この事例は、単独犯による犯行ではなく典型的な集団での極悪な事件です。集団心理の観点から、過去の少年による禍々しい集団事件との共通性が指摘されています。
集団心理とはいったいどんなものなのでしょうか。
集団(群集)心理の法則
集団心理は群集(群衆)心理ともいい、群集に特有な心理状態を指します。このような状況は不安定で変化しやすい心理状態といえます。
人は群集になると個のときよりもモラルが低下し、無責任になります。破壊行動を誰かが行っても誰も止めず、同調してしまいます。
また思考能力が低下します。暗示にかかりやすくなるといえます。ひとごみの中での火事で一斉に出口に殺到するなどのパニック状態がこれにあたります。パニックは感染していきます。
個が消え感情的になる
群集にまぎれると個が消えてしまい、匿名性が強まっていきます。単体で行動している場合は名前を持ち、責任をもった行動をとれる人でも匿名性が与えらえるとどうなるでしょうか。
悪いこと、恥ずかしいことといったことも、群集にまぎれて自分が特定されないとなると平気になってしまいます。赤信号・みんなで渡れば怖くない、の心理状態です。
そして考え方が単純化していき、結果、感情的な行動が増えていってしまいます。興奮状態にも陥りやすくなり、暴走は止まらなくなります。
少年集団による凶悪な事件
このように、集団(群集)心理がすべて悪く作用すると、興奮状態のまま間違いをただすことなく突き進んでいってしまいます。
少年グループによる事件の中には、こうした心理が働いたことによる狂暴・凶悪化があったのではないかと指摘されています。少年特有の虚勢の張り合いという面もありますが、集団心理も大きく作用しているといえます。
今回の事件と共通性が語られたのは、女子高生コンクリート詰め殺人事件や名古屋アベック殺人事件でした。
Contents
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の裁判は長期化した
1995年、小林ら三人は名古屋家裁の審判で、刑事裁判が妥当とされて名古屋地検により起訴されています。
この裁判は長期化し、第一審、二審で150回近く公判が開かれています。最高裁での死刑判決が下るまで実に16年かかっています。
3人の犯人のなすりつけ合い反省の態度は無し
刑事裁判の当初、三人は反省の色なく笑みを浮かべたり大げさな溜息をつくなど不遜な態度をとっていました。犯行当時は少年だったので刑が軽くなるという考えがあったのではないかと推測できます。
そして互いに、首謀者は自分ではないと言い張り責任を押し付け合っていました。
年長者である大倉がリーダーであり自分は従うしかなかった、あるいは殺意の否認など、三人の言い分はそれぞれ責任回避に走ってるようにもとれました。
義母を殺害された芳我匡由の姉が情状証人として出廷
2000年に芳我匡由の姉が出廷しています。彼女は義理の母を殺害された犯罪の被害者家族でもあり、犯罪加害者家族でもある立場でした。
芳我の姉は犯罪にあった当時、犯人に対して許せない気持ちは強く持ったものの死刑になっても死んだ人は戻ってこないことも痛感しており、誰であれ人が死ぬのはもう嫌だと悟ったといいます。
論告求刑公判の直前のタイミングでしたが、「弟がやり直すチャンスを与えてほしい」と芳我の姉は訴えています。犯罪加害者に対しての厳しさも持ちつつ、赦しの心も見せています。
3人は反省したのか態度が変化していくも遺族には届かず
論告求刑の頃には三人の態度に変化が見られます。生きて償いたい、キリスト教に帰依したなどの発言がされるようになりました。
心からの改心が見て取れると感じた遺族もいたものの、こうした態度は減刑を目論んだ露骨なものにしか見えなかったと語る遺族もいました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の裁判
1994年に事件が発生し、1995年に初公判が開かれましたが、2011年に最高裁第一小法廷にて判決公判が開かれました。
日本の国民感情としては死刑賛成に大きく傾いています。そのような状況下で判決が下されました。
2011年3月に小林正人・大倉淳・芳我匡由の判決で死刑確定
2011年3月10日、最高裁は控訴審での被告人三人全員に対する死刑判決を支持し、上告を棄却しました。
これにより、犯行当時少年だった小林正人・大倉淳・芳我匡由の死刑が確定しました。戦後の少年事件で複数の被告人に同時に死刑判決が下されるのは初となりました。
共犯者7人に下された判決
共犯者の少女WとYは少年院への送致となりました。大阪事件のTとUも刑事裁判にかけられ、それぞれ懲役1年8月、4年以上8年以下の実刑判決が下っています。罪状は殺人、死体遺棄容疑となります。
ZとVについてもいずれも有罪となり、木曽川事件でのXは不定期刑の有罪が確定しました。殺人、逮捕監禁、強盗致傷ほう助などの罪に問われています。
7人の共犯者に有罪判決が下されましたが、死刑となったのは小林・大倉・芳我の三人のみとなります。
少年犯罪の厳罰化が進む
最高裁では83年に、死刑適用には犯人の年齢も考慮すべきという考えをしめし、それを尊重した判決が下されてきました。しかし99年の光市母子殺人事件での判決は、18歳だった犯人に対する死刑判決でした。
光市母子殺人事件をきっかけに少年犯罪の厳罰化が進んだといえ、死刑判決にはこのような流れが影響した可能性があります。
以降少年法に関しては何度かの改正が進んでいます。
2014年には有期刑の上限が20年に引き上げられ、2016年には裁判員裁判が始まって以来初となる少年への死刑判決が下ったりしています。現在では、少年法適用年齢の引き下げも議論になっています。
この裁判員裁判が始まって以来初となる少年への死刑判決となった事件について知りたい方はこちらをご覧ください。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件のその後
死刑判決後、小林正人は名古屋拘置所から東京拘置所に移管され、大倉、芳我の両名は一貫して名古屋拘置所に収監されています。
弁護人による最高裁判決を不当とする集会が死刑判決後に開かれており、小林・大倉両名が名古屋高裁に再審を請求しています。
小林正人・大倉淳は再審請求をするも棄却
2011年、小林正人は新たな証拠として専門家に依頼した精神鑑定書を提出し、心神耗弱を理由に無罪を主張しています。
小林は、死刑判決が下された背景には少年事件の厳罰化の流れがあったと考えていました。被害者側にも非があると思っていましたが、遺族感情に配慮して黙っていたといいます。
大倉淳も2013年に遺体鑑定書を提出し、自らの暴行が死因になっていないことを主張しています。いずれも2013年に再審請求は棄却されています。
再審請求は真実をもとに審理してほしいとの思いで要求したものでした。ですが、世間的にみて、あるいは被害者の遺族から見てこの行動はどう映ったでしょうか。
特に遺族には、死刑回避のための行動であり反省があったのだろうかと疑念を抱かせてしまった面がありました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の死刑囚たちの現在
このような冷徹な事件を起こした死刑囚たちは、現在どうなっているのでしょうか。牢屋の中で何を思い、日々を過ごしているのでしょうか。死刑囚に関わることがなかったという人々には気になるところです。
今のところ死刑の執行はされていませんが、詳細に見ていきましょう。
小林正人はクリスチャンの女性を「おかん」と慕う
事件を起こした間もないころは反社会的な態度をとっていた小林正人でしたが、弁護士や教誨師らとの交流を深めるにつれて内省を深めていくようになりました。
1998年頃から面会を続けているクリスチャンの女性を慕い、2006年頃からは「おかん」と呼ぶようにもなりました。犠牲者の命日には祈りを捧げるようになっているといいます。
大倉淳は拘置所内の収入を遺族に渡そうとしている
大倉淳は、作業によって得られるわずかばかりの収入を被害者遺族へ送ろうとしており、謝罪の手紙も書き続けています。「悔やんでも悔やみきれない」と心境を語っています。
大倉は三人の中で一人だけ遺族と面会をしています。大倉と面会し続けた被害者の家族は、彼の死刑を回避するよう嘆願書を提出しています。
また、クリスチャンの女性と収監中に養子縁組をして、改姓しています。現在は黒沢姓です。
芳我匡由はキリスト教の洗礼を受け聖書を読む
芳我匡由は、最も篤く教誨に取り組み必死に聖書を読んでいる模様が伝えられています。第一審の段階でキリスト教に帰依し、洗礼も受けています。「もし許されるなら伝道師になりたい」と語っています。
また、芳我は罪を犯した少年達の更生を支援する団体の代表を務めています。非行に走り罪を犯す少年少女の多くは虐待を受けて育っており、自身の体験と重ね合わせて更生への道をつくっていきたいと述べています。
被害者遺族の癒えることのない想い
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で殺された遺族の複雑な胸中を追っていきます。犯罪において忘れられがちなのが被害者およびその遺族です。彼らの思いに、社会は耳を傾けなければなりません。
長良川事件と木曽川事件、二組の遺族の対応を見ると死刑制度とは?といま一度考えさせられます。
人権を奪った者の人権を尊重するとはなにごとか?遺族が死刑回避を望むならしなくていいのか?逆に死刑を望むならしなければならないのか?…意見はさまざまです。