無抵抗な被害者の殺害は免れた
襲われた者のうち、Eさんは小林らの暴力に対して抵抗しなかったために殺されませんでした。
C・Dさんがやられている間は車の中に拘禁され、おどされていましたが、明朝には大阪市で解放されています。Eさんは頭部外傷・挫傷等の怪我にとどまりました。
このEさんの証言・車の指紋、防犯カメラの映像などをもとに、逃げまどっていた者も全員逮捕に至りました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち①小林正人
主犯格とされる19歳の少年だった小林は愛知で誕生。死刑判決を受けた三人はいずれも、劣悪な家庭環境で育っていました。
似たような境遇の3人はパチンコ店で知り合い、漠然としたアウトローへのあこがれをもって共鳴し行動を共にしたのです。
事件を起こしたときは、まだ彼らは知り合ってひと月ほどという関係でした。
実母と死別し暴力団員に預けられた幼少期
1975年生まれの小林は、本籍は稲沢市にあります。高齢出産だった実母とは死別しており、実父は親戚に養子としてあずけましたが、継母の弟4人の内、3人がやくざでした。
養父は事業に失敗して破産しており相手にされず、また継母からは虐待まがいのことをされていました。孤独な幼少期を過ごした小林は、カツアゲなどを頻繁に行うようになりました。
警察もマークしていたほどの地元で有名な『ワル』
小学校の時にぬすみの犯人と誤解された事がありましたが、その頃から盗癖が激しくなったうえに高学年からはタバコを吸い始めました。
中学生になってからはシンナーを覚え、児童相談所に保護されることもありました。小林は赤ん坊の顔面にパチンコ玉を放つこともあり、狂暴な性格に育っていきました。
素行の悪さが目立ち、地元では警察に睨まれていたほどの札付きの「ワル」になっていました。
事件前まで過ごした『愛和学園』での生活態度
1989年、13歳で県立の教護院『愛和学園』に入所します。男性職員には、成人男性への不信があったのか萎縮して接していました。
ですが、母性愛に飢えていたのか気に入った女性職員に非常に慕っていたと語られています。
愛和学園での生活態度は比較的落ち着いており、後輩や先生にジュースやお菓子を差し入れする事もありました。
少年院に送られた前歴が多数ある
そんな愛和学園を卒園したあとは、またしても非行がエスカレートします。稲沢市内で就職するも一か月でやめ、シンナー遊びにふけるようになりました。その後、窃盗や道交法違反などで少年院に送られています。
少年院を出たあとはますます非行に走り、窃盗、強姦、暴行、銃刀法違反、住居侵入など十もの罪でつかまり、再び少年院に入っています。
仮退所の直後にも強姦でつかまるなど、反社会的で狂暴な性格が分かるような前科・前歴が多数ありました。
収監中に取材に応じた際、生きてて楽しかった事はあるか?との記者の問いには「なかった」と語っています。生い立ちを見ると、彼の目には何が見えていたのか暗澹たる思いにかられます。
周りの大人たちによる懸命な矯正への導きは残念ながらうまくはいきませんでした。まともに学校というものに行けておらず、「普通」の児童とは歩む道が違ってしまいました。
一時期、難病の女性と深い関係になったこともあったようですが、光の射す道へは進めなかったのです。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち②大倉淳
1975年、大阪・松原市にて誕生。19歳だった大倉は第一審では従犯とされていました。その後、主犯と認定されています。
過度な愛情の元育つが荒れる幼少期
姉二人のもと末っ子としてうまれた大倉は、唯一の男の子だった為、両親に溺愛されて育ちました。悪いことをしても叱られることがなく甘やかされて育っています。
小学校ではすでに落ちこぼれて万引きで補導されることもありました。
中学生になってから、野球に打ち込むもすぐにやめており、窃盗やシンナー吸引といった非行に走るようになります。