大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件とは?小林正人・大倉淳・芳我匡由の現在

似たような境遇の3人はパチンコ店で知り合い、漠然としたアウトローへのあこがれをもって共鳴し行動を共にしたのです。

事件を起こしたときは、まだ彼らは知り合ってひと月ほどという関係でした。

実母と死別し暴力団員に預けられた幼少期

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1975年生まれの小林は、本籍は稲沢市にあります。高齢出産だった実母とは死別しており、実父は親戚に養子としてあずけましたが、継母の弟4人の内、3人がやくざでした。

養父は事業に失敗して破産しており相手にされず、また継母からは虐待まがいのことをされていました。孤独な幼少期を過ごした小林は、カツアゲなどを頻繁に行うようになりました。

警察もマークしていたほどの地元で有名な『ワル』

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小学校の時にぬすみの犯人と誤解された事がありましたが、その頃から盗癖が激しくなったうえに高学年からはタバコを吸い始めました。

中学生になってからはシンナーを覚え、児童相談所に保護されることもありました。小林は赤ん坊の顔面にパチンコ玉を放つこともあり、狂暴な性格に育っていきました。

素行の悪さが目立ち、地元では警察に睨まれていたほどの札付きの「ワル」になっていました。

事件前まで過ごした『愛和学園』での生活態度

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1989年、13歳で県立の教護院『愛和学園』に入所します。男性職員には、成人男性への不信があったのか萎縮して接していました。

ですが、母性愛に飢えていたのか気に入った女性職員に非常に慕っていたと語られています。

愛和学園での生活態度は比較的落ち着いており、後輩や先生にジュースやお菓子を差し入れする事もありました。

少年院に送られた前歴が多数ある

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そんな愛和学園を卒園したあとは、またしても非行がエスカレートします。稲沢市内で就職するも一か月でやめ、シンナー遊びにふけるようになりました。その後、窃盗や道交法違反などで少年院に送られています。

少年院を出たあとはますます非行に走り、窃盗、強姦、暴行、銃刀法違反、住居侵入など十もの罪でつかまり、再び少年院に入っています。

仮退所の直後にも強姦でつかまるなど、反社会的で狂暴な性格が分かるような前科・前歴が多数ありました。

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収監中に取材に応じた際、生きてて楽しかった事はあるか?との記者の問いには「なかった」と語っています。生い立ちを見ると、彼の目には何が見えていたのか暗澹たる思いにかられます。

周りの大人たちによる懸命な矯正への導きは残念ながらうまくはいきませんでした。まともに学校というものに行けておらず、「普通」の児童とは歩む道が違ってしまいました。

一時期、難病の女性と深い関係になったこともあったようですが、光の射す道へは進めなかったのです。

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち②大倉淳

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1975年、大阪・松原市にて誕生。19歳だった大倉は第一審では従犯とされていました。その後、主犯と認定されています。

過度な愛情の元育つが荒れる幼少期

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姉二人のもと末っ子としてうまれた大倉は、唯一の男の子だった為、両親に溺愛されて育ちました。悪いことをしても叱られることがなく甘やかされて育っています。

小学校ではすでに落ちこぼれて万引きで補導されることもありました。

中学生になってから、野球に打ち込むもすぐにやめており、窃盗やシンナー吸引といった非行に走るようになります。

長続きしない職歴

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高校受験に失敗して定時制高校に通うようになり、昼間は工場や肉屋で働くようになりましたがいずれも長続きせず、高校も中退しています。

料理店や自動車整備工場など複数の職を転々としましたが、やはり長続きはしませんでした。

暴力団と盃を交わし暴力団の準構成員に

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ホストクラブに勤めていた頃、大倉は恋人を通じて、のちの共犯者となるやくざ組織のTと知り合い、Tに心酔する様になります。

大倉はTのもとで働くようになり、両親も手がかかる息子をやくざのTにあずけてしまいました。

そして大倉はTと杯を交わし、やくざの準構成員となります。恐喝や強盗を働いて保護観察処分となったあと、Tの属するやくざの配下で働くようになりました。

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少年やくざとして出発することになってしまった大倉ですが、何故こうなってしまったのでしょうか。本人のせいか?親・学校・地域・社会のせいか…?やくざになる理由を考証する必要があったのかもしれません。

人との出会いが人生を変える事はよくあります。ただ、それが良い出会いになるか悪い出会いになるのかは本人次第です。もしかしたら引き返せた出会いがあったかもしれず、大倉はそれを逃していた可能性があります。

暴排法が制定されてから、やくざの徹底排除が社会的風潮になっています。しかし何故やくざになるのかを考えていかないと、只の排除だけでは根本解決にはならないのです。

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち③芳我匡由

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当時18歳の芳我は大阪・西成区の出身で1975年に出生。三人の中では下っ端扱いでしたが、控訴審・上告審で主犯格と認定されました。

元暴力団員の父親と放任の母親の元で育つ幼少期

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芳我は7人兄弟という大家族の中で育ちました。ですが、元暴力団員だった父親はすでに家におらず、非常に貧しい家庭だったといわれています。

母親に育てられるも、その母もゲームセンターに入り浸りの放任家庭でした。

小学校の頃は格好が汚いという理由でいじめを受けていました。その間、地元の野球チームに所属して野球に打ち込んでいます。

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芳我はこの野球チームのコーチにとても懐いており、小学校卒業時に後輩をチームに誘っています。

この後輩はのちにプロ野球選手となってパリーグで活躍しており、この事件の取材にも応えています。

木曽川事件の直前にもコーチに会う機会がありましたが、事件について語りはしませんでした。芳我にとっての居場所はここにもなかったのでしょうか。

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やがて、いじめや家庭を忘却できるという理由でシンナーを吸引するようになります。芳我は薬物に逃げるしかなかったのです。

母親の失踪後救護院で生活をする

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1989年、中学2年のときに家事をしなくなっていた母親が失踪しています。その頃、芳我は窃盗で補導をうけており、教護院に入っています。

中学校も入学後にまもなく不登校になり、働きながら暮らしたこともありました。

母親による養育が不十分なために犯罪志向となった人物について知りたい方はこちらをご覧ください。

窃盗・シンナーなどで少年院送致される

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1990年には窃盗で少年院に送られました。入所中に父親が亡くなっており、少年院を出た後はパチンコ店などで働きました。

その後も非行行為により何度も少年院に出たり入ったりするようになりました。

結婚し子供をもうけるが離婚

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芳我は17歳のときに女性と同棲し、一児をもうけて入籍をしています。しかし、ホストクラブでの派手な女性関係によって3か月後に離婚をしています。

荒んだ家庭環境が犯罪者にもたらしていた影響は無視できるものではありません。もし彼らが違う家庭で育っていたら…?親から愛情を注いでもらっていたら…?

仮定に意味はありませんが、違う展開がのぞめた可能性を感じます。連日の凄惨な殺戮は起こっていなかったかもしれません。

シンナーを吸うことによる影響

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三人の生い立ちを知ると共通事項のなかにシンナーという単語がでてきます。普通は塗料の薄め液として使うものですが、悪影響があるにも関わらず人体に吸引することが流行したことがありました。

こうした「遊び」の弊害は本件にも見て取れます。友人、先輩に誘われて思春期の少年が手を出してしまう事例が多くあります。

多くの薬物同様、最初は気分がよく楽しく生きられるような錯覚を覚えますが、常用すると大脳皮質が萎縮し、いろいろな症状が出てくることが分かっています。

妄想、幻聴、幻覚の他、性格も変貌し、無気力になったり或いは常にイライラするようになったりします。ここから暴力団との関わりができることも多く、そこから覚せい剤に手を出すようにもなってしまいます。

小林・大倉・芳我もシンナー遊びややくざとのかかわりが取り沙汰されています。

元からやくざと近いなど、薬物に手を出してしまうような環境というものがあったように見えますが、薬物依存症の子どもたちを増やさないように出来なかったものかと考えさせられます。

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