水戸事件とは?事件の概要と赤須正夫社長や会社のその後について紹介

知的障害者を多く受け入れ、生活から就労まで全て管理されていたのもあり、虐待の事実はなかなか表沙汰になりませんでした。ではこの残虐な水戸事件はいかにして発覚したのでしょうか?

水戸事件発覚の経緯①1995年に助成金受給の不正が発覚した

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歯車が急激に動いたのは、助成金の不正受給でした。通常、従業員に支払われる給料額に応じて助成金額が決まるので、給料を水増しして申請してました。

社長は、知的障害のある従業員の給料を小銭程度しか与えず、逆に助成金は800万円ほど請け負っていたのです。

水戸事件発覚の経緯②不正受給での逮捕後に虐待も発覚

詐欺罪で逮捕された後、その捜査の延長線上で虐待行為があった事がわかり、発覚しました。金銭を横領し、暴力で支配していた赤須社長の本性が遂に暴かれたのです。

ここで問題なのは、積極的に雇用していたはずの知的障害者に対して行われていたことでした。そして目を覆いたくなるような実態が見えてきました。

水戸事件で起きた虐待行為の実態とは?

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自らが雇用した知的障害者の従業員に対して、具体的にどのような虐待行為が行われていたのでしょうか?その全貌をまとめました。

水戸事件での虐待行為の実態①殴る蹴るなどの暴行

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障害者である従業員に対して日頃から障害者である事を「バカ」などと罵り、角材やバット、椅子などで殴ってました。

もし仕事のミスや問題行動に関して指摘しなければいけないのであれば、口頭注意をするのが基本的な行動になると思います。

ですが、ここでは日頃から言葉で攻め立て、地獄のような卑劣な虐待行為を繰り返していたのです。

拘束し殴打

ある時は階段の下の柱に縛り付け、動けない状態にしてから金属バットで殴り続けそのまま放置していました。

殴られた本人は、毎日こうした暴行にあっていたので、いつこの暴行があったか思い出せなくなっていたそうです。

殴られすぎて耳が変形した

そしてある時は、馬乗りになり、後遺症が残るほど何度も何度も殴られ続け、鼓膜が破れ、耳が変形した事もありました。

これが本当に人間のやる事でしょうか?周りにいた知的障害者が疑問を持っても、外部に伝える術が無かったのです。

水戸事件での虐待行為の実態②拷問のような虐待も行われていた

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膝の裏に空き缶や角材などを挟ませてその場に正座をさせ、さらにその上から重石を乗せて長時間その状態にしてました。

何故このようなことをしなければいけないのか?常人には全く理解できないようなまさに拷問とも呼べる虐待行為もありました。

特定の従業員に対しての虐待

ある知的障害のある女性は、業務用冷蔵庫の野菜室に閉じ込めたり、膝を集中的に暴行され半月板を損傷したりしていました。

そしてこの女性は、強姦被害にもあっていたというのです。知的障害者をこき使い、こうした鬼畜行為が毎日行われていました。

水戸事件での虐待行為の実態③満足な食事を与えなかった

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知的障害者はあらゆる病気を併発してしまう可能性が大いにあり、食事にも十分に気を使わなければいけません。

ですが日頃から知的障害者を馬鹿にする発言を繰り返し、満足に食事を与えることもせず、「バカだからなんでも食う」などと言い、腐ったバナナを与えていたこともありました。

食事風景ではない地獄絵図

茶碗ではなくボールに白米を盛り、そこにタバスコを大量にふりかけて知的障害のある従業員に食べる様指示しました。

最初は食べずにいましたが、空腹のあまりに食べてしまうと、この様子を見ていた者たちで笑い者にもしていました。

ということはやはりまともな食事が毎日出されていたわけでないということも合わせて理解ができます。

水戸事件での虐待行為の実態④女子社員は強姦被害に遭うことも

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知的障害者である女性従業員が暴力を振るわれる以外に性的虐待にあうことも多々ありました。

仕事をしている時間とプライベートの時間を考えると、そのほとんどの時間で虐待行為で苦しんでいたことがわかります。

性的虐待の被害者は10人ほどいた中には、中学を卒業して就職したばかりの少女もいたというのです。

毎日続く卑劣な性的虐待

当時15歳だった少女は、赤須社長の他、彼の友人や出入りの業者などにも毎晩の様に強姦されていました。

あまりの苦痛から、会社を飛び出し、家族の元へ帰っても、事情を知らない身内から戻る様に怒られ、再び悪夢に悩まされます。

勇気を出して逃げ出し、必死に現状を訴えたにも関わらず、信じてもらうことはおろか、激怒され引き戻された彼女は、まさに拷問に耐える毎日でした。

水戸事件での虐待行為の実態⑤虐待が辛くて30キロ歩いて帰った人も

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毎日行われる虐待に耐えかねた男の子が工場から徒歩で逃げ帰ったことがありましたが、その距離は実に30キロほどもありました。

自殺しようとした

事情を知らない母親からは戻る様に促されましたが、彼はそれを懸命に拒み続けました。

大好きなミニカーをポケットに詰めて、家の裏の池に飛び込んで死のうとしたり、かなり精神的に追い詰められていました。

ここからも分かる通り、あの場所で生きるより死んだほうが楽なくらい毎日が地獄だっからこその発言でした。

水戸事件を起こした「赤須正夫社長」とはどんな人物?

優良企業と思われていたはずの工場内で起きていたその異常な労働実態が世間に明らかにされ、社会に大きな影響を与えましたが、そもそも赤須社長はどんな人物であったのでしょうか?

赤須正夫社長のプロフィールや顔写真などは公表されていない

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事件発覚後の被害者家族の証言からは、働く前は良いことばかり言葉を並べるので、安心して子供を送り出していたそうです。そういうところから周りから信用されていたことはうかがえます。

ですが、個人情報の保護の観点からなのか、本人のプロフィールや顔写真がどこにも公表されていない為、それ以上の情報はほとんどわかっていないのも現実です。

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