大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件とは
1994年に発生したこの事件の犯人は小林正人・大倉淳(旧姓小森)・芳我匡由(旧姓河渕)の3名でした。共犯者7名と共に計10名が逮捕されています。
三人は事件を起こした時はまだ成人ではありませんでしたが、長い裁判を経て下った判決は死刑でした。
1994年9月28日~10月8日の11日間という短いあいだに19歳~26歳の青年4名が殺された本件は、詳細が判明するにつれ、その惨たらしさ・残虐さが社会に衝撃を与えました。
そのころは6月後半に松本サリン事件が起き、連日報道が過熱していた時期でした。また、最後に芳我が捕まった前日には阪神淡路大震災が起きており、周知のように立て続けに地下鉄サリン事件も勃発。
死刑判決がでた2011年3月10日の翌日には東日本大震災があり、日本中が震災を報じるようになり、テレビも新聞も混乱を極めていました。
その為、社会的な影響の大きさに比べて人々の記憶には薄い事件となっています。では、どのようなものだったのか、3つの事件を順に詳しく追っていきましょう。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の概要①大阪事件
9月28日、通りがかりの人を複数名で袋叩きにして死に至らしめた事案です。私刑による連続殺人の発端となった出来事となります。
小林らに加え少年U、また拘束部屋の借主でありやくざの成人Tが共犯者として名を連ねています。
当時26歳の被害者に因縁をつけリンチ
小林正人と芳我匡由は道頓堀にて、元すし店従業員のAさんと友人の二人に言掛かりを吹っかけています。
小突きつつやくざの組の事務所前まで連れていくものの、Aさんの友人は逃げ出したため、Aさんだけが彼らのたまり場のマンションに拘禁されました。
そこでは、大倉らと一緒に4人で、Aさんに殴る・蹴る・ライターで火をつけるなどの暴力を19時間にもわたって繰り返しています。
Aさんは裸にされ両手足首を縛られて顔にガムテープを巻かれて、身動きできる状態ではありませんでした。
そのような状況での19時間というあまりにも長い時間の私刑は、まさにAさんにとっては「拷問」だったでしょう。
タコ送りを考えるもうまくいかずに暴行し殺害
芳我が人夫出し業者と顔見知りであることから、Aさんを蛸部屋送りにすればお金が入ると考えた彼らは、飯場にうりとばそうと人夫出しにコンタクトをとりました。
しかし人夫出しからは音沙汰がなく、徐々に焦りを感じた彼らの暴力はエスカレートしていきます。Aさんの処遇に困った小林らは、Aさんが通報することを恐れたため、彼を「片づける」ことにしたのです。
瀕死のAさんの首にベルトを巻き、4人で引っ張りあげました。こうしてAさんを手にかけた後は、やくざの幹部のTに遺体の処理方法の相談をしています。
やくざのTは45歳でした。大人が関わっている場面が少なからずあったのです。未熟な子どもを導かねばならない立場であるのにむしろ犯罪行為に加担してしまっていました。
遺体を山林に放置
命を奪ったあとも、本当に死んでいるのかを見るためにタバコの火を当てるという行動をしています。人の心がないかのような所業に見えます。
小林らは、亡骸を捨てる為、台風を避けて海辺を外し高知県の山中にTの車で向かっています。高知はTの出身地・徳島にほど近く、Tの発案で死体遺棄場所を決定しています。
林道からごみのように亡骸をなげすてた後、彼らはすぐに大阪に戻っています。酷い殺し方にも眼を背けたくなりますが、死者の尊厳をまるで無視したかのような扱いに言葉もありません。
Aさんの死体発見時の状況は耐え難いものがあったといい、腐敗も進んでいました。そんな状況下でも、内臓破裂や肋骨・鎖骨の骨折が確認されています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の概要②木曽川事件
初めに起こした暴挙の後の足取りと第二の凶変について詳述します。ここから、木曽の2つの川を舞台にして、悲劇が連発します。
第一の事件で遺体を捨てたとき、明け方の海を見て綺麗だなと思ったと小林は語っています。良心が感じられない発言であり、続く殺生にさもありなんと思わせてしまいます。
共犯者の逮捕により愛知へ逃亡
大阪での悪行から二日後に、小林らとUの計4名は、又同じところでゆすりを行います。高校生たちから現金などを強奪し、一人を拉致しています。この時は、通報されて共犯のUが捕まりました。
三人はUがつかまったことを知り、小林の地元の愛知に逃亡します。この後、大倉の提案で彼の地元の松原に向かいました。
松原のパチンコ店にて、男V(当時20歳)と知り合って仲間にしています。Vは定職を持たずぶらぶらしていました。
女を斡旋するといってVを運転手にしており、その約束のために彼らは18歳の少女Wの家に向かいました。Wの家は一宮市内にあり、夜通しの運転で到着しています。
Wは19歳の少年X、翌日には16歳の少女Yを呼び出しました。この時点で7人の集まりになっています。皆、シンナー吸引友達という間柄でした。
小林らは逃亡中という身もあってか、落ち着く場所を探していました。彼らはXの仲間の、21歳の男Zの家を目指します。この家でのシンナーパーティーを経て再び惨劇が起こります。
被害者の一言がきっかけでリンチが始まる
10月6日のことです。シンナーを吸っている最中、小林の知り合いだった型枠大工のBさんがZ宅に訪ねてきます。Bさんはかつて恋人の女性を小林に強姦されうばわれた過去があり、恨んでいました。
Bさんが小林をにらみつけ、さらに「お前のしたコトを刑事に言う」等と言った為に、逆上した小林と喧嘩になりました。
大倉も同じく、刑事という言葉に敏感に反応し、その喧嘩に加わりました。Xも、事件に無関係にも関わらず暴行に加わっています。
その場にいた6人はどんどんエスカレートします。鉄パイプなどで殴ること数百回、頭からしょうゆ等をかける、傷を刺す、火をつけるなど…。7時間にもわたって徒党を組んでの私刑が行われました。
雑木林に放置し殺害する
Z宅から移動する際、Bさんは逃げようとするも失敗し、木曽川ぞいの公園等で集団私刑が続きました。この時、少女らを含め誰もこの愚挙を止める者はいませんでした。
殴る蹴るなどの酷い暴力の末、雑木林に捨て置かれたBさんは息絶えました。誰かが暴力を止め、病院に連れていくといった処置をとれば助かったかもしれない命でした。
Bさんの遺体は発見時には、頭蓋骨が脊椎から離断しており死因がはっきりしませんでした。硬膜下血腫か内臓損傷または外傷性ショック死のいずれかが死因と目されています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の概要③長良川事件
これは翌日の10月7日という短い期間で起こっています。地理的にも近いといえます。当初は地元の新聞では二つの連なった事案として報じられています。
人の命を奪うという大罪を、日をおかずに続けざまに犯していく様は常人には理解できない範疇といえましょう。感覚がマヒしていたのでしょうか。
芳我は、昨日やったばかりなのに今日もか…と思ったと言いますが、結局は悪事に手を染めます。犯罪による絆ができてしまい、もはや拒絶不可能な状況にあったのかもしれません。
遊ぶ金欲しさに2名の男性を拉致し暴行
愛知・稲沢市のボウリング場にあらわれた小林らは、金のある「カモ」はいないかとバイトのCさん、会社員Dさん、大学生Eさん(何れも男性)に目をつけます。彼らはここにはたまたま、遊びに来ていました。
「笑われたような気がした」「髪が赤かったので」…という、あまりに理不尽な理由で犠牲者に難癖を付けたというのが後から分かり、ある意味やるせない気持ちにさせています。
小林らは、Cさん達を駐車場に強引に連れていって暴力をふるっています。金品を強奪した後は、Eさん所有の車に拉致・監禁をしました。そのまま長良川まで連れ回しています。
2名を殺害し河川敷に放置
中には、この蛮行を止めるよう申し出た者もいましたが、最終的には110番されぬ様にC・Dさんは命を奪われました。のちの証言で、暴力を止めようとした少女二人の命も取ろうとしていたことがわかっています。
長良川ぞいで見つかった二人の遺体は、全身骨折や大量出血が認められました。この遺体もまた、想像を絶する状態でした。1時間以上に渡り、鉄パイプなどで滅多矢鱈に殴られたのです。
小林と芳我に至っては、戻ってきてすでに動かない犠牲者の体をさらに殴る・タバコの火をつけるなどの行為を繰り返しています。
無抵抗な被害者の殺害は免れた
襲われた者のうち、Eさんは小林らの暴力に対して抵抗しなかったために殺されませんでした。
C・Dさんがやられている間は車の中に拘禁され、おどされていましたが、明朝には大阪市で解放されています。Eさんは頭部外傷・挫傷等の怪我にとどまりました。
このEさんの証言・車の指紋、防犯カメラの映像などをもとに、逃げまどっていた者も全員逮捕に至りました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち①小林正人
主犯格とされる19歳の少年だった小林は愛知で誕生。死刑判決を受けた三人はいずれも、劣悪な家庭環境で育っていました。
似たような境遇の3人はパチンコ店で知り合い、漠然としたアウトローへのあこがれをもって共鳴し行動を共にしたのです。
事件を起こしたときは、まだ彼らは知り合ってひと月ほどという関係でした。
実母と死別し暴力団員に預けられた幼少期
1975年生まれの小林は、本籍は稲沢市にあります。高齢出産だった実母とは死別しており、実父は親戚に養子としてあずけましたが、継母の弟4人の内、3人がやくざでした。
養父は事業に失敗して破産しており相手にされず、また継母からは虐待まがいのことをされていました。孤独な幼少期を過ごした小林は、カツアゲなどを頻繁に行うようになりました。
警察もマークしていたほどの地元で有名な『ワル』
小学校の時にぬすみの犯人と誤解された事がありましたが、その頃から盗癖が激しくなったうえに高学年からはタバコを吸い始めました。
中学生になってからはシンナーを覚え、児童相談所に保護されることもありました。小林は赤ん坊の顔面にパチンコ玉を放つこともあり、狂暴な性格に育っていきました。
素行の悪さが目立ち、地元では警察に睨まれていたほどの札付きの「ワル」になっていました。
事件前まで過ごした『愛和学園』での生活態度
1989年、13歳で県立の教護院『愛和学園』に入所します。男性職員には、成人男性への不信があったのか萎縮して接していました。
ですが、母性愛に飢えていたのか気に入った女性職員に非常に慕っていたと語られています。
愛和学園での生活態度は比較的落ち着いており、後輩や先生にジュースやお菓子を差し入れする事もありました。
少年院に送られた前歴が多数ある
そんな愛和学園を卒園したあとは、またしても非行がエスカレートします。稲沢市内で就職するも一か月でやめ、シンナー遊びにふけるようになりました。その後、窃盗や道交法違反などで少年院に送られています。
少年院を出たあとはますます非行に走り、窃盗、強姦、暴行、銃刀法違反、住居侵入など十もの罪でつかまり、再び少年院に入っています。
仮退所の直後にも強姦でつかまるなど、反社会的で狂暴な性格が分かるような前科・前歴が多数ありました。
収監中に取材に応じた際、生きてて楽しかった事はあるか?との記者の問いには「なかった」と語っています。生い立ちを見ると、彼の目には何が見えていたのか暗澹たる思いにかられます。
周りの大人たちによる懸命な矯正への導きは残念ながらうまくはいきませんでした。まともに学校というものに行けておらず、「普通」の児童とは歩む道が違ってしまいました。
一時期、難病の女性と深い関係になったこともあったようですが、光の射す道へは進めなかったのです。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち②大倉淳
1975年、大阪・松原市にて誕生。19歳だった大倉は第一審では従犯とされていました。その後、主犯と認定されています。
過度な愛情の元育つが荒れる幼少期
姉二人のもと末っ子としてうまれた大倉は、唯一の男の子だった為、両親に溺愛されて育ちました。悪いことをしても叱られることがなく甘やかされて育っています。
小学校ではすでに落ちこぼれて万引きで補導されることもありました。
中学生になってから、野球に打ち込むもすぐにやめており、窃盗やシンナー吸引といった非行に走るようになります。
長続きしない職歴
高校受験に失敗して定時制高校に通うようになり、昼間は工場や肉屋で働くようになりましたがいずれも長続きせず、高校も中退しています。
料理店や自動車整備工場など複数の職を転々としましたが、やはり長続きはしませんでした。
暴力団と盃を交わし暴力団の準構成員に
ホストクラブに勤めていた頃、大倉は恋人を通じて、のちの共犯者となるやくざ組織のTと知り合い、Tに心酔する様になります。
大倉はTのもとで働くようになり、両親も手がかかる息子をやくざのTにあずけてしまいました。
そして大倉はTと杯を交わし、やくざの準構成員となります。恐喝や強盗を働いて保護観察処分となったあと、Tの属するやくざの配下で働くようになりました。
少年やくざとして出発することになってしまった大倉ですが、何故こうなってしまったのでしょうか。本人のせいか?親・学校・地域・社会のせいか…?やくざになる理由を考証する必要があったのかもしれません。
人との出会いが人生を変える事はよくあります。ただ、それが良い出会いになるか悪い出会いになるのかは本人次第です。もしかしたら引き返せた出会いがあったかもしれず、大倉はそれを逃していた可能性があります。
暴排法が制定されてから、やくざの徹底排除が社会的風潮になっています。しかし何故やくざになるのかを考えていかないと、只の排除だけでは根本解決にはならないのです。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち③芳我匡由
当時18歳の芳我は大阪・西成区の出身で1975年に出生。三人の中では下っ端扱いでしたが、控訴審・上告審で主犯格と認定されました。
元暴力団員の父親と放任の母親の元で育つ幼少期
芳我は7人兄弟という大家族の中で育ちました。ですが、元暴力団員だった父親はすでに家におらず、非常に貧しい家庭だったといわれています。
母親に育てられるも、その母もゲームセンターに入り浸りの放任家庭でした。
小学校の頃は格好が汚いという理由でいじめを受けていました。その間、地元の野球チームに所属して野球に打ち込んでいます。
芳我はこの野球チームのコーチにとても懐いており、小学校卒業時に後輩をチームに誘っています。
この後輩はのちにプロ野球選手となってパリーグで活躍しており、この事件の取材にも応えています。
木曽川事件の直前にもコーチに会う機会がありましたが、事件について語りはしませんでした。芳我にとっての居場所はここにもなかったのでしょうか。
やがて、いじめや家庭を忘却できるという理由でシンナーを吸引するようになります。芳我は薬物に逃げるしかなかったのです。
母親の失踪後救護院で生活をする
1989年、中学2年のときに家事をしなくなっていた母親が失踪しています。その頃、芳我は窃盗で補導をうけており、教護院に入っています。
中学校も入学後にまもなく不登校になり、働きながら暮らしたこともありました。
母親による養育が不十分なために犯罪志向となった人物について知りたい方はこちらをご覧ください。
窃盗・シンナーなどで少年院送致される
1990年には窃盗で少年院に送られました。入所中に父親が亡くなっており、少年院を出た後はパチンコ店などで働きました。
その後も非行行為により何度も少年院に出たり入ったりするようになりました。
結婚し子供をもうけるが離婚
芳我は17歳のときに女性と同棲し、一児をもうけて入籍をしています。しかし、ホストクラブでの派手な女性関係によって3か月後に離婚をしています。
荒んだ家庭環境が犯罪者にもたらしていた影響は無視できるものではありません。もし彼らが違う家庭で育っていたら…?親から愛情を注いでもらっていたら…?
仮定に意味はありませんが、違う展開がのぞめた可能性を感じます。連日の凄惨な殺戮は起こっていなかったかもしれません。
シンナーを吸うことによる影響
三人の生い立ちを知ると共通事項のなかにシンナーという単語がでてきます。普通は塗料の薄め液として使うものですが、悪影響があるにも関わらず人体に吸引することが流行したことがありました。
こうした「遊び」の弊害は本件にも見て取れます。友人、先輩に誘われて思春期の少年が手を出してしまう事例が多くあります。
多くの薬物同様、最初は気分がよく楽しく生きられるような錯覚を覚えますが、常用すると大脳皮質が萎縮し、いろいろな症状が出てくることが分かっています。
妄想、幻聴、幻覚の他、性格も変貌し、無気力になったり或いは常にイライラするようになったりします。ここから暴力団との関わりができることも多く、そこから覚せい剤に手を出すようにもなってしまいます。
小林・大倉・芳我もシンナー遊びややくざとのかかわりが取り沙汰されています。
元からやくざと近いなど、薬物に手を出してしまうような環境というものがあったように見えますが、薬物依存症の子どもたちを増やさないように出来なかったものかと考えさせられます。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件に見られる集団心理
この事例は、単独犯による犯行ではなく典型的な集団での極悪な事件です。集団心理の観点から、過去の少年による禍々しい集団事件との共通性が指摘されています。
集団心理とはいったいどんなものなのでしょうか。
集団(群集)心理の法則
集団心理は群集(群衆)心理ともいい、群集に特有な心理状態を指します。このような状況は不安定で変化しやすい心理状態といえます。
人は群集になると個のときよりもモラルが低下し、無責任になります。破壊行動を誰かが行っても誰も止めず、同調してしまいます。
また思考能力が低下します。暗示にかかりやすくなるといえます。ひとごみの中での火事で一斉に出口に殺到するなどのパニック状態がこれにあたります。パニックは感染していきます。
個が消え感情的になる
群集にまぎれると個が消えてしまい、匿名性が強まっていきます。単体で行動している場合は名前を持ち、責任をもった行動をとれる人でも匿名性が与えらえるとどうなるでしょうか。
悪いこと、恥ずかしいことといったことも、群集にまぎれて自分が特定されないとなると平気になってしまいます。赤信号・みんなで渡れば怖くない、の心理状態です。
そして考え方が単純化していき、結果、感情的な行動が増えていってしまいます。興奮状態にも陥りやすくなり、暴走は止まらなくなります。
少年集団による凶悪な事件
このように、集団(群集)心理がすべて悪く作用すると、興奮状態のまま間違いをただすことなく突き進んでいってしまいます。
少年グループによる事件の中には、こうした心理が働いたことによる狂暴・凶悪化があったのではないかと指摘されています。少年特有の虚勢の張り合いという面もありますが、集団心理も大きく作用しているといえます。
今回の事件と共通性が語られたのは、女子高生コンクリート詰め殺人事件や名古屋アベック殺人事件でした。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の裁判は長期化した
1995年、小林ら三人は名古屋家裁の審判で、刑事裁判が妥当とされて名古屋地検により起訴されています。
この裁判は長期化し、第一審、二審で150回近く公判が開かれています。最高裁での死刑判決が下るまで実に16年かかっています。
3人の犯人のなすりつけ合い反省の態度は無し
刑事裁判の当初、三人は反省の色なく笑みを浮かべたり大げさな溜息をつくなど不遜な態度をとっていました。犯行当時は少年だったので刑が軽くなるという考えがあったのではないかと推測できます。
そして互いに、首謀者は自分ではないと言い張り責任を押し付け合っていました。
年長者である大倉がリーダーであり自分は従うしかなかった、あるいは殺意の否認など、三人の言い分はそれぞれ責任回避に走ってるようにもとれました。
義母を殺害された芳我匡由の姉が情状証人として出廷
2000年に芳我匡由の姉が出廷しています。彼女は義理の母を殺害された犯罪の被害者家族でもあり、犯罪加害者家族でもある立場でした。
芳我の姉は犯罪にあった当時、犯人に対して許せない気持ちは強く持ったものの死刑になっても死んだ人は戻ってこないことも痛感しており、誰であれ人が死ぬのはもう嫌だと悟ったといいます。
論告求刑公判の直前のタイミングでしたが、「弟がやり直すチャンスを与えてほしい」と芳我の姉は訴えています。犯罪加害者に対しての厳しさも持ちつつ、赦しの心も見せています。
3人は反省したのか態度が変化していくも遺族には届かず
論告求刑の頃には三人の態度に変化が見られます。生きて償いたい、キリスト教に帰依したなどの発言がされるようになりました。
心からの改心が見て取れると感じた遺族もいたものの、こうした態度は減刑を目論んだ露骨なものにしか見えなかったと語る遺族もいました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の裁判
1994年に事件が発生し、1995年に初公判が開かれましたが、2011年に最高裁第一小法廷にて判決公判が開かれました。
日本の国民感情としては死刑賛成に大きく傾いています。そのような状況下で判決が下されました。
2011年3月に小林正人・大倉淳・芳我匡由の判決で死刑確定
2011年3月10日、最高裁は控訴審での被告人三人全員に対する死刑判決を支持し、上告を棄却しました。
これにより、犯行当時少年だった小林正人・大倉淳・芳我匡由の死刑が確定しました。戦後の少年事件で複数の被告人に同時に死刑判決が下されるのは初となりました。
共犯者7人に下された判決
共犯者の少女WとYは少年院への送致となりました。大阪事件のTとUも刑事裁判にかけられ、それぞれ懲役1年8月、4年以上8年以下の実刑判決が下っています。罪状は殺人、死体遺棄容疑となります。
ZとVについてもいずれも有罪となり、木曽川事件でのXは不定期刑の有罪が確定しました。殺人、逮捕監禁、強盗致傷ほう助などの罪に問われています。
7人の共犯者に有罪判決が下されましたが、死刑となったのは小林・大倉・芳我の三人のみとなります。
少年犯罪の厳罰化が進む
最高裁では83年に、死刑適用には犯人の年齢も考慮すべきという考えをしめし、それを尊重した判決が下されてきました。しかし99年の光市母子殺人事件での判決は、18歳だった犯人に対する死刑判決でした。