都井は結核や徴兵検査の不合格などが原因で村の女性から拒絶されるようになると畑でいきなり抱きついたり、猟銃で脅し「殺してやる」「交際しろ」と無理やり関係を持とうとしたといいます。未来を閉ざされたことに対する焦燥感や絶望感からでしょうか、この時期の彼には常軌を逸した女性への執着がみられます。
見え隠れする自己顕示欲
犯行を実行する前とその後に都井は複数の遺書をしたためています。遺書の内容は自分に冷淡な村の人間に対する恨みや病気の身の上の悲しみなどが繰り返し綴られており、「僕が此の書物を残すのは自分が精神異常者ではなく前持って覚悟の死である世の人に見てもらいたいためである」という文章や、以前友人に漏らした「どうせ死ぬなら阿部定よりもでかいことをしたい」というセリフからも恵まれない彼の世間に向けて自分の存在を知らしめたいという自己顕示欲の現れが感じられます。
Contents
津山三十人殺し事件犯人都井睦雄の犯行時の出で立ち
都井睦雄の犯行時の出で立ちは異様でかつ機能性に富みインパクトに満ちています。のちに小説や映画などでも再現されているその姿はどのようなものだったのでしょうか。ここで詳しく紹介します。
犯行時の服装
服装は学生服に身を包み、カバンに弾薬を詰めて斜めに掛け、脚にはゲートル(軍隊で使う脛に巻く布)を巻き地下足袋を履くといった格好でした。まるでどこか軍人にも似たこの装いは兵隊になることが叶わなかった彼の無念と憧憬の現れなのかもしれません。
鉢巻と懐中電灯
頭には鉢巻を巻き、そこに懐中電灯を左右に2本差したその姿は彼を目の前にした住人からはさながら鬼のように写ったでしょう。さらに首から自転車用のランプも提げ、停電中の村の中でも的確に犯行を行えるようにしたのです。
津山三十人殺し事件の犯行に使われた凶器
犯行に使用された凶器は猟銃・日本刀・斧の3つです。以前都井は祖母の体を気遣い味噌汁に薬を入れているのを本人に目撃され、「孫に殺される」と警察に通報されたことがありました。その際に一度集めた凶器を押収されたという経緯があります。住民惨殺に使用された凶器は一体どのようなものなのか、どういったルートで入手したのか解説していきます。
猟銃
都井は購入した最初の猟銃を警察に押収されたのち、知人を通して再購入し改造した9連発ブローニング猟銃を使用しました。この銃の威力は凄まじく、現場には内臓や脳髄が飛び散り悲惨な様相を呈していたといいます。犠牲者は主にこのブローニング銃から連射されたダムダム弾によって惨殺されました。
日本刀
刀剣愛好会の会長から譲り受けた日本刀で、都井は「岡山の連隊にいる従兄の軍曹昇進祝いに軍刀を贈りたいから」と嘘をつき安値で手に入れます。襲撃後一番初めの家を襲撃した際に使用された凶器です。
斧
事件発生後最初の犠牲者となった都井の祖母の首をはねた際に使用された凶器です。こちらは薪割り用なのかあるいは山村ということもあり、山などで木を切る際に日常的に利用されていたものを凶器としたのでしょう。
津山三十人殺し事件の犯人都井睦雄をめぐる女性問題
都井睦雄は村の複数の女性と関係を持っており、それが犯行動機にも繋がっています。しかし、それは彼に限ったことではなく、村の多くの男女がそうでした。当時の村の習慣に触れながら彼の女性問題についてここで紐解いていきます。
被害者女性と関係を持ったという主張
都井は自分と関係を持った女性の家を次々と襲撃しています。1軒目の未亡人は何度も都井と夜這いの関係にありましたが、最近になって拒絶するようになり、そのことを村中に言いふらしていたことで彼の恨みを買っていました。
2軒目の人妻とも関係していましたが、こちらも「何度も迫られたが断った」というようなことを吹聴してまわっていたことで都井に恨まれています。5軒目の寺井ゆり子は都井と関係していたものの、親戚に彼から遠ざかるように促され、別の男性と結婚します。都井が最も意識していた女性の1人です。
7軒目の未亡人は都井との関係を捨て別の男性に走り、遺書にも名前のある西田良子と寺井ゆり子の結婚の媒酌人を務めたことが都井の怒りに触れたのでした。7軒目の娘は以前都井との関係を拒絶したことで殺害対象となっています。
11軒目の女性は10軒目の主人とも関係しており、都井とも懇意の仲でしたが、最近態度が冷たくなったことが襲撃理由となります。このような怨恨が積み重なり、犯行へとつながっていったのです。
夜這いの習慣
当時この村では夜這いの風習があり、村の男は夜になると好意にしている女の家に通い、性行為に及んでいました。戸締りもあまりせず、娯楽の無い農村では表沙汰にはできないにしろごく一般的なことだったようです。都井をはじめとした村の男女の多くは妻帯者であるなし関係なく密かに肉体関係にありました。
都井睦雄のストーカー的妄想の可能性
しかし、70年の歳月を経た事件の証人である老人の情報によると都井と被害者の間に交際関係はなく、村中の人間と関係すること自体を疑問視しています。元々証人がほとんど命を落としているため事件全体の概要が不明瞭であり、このような証言の存在から都井の主張する女性たちとの交わりの信憑性も薄れてきます。彼は結核によって死の恐怖に苛まれ、女性たちにも相手にされず、村の風評に悩んだ極限状態によって次第に関係妄想を肥大化させていった可能性があります。
津山三十人殺し事件の犯人都井睦雄と生き残った寺井ゆり子
都井が5月21日を犯行日に指定したのは、当時集落で評判の美人で幼馴染であり彼が最も好意を寄せながらも他家に嫁いでいた寺井ゆり子が帰郷していたためだったという説が存在しています。彼女は都井にとってどのような存在だったのか、また彼女が事件後をどのように過ごしたのかに迫ります。
寺井ゆり子の結婚を妨害しようと試みる
寺井ゆり子は都井と関係があった1人だといわれていますが都井の妄想であったという説もありはっきりとしたことはわかりませんが、別の男性と結婚することに決まった彼女に対して夜這いをしかけ、それを阻止しようとしたことが彼女への並々ならぬ思いを如実に表しています。
寺井ゆり子を執拗に狙う執着心
事件発生時都井は隣家に逃げ込んだ彼女を見逃さず追いかけ、「お前を残していけない」と叫びながら銃を連射しますが結局軽傷を負っただけで助かりました。新坂峠で書いた遺書にも寺井ゆり子を殺し損ねたことを記していることから、並々ならぬ彼女への執着心が見て取れます。
事件後寺井ゆり子を襲う自責の念
なんとか一命を取り留めた彼女でしたが、事件後村であらぬ噂を立てられ村八分同然の扱いを受け、半年後生まれた子供も「都井の子」ではないかと囁かれるなど、自身も事件の被害者でありながら不遇な人生をおくります。毎日犠牲者の冥福を祈りながら手を合わせ、さぞ肩身の狭い年月を過ごしたことでしょう。
村八分に関するその他事件
最近でも村八分に関する事件やその訴訟問題が日本全国多くの地域で発生しています。その中でも代表的な事件を紹介します。新潟県岩船郡関川村沼集落村八分事件:2004年にこの村のお盆のイワナつかみ取り大会にて「準備と後片付けに追われてゆっくりお盆を過ごせない」として一部の住民が参加辞退を申し出たことに対し、集落の有力者が「従わなければ村八分にする」として11戸に制裁を加えた事件です。これを受けて村民たちは有力者らを控訴し、新潟地裁は有力者側に不法行為禁止と損害賠償を命じました。
静岡県上野村村八分事件:1952年に静岡県上野村で起こった、不正選挙の告発を行ったことをきっかけに始まった人権侵害事件で、告発者及びその家族が村八分にされました。田植えの手伝いもなくなり、朝夕の挨拶もなくなるなどの仕打ちを受けることとなり、その顛末はのちに映画化され公開されるなど世間に多大な影響を与えました。これらの事件はこのように、いつの世も掟や連帯感を絶対視する狭い共同体において人間は非常に冷酷になってしまうことがあるという事実を我々に突きつけています。
津山三十人殺し事件現場の今
この凄惨な事件が起きた現場は現在どのようになっているのか。当時穏やかな山村であった集落この地の様子を知る人も少なく、今日事件を知る証人も大部分が鬼籍に入り、残された記録によってしかその詳細を知ることが出来ません。事件後70年以上が経過した集落の状況を見ていきます。
のどかな山村の限界集落
事件現場の集落、特に貝尾集落は山際にあり、周辺の山々は緑に溢れ、季節の草花が咲き乱れており、この場所で世にも恐ろしい大量殺人があったとは想像出来ないほどのどかな風景が広がっています。当時貝尾集落では20数世帯100人程が生活していたといいますが、2010年の国勢調査では13世帯37人程に減少しており、そのうち単身世帯が4軒と限界集落化が進んでいます。
昭和十三年五月二十一日と書かれた墓石群
村の墓地には昭和十三年五月二十一日と書かれた犠牲者たちのものである墓石が散見されます。静かなこの地域でかつて凄惨極まりない事件が実際に起こったことであるという証拠を今に残しています。
犯人都井睦雄の墓
この事件の犯人都井睦雄の墓は貝尾部落から18㎞ほど離れた加茂町倉見にあります。彼の姉がのちに立派な墓を立てて欲しいと希望したといいますが、他の遺族は「決してここに睦雄の墓があると知られてはならない」と言ったといいます。倉見は都井の祖母の嫁ぎ先であり、生家近くの両親の墓の隣に彼の小さな無名墓碑は今もひっそりと佇んでいます。
津山三十人殺し事件は八墓村のモデルとなる
この津山三十人殺し事件は作家である横溝正史が1971年に刊行した『名探偵・金田一耕助シリーズ』の長編推理小説である『八つ墓村』のモデルとなっています。戦時中岡山に疎開していた著者が事件の概要に触れたことで刺激を受けたのでした。刊行後、映画化もされこの事件の名を全国に知らしめるきっかけとなりました。
物語の中の八墓村32人殺し
戦国時代の寒村に逃げ延びた尼子氏の家臣だった8人落ち武者を村人たちが皆殺しにし、彼らの持っていた財宝を手にします。武者大将は「七生までこの村に祟ってみせる」と言い残し絶命しました。祟りを恐れた村人たちは粗末に埋められた落ち武者たちの遺体を手厚く葬り、村の守り神としました。これが「八つ墓明神」になり、いつしか村は「八つ墓村」と呼ばれ始めました。
大正時代、落ち武者殺しの首謀者の子孫である田治見家当主要蔵は粗暴かつ残虐な性格で妻子を持つ身でありながら井川鶴子を監禁し、手籠めにしてしまいます。鶴子は辰弥という子供を出産しますが、その子供は鶴子の想い人亀井陽一との子ではないかという噂を聞いた要蔵は憤慨し、鶴子と辰弥を折檻します。危機感から辰弥とともに親戚宅に身を寄せたまま帰らない鶴子に業を煮やした要蔵は発狂し、村人たちを次々と殺害し山へ消えます。
八墓村との共通点
八つ墓村の要蔵と犯人都井睦雄の犯行時の出で立ちはとてもよく似ています。懐中電灯を鉢巻きの左右に差すところや、日本刀と猟銃を持って犯行に臨むところなど見た目の特徴はまさに津山事件を参考にしたことがわかります。さらに要蔵が殺害した「32人」という人数も実際の事件に近いものとなっています。
「津山三十人殺し」を題材とした書籍
津山三十人殺しに関する書籍は八つ墓村のほか、多数出版されています。世の中を震撼させた事件であり、大衆に与えるインパクトが大きかったこともあるため、書き手のインスピレーションを刺激するのでしょう。ここではその著作の一部をご紹介します。
ノンフィクション
ノンフィクション作品は『津山三十人殺し-村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』筑波昭著、『津山三十人殺し 最後の真相』石川清著、『津山事件の真実(津山三十人殺し)』事件研究所著など、その他様々な考証や解説を施した著作物が近年も出版されています。資料的価値も高いため、事件の概要について詳しく知りたいという方は是非ご一読ください。
フィクション
津山三十人殺しにインスパイアされ、一部設定を盛り込んだ作品は多くみられます。現在この事件を題材にしたフィクション作品は数多くありますが、その中でもよく知られているのが『夜見の国から~残虐村奇譚~』池辺かつみ著です。
コンプレックスが生む悲劇
前代未聞の大量殺人事件である津山事件ですが、犯人都井睦雄の犯行動機からは病身のため男子として兵役に就けないこと、女性からの拒絶などから端を発する底知れぬ劣等感や屈辱感がみられます。それらが誇大妄想や自己顕示欲を掻き立て、やがて事件へと発展したのでしょう。現在ここまでの規模でなくとも、通り魔事件や残酷な殺人事件なども絶えません。しかし、このような事件を教訓とし、のちに起こるであろう事件も未然に防ぐべきです。恨みの種は人の心の中で着々と育ち芽を出します。皆さんは心当たりがありますか。
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