を斡旋することも多く、暴力団の下部組織としての一面も持っていました。
薬物取引の具体的な方法
一言で「違法薬物の取引」と言っても、例えばどのように受け渡しがされているのでしょうか。よく使われる受け渡し場所はクラブやパチンコ店等、人が多くて騒がしい場所です。
パチンコ店なら隣同士の台に座り、通常のプレイを楽しんでいるフリをしつつアイコンタクトをして連れ立ってトイレへ。トイレなら監視カメラもなく、薬物の受け渡しができます。クラブも同様の手口です。他には、スーパー銭湯やサウナも使われます。脱衣所には監視カメラがないため、人が少ない時間帯を狙えば受け渡しが可能です。
更には、直接手渡ししない方法としてコインロッカーを使う手口もあります。監視カメラが無い、もしくは死角になるロッカーの中に薬物を入れ、ロッカーの鍵は近くの自販機の下に隠します。薬物の買人は、自販機の下に硬貨を落とした振りをして鍵を拾い、ロッカーを開けます。
こうして私たちの身近な場所で、違法薬物の売買は行われている可能性があります。証拠が残らないため、今も多くの取引は直接の手渡しで行われているようです。薬物取引に精通している人たちは、「この辺りは薬物取引が多く行われている」界隈をいくつも知っています。その取引方法は洗練されており、社会の目をうまく掻い潜ることで、見つかり辛く、かつ確実に薬物を受け渡すことができます。
川奈毅(川名毅)は関東連合のリーダーに就任
川奈毅(川名毅)が関東連合でリーダーを務めていた時期の詳細は不明です。しかし、それまで暴力抗争に明け暮れるばかりの不良集団だった関東連合がその活動を一変し、渋谷や六本木などの繁華街を中心にシノギといった経済活動を広めたのが90年代から2000年代だった事から、川奈毅(川名毅)が関東連合のリーダーを務めたのはこの時期だったと推測されています。
またそれまで関東連合は、反社会的な少年や闇社会に接している人たちだけが知る存在でしたが、「市川海老蔵暴行事件」を経て世間に広く知られるようなりました。これは、2010年に11代目市川海老蔵が関東連合のメンバーに暴行された事件で、海老蔵が西麻布のバーで明け方に1人で飲んでいたところ、同じ店に居合わせたメンバーら数人とトラブルになり、暴行されて顔面に大怪我を負いました。
左頬を陥没骨折、さらに前歯の損傷、鼻の腫れなど顔面全体に広がる全治2ヶ月という怪我の大きさと、被害者が歌舞伎の世界で名が知れた市川海老蔵であったため、連日マスコミで大きく取り上げられました。
またこの時、市川海老蔵が加害者側に頭突きをした、テキーラを灰皿に注いで飲ませようとした、「俺は人間国宝だ」と言った、等の暴力暴言の報道が過熱しました。市川海老蔵はその全てを否定しましたが、それによって事件はさらに大きく取り上げられることになりました。更に市川海老蔵の顔面整形手術の技法等、多様な側面からも話題を呼んだ出来事となりました。
これらの報道によって、これまで一般にはあまり知られていなかった関東連合の名は、暴力行為を行う反社会的な暴走族の軍団として世に大きく知られることになりましたが、当時は既に川奈毅(川名毅)は関東連合のリーダーではないことから、この事件への関与は薄いと言われています。
収益活動としてのシノギとは
暴力団と聞くと、よく「シノギ」という手段で多額の金を手にしているイメージがあります。ドラマ等では風俗店の元締めとしての姿を描写されることが多いですが、このシノギには幾つかのパターンがあります。川奈毅(川名毅)がリーダーを務めた関東連合は暴力団ではありませんが、組織規模やその影響力から暴力団と同等の力を持っており、暴力団と同様のシノギを行って収益を得ていました。
シノギは、よくイメージされる風俗店の用心棒や元締めとして以外に、違法薬物の販売、売春の斡旋や賭博、またそれに伴う闇金融や恐喝も行われています。警察庁は特に暴力団の収益源となっている、覚せい剤取締法違反、恐喝、賭博、ノミ屋ダフ屋行為、の4つを「暴力団の伝統的資金獲得活動」としています。
中には合法な収益手段もあるシノギですが、大部分は違法であり、また最近はインターネットを使用した賭博や詐欺、世間を騒がせている「オレオレ詐欺」も首謀者は暴力団である場合が多いです。違法なだけあってその収益性はとても高く、詐欺はだまし取ったお金のすべてが暴力団の収入になりますし、違法薬物等も仕入れ値は売値の僅か5%程で、95%は利益になると言われています。
シノギの種類は時代に合わせて多様化していますが、いつの時代でもシノギは暴力団にとって手っ取り早く大金を稼ぐ違法な手段であり、暴力団の幹部たちは億単位の大きなお金を動かすことができます。
川奈毅(川名毅)は、三茶抗争の後から特に麻薬・覚せい剤の密輸や販売に詳しいルートを保持しており、川奈毅(川名毅)がリーダーを務めた頃の関東連合の主な収入源も、薬物から得ていたと言われています。
川奈毅(川名毅)の芸能界における経歴
川奈毅(川名毅)は関東連合のリーダーとして渋谷界隈の裏社会で広く権力を手に入れた後、芸能プロダクション業に手を出していきます。
華やかな繁華街が集まる渋谷・六本木で芸能関係者との関係を築き、芸能プロダクション業を営みながら、美しい女性芸能人とのスキャンダラスな関係を持ち、更にはもともと自身が扱っていた違法薬物を、芸能界へ広げていくこととなります。
川奈毅(川名毅)は芸能プロダクション業に進出
川奈毅(川名毅)は、芸能界への足掛かりとして「芸能界のドン」と呼ばれる「バーニンググループ」のトップ・周防郁雄に取り入り、「カバン持ち」として関係しました。まずは芸能界のドンのそばで芸能界の表と裏側をくまなく観察し、誰と誰が仲が良く、誰が誰に頭を下げているのか、影響力があるのかを把握し、更に自分自身のコネクションを広げていきました。
このコネクションづくりと前後して、川奈毅(川名毅)はセクシービデオ業に進出するため、関東連合の後輩・松嶋クロスを脅して「マッシムプロダクション」という芸能プロダクションを設立させます。このプロダクションは松嶋クロスが監督として制作したアダルトビデオを中心に順調に売上を伸ばし、会社を大きくしていきます。
周防郁雄とはどんな人物なのか
周防郁雄は、巨大芸能グループ「バーニング」のトップに君臨する人です。政界やマスコミに大きなコネがあり、特に週刊誌のスクープなどは彼が命じるがままに記事が作られていると噂されています。周防郁雄の批判記事を書けば系列のタレントが降板することになりかねないため、どのメディアも周防郁雄に逆らうことができません。
また、暴力団と繋がっているという噂も強く、暴力団から流れてくる金・女・薬を各種メディアへの接待で使うことで、テレビや映画等での大きな役どころをいくつも自社タレントに用意させていると言われています。
また、他の芸能事務所からも一目置かれており、活躍が期待される若手を見つけるとその所属事務所や音楽出版権を強引なやり方で手に入れ、自社グループの拡大にも力を注いでいると言われています。
川奈毅(川名毅)はプラチナムプロダクションの設立発起人に
その後2000年に川奈毅(川名毅)はプラチナムプロダクションという芸能事務所の設立発起人となっています。このプロダクションは当時エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社の子会社で、モデル・タレント・グラビア部門に特化した事務所として設立されました。
プラチナムプロダクションは現在も多数の人気タレントを抱えており、芸能プロダクションとしてはかなりの大手プロダクションです。一からプロダクションを設立するのではなく、大手レコード会社と関係のあるプロダクションに有力者として名前を連ねているところに、川奈毅(川名毅)のコネクション作りの卓越さを垣間見ることができます。
プロダクションの仕組み
芸能人は多くの場合芸能プロダクションに籍を置き、各メディアからの出演依頼やスケジュールをプロダクションが調整しています。そのために、出演料の何割かをプロダクションが収益として得る仕組みになっています。
大手プロダクション同士でタレントを引き抜いたり、もしくは力のある芸能人やマネージャーが独立して成功してしまうと、プロダクションとしてはおもしろくありません。そのため、先に紹介した周防郁雄が元締めと噂されているプロダクション同士の連合体「音事協」があり、プロダクション同士でタレントを引き抜き合うことを禁じていると共に、独立した芸能人に対しては周防郁雄が命じて圧力がかかり、大きな役どころからは降板させられてしまうと言われています。
そのため、一から芸能プロダクションを作って成功することはとても難しい世界です。芸能界で力を得ようとした川奈毅(川名毅)が大手事務所が傘下とし立ち上げた新プロダクションの設立発起人となったことは、できすぎるほど近道であると言えます。
川奈毅(川名毅)は関係をもった女優に刺青を入れさせていた
川奈毅(川名毅)は当然プロダクションの運営にも関わっていたと考えられます。そこに所属する芸能人の中には、芸能界で成功したいという野心から関係を望む女性もいたかもしれません。
当時、川奈毅(川名毅)は、自身と特別な関係を持った女性に「K」の刺青を入れさせていたと言われています。「K」は自分のイニシャルです。その女性と自分が繋がっているのだ、と周囲に知られてしまいかねない危険な刺青ですが、それだけ、一度関係ができた女性とはそうとう深い関係を築き、また知られてしまったとしても問題ないほどに大きな権力を有していたと言えます。
刺青のリスク
刺青は、今はファッションタトゥーとして取り入れる人も増えてきましたが、それでも明らかなリスクがいくつかあります。まず真っ先に思い浮かぶリスクは、温泉・プールやサウナなどの公共施設を使うことはできなくなります。更に、大手スポーツジムでは入会を断られることが多いとされています。
またごく一般的に結婚しようとした場合、相手の親・家族に反対されることが予想されます。暴力団や暴走族とまったく関わりが無いとしても、刺青をファッションで取り入れる感性が容認されないケースは多く、上場企業では就職や出世の妨げにもなると考えられます。
更に医学的なリスクとして、刺青に含まれる成分が問題でMRIが受けられない、また刺青は病院で入れるわけではないため、彫る際の殺菌状態を保証できず、何年も経ってからB型/C型肝炎に罹る可能性があります。そのため、保険加入を断られるケースも見受けられます。
最後に、将来的に刺青の除去を検討した場合、レーザー治療などでも完全に消すことは難しく、かつ高額な治療費が必要になります。芸能界では刺青を入れる人が多いですが、安易な気持ちではリスクが大きく、一生付き合っていく心づもりが必要なのが刺青です。
川奈毅(川名毅)は薬物を芸能界に流していた?
川奈毅(川名毅)は、その過去からして当然違法薬物の取引に精通していますから、彼が芸能界に大量に薬物を流通させている、という噂が流れたのも自然なことかもしれません。
当時、川奈毅(川名毅)は芸能人ご用達の遊び場として自身が経営していたクラブのVIPルームを提供し、男性芸能人には美女を、女性芸能人には実業家や社長をあてがって遊ばせ、薬物も使って乱交パーティが開かれていたと噂されています。