乙羽信子とは?元宝塚の映画女優!
今からさかのぼる事25年前に、死因は肝臓がんでお亡くなりになった大女優の方で、昭和を代表する方に乙羽信子さんという方がいました。
宝塚にも所属していて、錚々たる面々と肩を並べて大活躍しておりました。
演技力がとても高い女優さんとしても名高く、乙羽信子さんの凄さを拝める作品には「裸の島」があります。
セリフがまるでないという演者の力量がなければ務まらないものでしたが、見事に演じ切りました。
今回の記事では、歩んできた道のりや、死因について、さらには夫についても触れていきます。
また、名言なども揃えて見ましたので、ご覧いただければ、あなたの人生において何かインスピレーションを与えてくれるかもしれません。
乙羽信子とはどんな女優だった?
すでに肝硬変が死因で、この世を旅立ってしまわれましたが、現世の多くの人々に素晴らしい影響を与えました。果たして、どのような死因によってお隠れになったのでしょうか。
まずはどんな舞台で活躍したか経歴についてざっと触れていきます。私生活では大女優でありながら、夫を持ち妻ともなりました。
乙羽信子とは①昭和の映画・ドラマに出演した大女優
画像は、「残菊物語」で「お徳」を演じた時の乙羽信子氏で、ショービジネスの歴史を感じされるようなワンシーンです。
前述で述べた通りさまざまな映画にも出ましたが、実はドラマにも出演し熱演していました。
ご存知のかたも多いと思いますが、戦争のさなかとその後をたくましく渡り歩いた女性の生い立ちを描いた「おしん」でも携わっていて、乙羽信子さんの経歴に彩を添えています。
乙羽信子とは②愛称はオカジ
左は「画報近代映画」の表紙になったときの絵で、健康的で現代でも映えそうなお顔立ちをしております。右画像は、後年のカットで、時の流れを感じさせます。
芸名は乙羽信子ですが、本名の苗字は加治と言います。それに「お」を付けて、このような呼び名で親しまれていました。
乙羽信子とは②出身は宝塚
宝塚時代のワンカットで、乙羽信子さんの表情から穏やかな安堵を享受してもらえるような印象を受けます。
生い立ちを少々述べますと、出自は違うエリアなのですが、神戸に住む機会を得て、宝塚を観ることをたびたび経験しました。
いつしか、少女乙羽信子は、その世界に憧れるようになり、最終的には入学することができました。
ところで宝塚ファン必見の演目と言えば、雪組などで行われた「ボニー&クライド」をご存知でしょうか。
こちらに「ボニー&クライド」の記事が掲載されていますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。また、記事の中に、宝塚で演じた詳細についても載っていますのでお楽しみください。
乙羽信子とは③53歳で結婚
忙しく活動をしていたこともあり、婚期は遅かったです。夫は映画監督でもある新藤兼人氏になります。上の画像は、「午後の遺言状」の撮影中にお二人が写っているものです。
乙羽信子とは④1994年に肝硬変で死亡
死因は、肝臓を悪くしてしまったことで、74歳という年齢で、波乱万丈の乙羽信子さんの人生は幕を閉じました。
しかし、ずっと駆け抜けてきて、身体に鞭打って生きてきた人生としては、なかなか長寿であったともいえるのではないでしょうか。
乙羽信子の経歴は?なぜ宝塚を脱退したの?
宝塚を経て、俗に言う清純派として躍進し、後期にはリアリティのある実力派として変貌していった乙羽信子さんのより詳しい経歴について迫っていきます。
また、宝塚を退団し、その後は大映も大社しましたが、その背景にはどのような経緯があったのでしょうか。
乙羽信子だんは、数々の栄誉のある賞も獲得していますので、そちらもご紹介していきます。
乙羽信子の経歴①宝塚退団後大映から純情型女優としてデビュー
1937年に入学後、「宝塚花物語」が乙羽信子さんの学校での初舞台となりました。ちなみに入団したとき、93人の中では、中よりやや低いランクでした。
同じ時期に入った時でも、デビュー演目はそれぞれ人によって異なるようです。
終戦後の公演では、娘役の中でトップに位置するまで出世し、戦後の黄金期と言われる時代の最初のタームで活躍していました。
自身の娘役としての存在感にかげりを感じ始め、「雨月物語/キュウバ/人魚姫」を機に退団しました。
まるで、一足先に抜けて松竹に属した、淡島千景さんを手本にしての、行動ではと言われていました。乙羽信子さんに関しては進んだ先は、大映になります。
乙羽信子の経歴②キャッチフレーズは「百万ドルのエクボ」
大映に入るからのチャームポイントとして話題にあがっていたのは、乙羽信子さんのえくぼでした。やはり、いつの時代もえくぼというものは人の心を掴むものなのかもしれません。
そこで、「百萬弗のゑくぼ」という通りなのもと、乙羽信子さんはピュアな感じのスターとして飛び立ちました。
乙羽信子の経歴③新藤兼人作品への出演で大映を退社
後の夫となる兼人氏が造った「近代映画協会」が生み出した第一回目となる自主制作の作品となった「原爆の子」に、乙羽信子さんは参加します。
少々問題があり、大映は乙羽信子の出演に賛成しませんでしたが、反対をつっぱねて実行し、それを転機として大映を辞めてしまいました。
乙羽信子の経歴④ヌードもこなす体当たりな演技が話題に
退社後も、「近代映画協会」との関りは続いて、精力的に作品に参加していきます。
清純的なイメージからは一変して、乙羽信子のスタイルはリアリティのある実力派へと変貌し、最終的には日本の映画界の偉人として、未来永劫、人々の心に残る存在となりました。
乙羽信子の経歴⑤「裸の島」でモスクワ国際映画グランプリ受賞
非常にアーティスティックで、演者の質がより重要とされる「裸の島」で乙羽信子さんはアクトレスとして輝きを増しました。
作品自体、世界での評価も高く、インターナショナルムービーにおける賞まで授与されることになります。
ヴェネツィア国際映画祭イタリア映画ジャーナリスト選出最優秀女優賞を受賞
乙羽信子さんが結婚してからの、再起動の作品である「絞殺」で、さらに高みに昇りつめます。
映画の世界でも栄えあるものとされる、ヴェネツィアで開催された映画祭で、ジャーナリスト達が選んだアクトレスを称賛する賞を授かることになります。
乙羽信子の代表作①代表映画一覧
言わずと知れた大女優と言われる所以になった、乙羽信子さんの出演映画の数々を、時には評価も交えてご紹介していきます。
乙羽信子の代表映画①1950年「處女峰」(デビュー作)
富田常雄氏が著した「處女」という小説を映画化したもので、著者は有名な「姿三四郎」の原作者でもあります。
3人のハイソな姉妹たちに恋慕されている青年実業家が、最終的に長女を傷つけてしまうという色恋のストーリーです。
長女と男性がもともといい名づけという間柄だったのですが、彼が本当に好きなのは、乙羽信子さんが演じる二女でした。
50年代、特に初頭では女性の潔白性や純潔といったものが、特に注目を集めていて処女性とは、当時の一種のセンセーショナル事項となっていました。
そこで、乙羽信子という清純派で名を馳せていた女優を起用することで、なおさら話題を集めました。
現代の感覚とは違って、女性に対する隔たりを象徴しているかのような時代でした。
乙羽信子の代表映画②1951年「愛妻物語」
新藤氏が監督をしていて、かつ自身の自伝を投影した内容となっています。役者陣には宇野重吉さんと乙羽信子さんが参加しています。
ここでの乙羽信子さんの役は、なかなか日の目をみないシナリオライターを影から、ひたむきに支える女性を演じています。
結局、無理がたたってか、病にかかり倒れてしまうのですが、パッションに溢れていて人々の心を打ち評判でした。
夫となる兼人氏とのなれそめのターニングポイントとなった作品でもあります。