環境汚染に敏感な反応をする鳴き砂は自然保護のバロメーターと言われており、近年の海岸の開発、海浜の汚染などの影響で鳴き砂は減少の一途を辿っています。その鳴き砂の保護を訴える目的として鈴木は今回の飛行計画を立てました。
二転三転した計画案
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三輪教授は鈴木と会うたびに異なった計画内容を話したり「アメリカから帰ってきたら俺は有名人だ」と話していたと言います。鈴木の無計画さと無謀さに気づいていたのか、三輪は無線免許を取ること、出発地は琴ヶ浜でなければ意味がないことを諭していました。
しかし、蓋を開けてみると出発地点はおろか、無線免許も取得しておらず、挙句の果てには上昇訓練と言って自分を裏切り、アメリカへ旅立ってしまった鈴木に三輪教授は「成功すれば冒険家だが、失敗すればバカモンだ」という言葉を残しています。
出発地は琵琶湖じゃなかった?!
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真の目的は鳴き砂保護の第一人者である同志社大学教授の三輪茂雄の活動に賛同し、日本の鳴き砂の保護と壊滅の危機にあったアメリカネバダ州にあるサンド・マウンテンの保護を訴えるものでした。そして出発地を鳴き砂で有名な鳥取県邇摩郡仁磨町(現:太田市)の琴ヶ浜、到着地をネバダ州サンド・マウンテンにしようとしました。
そのため鈴木は当時の仁摩町町長に2度接触をし、今回の計画の趣旨への賛同と経済支援の要請を求めましたが4月の不時着騒動と日米間で飛行許可が下りていないことから正式な文書を通して断っています。そのこともあり急遽、琵琶湖が出発地点とまりました。
風船おじさんの妻・石塚由紀子が闘病の末に死去
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鈴木の帰りを待ち続けた石塚ですが、失踪宣告の申し立てが受理されたことによって鈴木との婚姻関係が解消になりました。そして亡くなる前年にポルトガル人男性と再婚をしました。幸せも束の間、その翌年初めに胆管がんが見つかり、闘病の末、翌年その人生に幕を閉じました。
思えば結婚して約半年でファンタジー号事件が起こり夫である鈴木が行方不明になってしまいましたが、最後までその帰りを待ち続けたことから鈴木に対しての愛情の深さが伺い知ることができます。
2000年には「風船おじさんの調律」を出版していた
![風船おじさんの調律](https://i0.wp.com/images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/4172TB0RP6L.jpg?resize=329%2C475&ssl=1)
石塚は2000年「風船おじさんの調律」を出版します。その内容は夫である風船おじさんこと鈴木に思いを馳せながら、なぜ鈴木は今まで誰も実行・実現しえなかった大冒険に出たのかを妻:石塚の目線から紐解いていくものになります。
最後まで風船おじさんの帰りを信じて待ち続けた
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ファンタジー号事件以来、家族はマスコミと世間から厳しいバッシングを受けますが、鈴木の生存を信じていた家族は、鈴木が帰って来たときに困らないようにとの思いで引っ越しをすることなく待ち続けました。
また家族は鈴木が行方不明になって以降、多額の借金を2006年の時点でも払い続けていたことから、計り知れない苦労を背負うことになりました。しかし石塚をはじめ家族にとっては鈴木の帰りを信じていたからこそ、乗り越えられたのかもしれません。