闇サイト殺人事件とは?残虐かつ無慈悲な事件
闇サイトは、殺人を含む犯罪・違法行為の請負や勧誘を募るサイトで、この事件をきっかけに流行語大賞にノミネートされるほどに話題性を集めました。
2007年8月24日、闇サイト殺人事件が発生
このサイトを媒体に3人の男が共謀して、事件を起こすことになりました。金欲しさにという、彼らの身勝手な理由で無関係の女性が巻き込まれ、その生涯を閉じることになってしまいました。
闇サイト殺人事件では司法の常識が塗り替えられた
司法では「殺人の人数が1人の場合は死刑にならない」のが常識でしたが、あまりに残虐なこの事件はその“常識”を覆します。3人のうちの1人が極刑となりました。
闇サイト殺人事件の概要
事件の流れを、時系列を追ってご説明していきます。被害者は愛知県に住む磯谷利恵さん(31歳)、家まで残りわずか100メートルの場所で起こりました。
住宅街のため夜の人通りは少なくなりますが、街灯もあり近隣住民も安全であると認識していた道でした。
2007年8月24日の深夜、帰宅途中の磯谷利恵さんが拉致される
彼らは金銭を奪う目的で集まり、金を持っていそうな名古屋市内・OLに的を絞り犯行のタイミングを伺っていました。通りがかった数人のうちの一人である磯谷さんに、犯人は目を付けました。
磯谷利恵さんは3人の犯人に拘束され、脅しを受けた
道を尋ねるフリをして、磯谷さんへと近づきました。男は彼女に20センチ程の包丁を突き付け、車へ押し込みます。車内で手錠をかけ、現金約7万円・銀行のカードを奪いました。
事件の発覚を恐れた犯人たちは凶悪な手口で磯谷利恵さんを殺害
同県内の人気がなさそうな場所を変えた彼らは、磯谷さんからカードの番号を聞き出し、携帯へ数字を記録します。その後、強姦されそうになった彼女は激しく抵抗をしました。
恐怖に押し潰されそうな彼女は、気丈にも逃げ道の模索を始めます。これをいち早く察知しが男が殺害を決め、「話を聞いて」とすがる声に耳を貸さず、彼女を殺害します。
男らは彼女の頭に袋を被せ、執拗にガムテープを巻きつけました。そして息が絶えるまで、首を絞める・金づちを使って頭部への殴打を、繰り返し繰り返し行いました。
岐阜県瑞浪市の山林で磯谷利恵さんの遺体が発見される
殺害後、岐阜県へと車を走らせ廃道付近へ遺体を埋めようと考えますが、半身に土をかける程度でその場を立ち去りました。翌日、刑が重くなることに不安を持った1名が自首をし、事件は早期発見に至りました。
闇サイト殺人事件の判決は?覆された司法の常識
事件は、川岸健治(40)、堀慶末(32)、神田司(36)の3人の男によって行われました。この裁判で「殺害した人数が1人でも死刑判決を受ける」というこれまでにない判決が下されたことも、世間を騒がせることとなりました。
闇サイト殺人事件の中心人物・神田司は死刑判決
首謀者の川岸は、「主犯は神田」と供述しました。3者が「主犯は相手だ」と責任転嫁しあう醜い争いをしはじめますが、神田が事件の主要を担っていたと裁判所が判断。
「助けを乞う磯谷さんを虐げ、殺害に至ったことは無慈悲であり、極刑は免れない」と言い渡します。
残る2人の犯人、川岸健治と堀慶末は無期懲役
川岸・堀の2名は極刑を免れ、無期懲役に科せられました。川岸は首謀者でありながら、自首を行ったことが加味されての判決となりました。
堀慶末は別の殺人事件への関与が判明し死刑判決に
堀は無期懲役となりましたが、1998年に起きた「碧南事件」への関与が発覚、当時の共犯者と共に強盗殺人の容疑で罪に問われています。死刑判決が下されましたが、死刑回避を求める控訴を行い、現在は判決待ちとなっています。
川岸健治の法廷での他人事のような発言も話題に
同じく無期懲役の川岸ですが、人間性を疑う言動を残して話題となります。一貫して反省の色が見られない言動に、世間は茫然となりました。
自首については「自分のおかげで事件が早期解決できたから考慮してもらわねば」という、ズレた発言をします。しかし彼は首謀者なのです。理不尽極まりない発言であることは、否定しようがありません。
そして死刑を免れるや否や「運が悪かった」「お気の毒としか言いようがない」「生かしてもらえてよかった」と供述。これらの発言で傷つけられた遺族の胸の痛みは、想像を絶するものでしょう。
闇サイト殺人事件の被害者・磯谷利恵さんの母が集めた署名
磯谷さんは幼いころに父親を白血病で亡くし、母・富美子さんが大切に育ててきた一人娘でした。家族2人で協力して、お互いを大切に思いあい生きてきました。
そんな大切な一人娘が、このような理不尽で残虐な事件で失われてしまったのです。伝えきれない悲しみ、怒り、憎しみ、悔しさを法廷・報道陣に語り、死刑を要求する署名を集めることを決意します。
磯谷利恵さんの母は加害者に極刑を要求する署名を集めた
富美子さんは、2007年9月にこの事件への思いをつづるため、ホームページを開設しました。同月、遺族により署名活動がスタート。開始から約1年後には、28万人を越える署名が寄せられました。
「死刑を要求」というこの活動に対する批判的な意見が、全くなかったわけではありません。しかし同じ境遇の人たちや、事件の残虐さに心を痛めた人たちに背中を押され、この活動を続けることが出来たと、富美子さんは感謝を表しています。
多くの方の努力の甲斐があって、2018年12月には30万を越える署名が寄せられました。さらに日本国内にとどまらず、アメリカ、スイスなどの海外からも署名が届けられました。
署名は33万を超えるほどの数に!他にもメディア露出も
2009年3月の第一審判決の日には、32万の署名が寄せられることに。この活動は、全ての裁判が終わる2012年8月25日に「332,806人」の署名をもって終了となりました。
この多くの人の気持ちを得た活動が、“司法の常識を覆す”という前代未聞の判決へと繋がった一つの要因であろうとされています。
メディアに露出することに抵抗があった富美子さんですが、「娘が少しでも報われるように」「類似する悲しい事件を増やさないために」とう思いでメディアにも進んでコメントを行いました。
被害者の母、富美子さんは現在も事件の語り部を務めている
この事件を通して富美子さんは「被害者よりも加害者の方が、裁判で重んじられているのは何故か」という理不尽をひしひしとその身に感じました。そして犯罪被害や死刑制度の関連する討論会・講演会で、現在も語り部として戦い続けています。
闇サイト殺人事件の異常性とは?匿名性や模倣性の高い事件
悲痛な思いを強いられることになった磯谷さんとその遺族ですが、そもそも男らはどうして闇サイトを媒介として、集まることになったのでしょうか。事件までの数日間の行動からも、その異常性が読み取れます。
加害者3人はインターネットの闇サイトで知り合った
3人の男らはある闇サイトを常用していました。川岸の犯罪を誘う内容の投稿に、他2名が同意し落ち合うこととなりました。
お互いに本名も素性も知らないまま犯行に及んでいた
3人のうち、本名を提示したのは神田だけでした。他2名は山下(川岸)、田中(堀)と名乗り、自身の犯罪歴を簡単に自己紹介を済ませたのち、犯行の計画へと話を進めます。
自身の本名を名乗れないという時点で、悪の認識はあったのでしょうか。しかし「犯罪を犯すこと」へ疑問を持つことが欠落しており、歯止めの聞かぬままにこの異常な会合が進められてしまいました。
再び集まって女性を襲撃する計画を企てていた
磯谷さん殺害後、思っていた金を手にできなかった彼らはすぐに次の計画を立てます。その翌日の夜に、もう一度集合して別の女性を襲撃する画策をしていました。
闇サイト「闇の職業安定所」とは?なぜ加害者らは集まったのか
川岸の投稿に反応したのは、事件を犯すことになった2名だけではなかったようです。このサイトと、ここに集まる人たちについてご説明していきます。
インターネット上の携帯電話用闇サイト「闇の職業安定所」
このサイトでは犯罪の請負や、今回のようにその仲間を募る内容が掲載されます。ここでの誘いを、彼らは「仕事」と呼んでいました。
自殺・麻薬・売春・個人情報の売買などといった内容の闇サイトが存在しており、この事件以外にもこれらを媒介とした事件が存在しています。2010年より警察で、これらのサイトを監視するチームが結成されますが、匿名や暗号を使って行われるやりとりに、難航しているのが現状です。
加害者3人とも消費者金融から借金をしており金に困っていた
この事件は、もともと強盗の目的で行われました。投稿した川岸も「派遣の仕事の賃金に不満があり、金が欲しい」といった内容の書き込みをしました。
川岸健治の書き込みによって集まることになった加害者3人
川岸の投稿に同意し集まった3人ですが、自己紹介代わりに自身の犯罪歴を語ります。相手になめられないようにとお互いに虚勢を張りあい、犯行への収集がつかなくなったという供述もありました。
闇サイト殺人事件の犯人たちの生い立ちと現在は?
過去に犯罪の経歴があること、サイトを常用していたことから、彼らにとって“犯罪”はとても身近なものだったことが伺えます。彼らを作り上げたものとして、それぞれの生い立ちは切っても切れないものでしょう。
闇サイト殺人事件の犯人①神田司
この事件で極刑が下った神田は、1971年に群馬県で生まれました。学生の頃は暴走族の一員で、高校卒業後も定職に就いた様子はありませんでした。