駅弁大学とは?意味は?
駅弁大学が誕生したのは戦後、学制改革で大学数を増やしたときでした。第2次世界大戦で敗戦した日本は、原因が知識階級の少なさだったのではと結論付けます。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の主導の下で行われた学制改革で、高等教育機関を増やしていきました。
戦前の教育環境
戦前の大学数は最高学府とされ、現在の1/10ほどしかなく、国立大に至っては旧帝国大学、文理科大学、商科大学、商業大学、工科大学、工業大学、医科大学合わせて50校にも満たない数でした。進学率は1%ほどで、現在の東京大学より狭き門だったとされています。
教育機関の一般的な最高峰は専門学校とされ、現在の一橋大学も専門学校でした。義務教育は初等教育で終わり、その後は奉公にでる子どもが大半でした。高等学校まで進学してしまえば大学へ入るのは約束されたようなものでした。また高等学校で自称進学校と呼ばれる学校があります。興味がある人はこちらをどうぞ。
駅弁大学はマイナスイメージの言葉?
駅弁大学はだいたい80年前に創設されたのが分かりましたが、はじめからそう呼ばれていたのでしょうか。この呼び名は一人のジャーナリストが付けたものでした。彼は旧帝国大学との差別化を意識した面もありましたが、この言葉には皮肉が込められているのです。
戦後の大学新設ラッシュは上手くいかなかった
学制改革の結果、全国各地に大学が存在するようになり、戦前から大分改善がされました。しかし、当時の日本は義務教育以上の進学は富裕層でないと難しく、義務教育が終わると就労する子どもが多くいました。
教師の質も問題でした。長く続いた戦争のために、満足な教育を受けた教師がまず少なかったのです。日本経済がハイパーインフレだったことも相まって、大学の質はかなり問われるような状況でした。
駅弁大学はジャーナリスト大宅壮一氏が皮肉った造語
そのような中で、新設された大学を「駅弁大学」と揶揄したのがジャーナリストの大宅壮一です。大宅氏は「急行の止まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学有り」と、戦後の教育改革を皮肉ったのです。彼は他に「恐妻」「口コミ」といった言葉も造っています。
戦前に大学に通っていた人はとても少数の限られた人だったというのがお分かりいただけたと思います。そんなエリート中のエリートの有名作家が一人、三島由紀夫。彼についてまとめた記事をご紹介するので、ぜひ読んでみてください。