佐々木つとむ愛人に刺殺された元祖ものまね四天王!
皆さんは「ささきつとむ」という男を知っていますか?彼は、お笑い芸人として多くのお客さんやテレビ視聴者など多くの人の注目を集めました。
しかし彼は生前に起きた殺害事件により悲しくもこの世から去っていったのです。
では彼はなぜこの世を去ったのか?説明と共に見ていきましょう。
佐々木つとむのプロフィールと経歴
そしてここからは殺害されたお笑い芸人「ささきつとむ」について彼がこれまでにどのような人物だったのか?
ささきつとむが殺害されるまでにいったい何が起こったのか?また、ささきつとむは生前どんな人間でどんな人生を送ったのかを幼少期から詳しく見ていきましょう。
本名は佐々木宏幸で兵庫県出身
芸人として多くの番組や司会をされた佐々木つとむですが、実はこの「ささきつとむ」というのは本名ではなく、本当の名前は「ささき」というのはそのままで下の名前が「ひろゆき」というのが本名だそうです。
ささきつとむは昭和22年の7月23日に、兵庫県の神戸市において元気な男の子としてこの世に生まれます。ちなみに同じ1947年生まれの芸能人は、北野武(ビートたけし)、泉ピン子、蛭子能収だそうです。
ささきつとむは幼少時代から活発な子供で、小学生の時には先生の仕草や特徴をものまねしクラス中を笑いで包むほど人気者になるなど人を観察する能力は非常に長けた少年だったようです。
また自分自身も才能があるのではないかと思っていたとのことで、ささきつとむはそんな日々を送っていた少年時代からお笑いに興味を持ち始めていたそうです。
17歳で浅草松竹演芸場の司会に
そしてささきつとむは自分の才能を信じ、高校生の時に自ら書類を番組に送り、そこから素人として演芸番組に出演するようになったそうです。
するとある日ささきつとむは芸人の先輩から声を掛けられ、何を言われるかと思えば、その先輩はささきつとむのものまね芸を見て一目置かれたとのことで、その際「浅草松竹演芸場の司会をやらないか?」と急な誘いを受けたそうです。
その後ささきは高校を途中で辞め、浅草の松竹演芸場において司会者に選ばれることになり、その後、芸能の世界に飛び込んだとのことです。
昭和50年代ものまね芸人として人気に
ささきつとむは当時のものまねタレントの中では群を抜く存在であり、演芸の前説を披露するとそれが大人気だったそうです。
またささきつとむは「放送演芸大賞」における「部門賞」でその年に活躍した芸能人やタレントの中から「声帯模写」の部門において二度の受賞も経験するほどの実力派ものまねタレントでもあったそうです。
佐々木つとむは芸人・神奈月の師匠
そんなささきつとむには一人の弟子がいて、それは、同じくお笑い芸人でものまねタレントの「神奈月」さんです。
神奈月さんと言えば、「武藤敬司」さんをはじめとし、「萩原流行」さん、「井上陽水」さんのものまねと数多くのレパートリーを持つことで多くの方に知られています。
特にこの武藤敬司さんのものまねを見てプロレスに興味を持ったという人も少なくはないようです。
また、やはりささきつとむ刺殺事件がテレビのニュースや新聞などで報道された当時それを見た神奈月さんは動揺を隠せなかったようです。
やはり、ささきつとむは尊敬していた師匠でもあり、一人のものまね芸で頂点まで上り詰めた男「ささきつとむ」の背中を負うものとしてこの報道は衝撃的なものだったのではないかと思います。