薩摩隼人とは
「薩摩隼人」には、勇猛果敢、精悍、気性が激しい、怖いなど様々なイメージがありますが、実際にはどのような人たちだったのでしょうか。その気質や歴史、薩摩言葉(方言)や数々の噂の真偽などを確かめながら、真の薩摩隼人像に迫ります。
薩摩隼人とは鹿児島出身の武士のこと
薩摩隼人とは、薩摩(今の鹿児島)出身の武士のことを指す言葉です。古代日本において、この地方に居住していた人たちを「隼人」と呼んでいたことにちなんで、薩摩(鹿児島)出身の武士のことを薩摩隼人と呼ぶようになりました。
「隼人も」も鹿児島の人という意味
実は、「隼人」という言葉も、鹿児島(薩摩)の人という意味を持っていますので、薩摩隼人とはいわゆる重ね言葉にあたります。現在、世間一般の人がイメージする「隼人」=「強く勇ましい男性」という意味ではありませんでした。
薩摩隼人は勇猛果敢で知られる
薩摩隼人、つまり薩摩(鹿児島)の武士は、歴戦の戦いぶりから勇猛果敢で知られています。その勇猛果敢ぶりについては、後程、詳しく解説しますが、前に述べた「隼人」と呼ばれていた人たちも同じように勇ましく精悍であったことも相まって薩摩隼人という言葉が生まれました。
薩摩隼人の特徴
薩摩隼人の気質や特徴を表す薩摩言葉として、「いっこっもん」、「ぼっけもん」、「てげてげ」があります。続いては、この三つの言葉の意味を詳しく見ていくことにより、これまでのイメージにとらわれない、薩摩隼人の実際の気質や特徴を探っていきます。
薩摩隼人の特徴「いっこっもん」
「いっこっもん」には、頑固で自分を曲げない人や一徹者という意味があります。薩摩隼人の気質・特徴の一つ目としては、一度決めたら初志貫徹で決して考えがブレない、良くも悪くも頑固者という点があげられます。
薩摩隼人の特徴「ぼっけもん」
「ぼっけもん」には、大胆な人や乱暴者という意味があります。薩摩隼人の気質・特徴の二つ目としては、細かいことは気にしない、時には乱暴者と言われるくらい、大胆で豪快であるという点があげられます。
薩摩隼人の特徴「てげてげ」
「でげてげ」には、「適当」という意味があり、「てげてげでよかよ(適当でいいよ)」といった使い方をします。この言葉は、薩摩隼人には、頑固一徹なだけではなく、大らかなで、のんびりとした一面を持ち合わせていることを表しています。薩摩隼人の気質・特徴の三つ目です。
薩摩隼人は「戦闘民族」?戦いから見る勇猛果敢さ
薩摩隼人は、戦場で見せる勇猛果敢さからしばしば「戦闘民族」といわれます。ここでは、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、薩英戦争、西南戦争の4つの戦いを通して、薩摩隼人が「戦闘民族」だといわれる所以を解説していきます。
薩摩隼人と朝鮮出兵
豊臣秀吉が2度にわたって行った朝鮮出兵に、薩摩隼人は島津義弘を大将として従軍しました。この戦いで、日本軍は退却を余儀なくされましたが、義弘は敵から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として恐れられ、敵将李舜臣を討ち取るなど数多くの武勲をあげました。
薩摩隼人は、この朝鮮出兵のとき討ち取った敵の鼻や耳をそいで塩漬けにして日本に送りました。なんとも残酷な話ですがそれは別として朝鮮の人たちの耳には「朝鮮耳」と言われる独特の形があるそうです。「朝鮮耳」という言葉に興味がある方はこちらをご覧ください。
薩摩隼人と関ヶ原の戦い
1600年に徳川家康(東軍)と石田光成(西軍)が激突した関ヶ原の戦いでは、薩摩隼人は島津義弘を大将とし、光成方(西軍)として参戦しました。この戦いでは、義弘は最後まで動かず、光成方(西軍)の敗色が濃厚となった後多くの敵に囲まれる中、勇猛果敢に家康の本陣を中央突破して薩摩に帰国しました。
薩摩隼人と薩英戦争
1862年の生麦事件を発端とし、翌1863年に勃発した薩英戦争では、薩摩隼人は当時世界ナンバーワンの軍事力を持つイギリス軍と戦いました。圧倒的な戦力差があり、鹿児島城下を火の海にされながらでも「攘夷」という主張を曲げることなく挑んでいく姿は、勇猛果敢な戦闘民族そのものです。
薩摩隼人と西南戦争
1877年に勃発した西南戦争では、薩摩隼人は西郷隆盛の指揮の下、最新鋭の武器を装備した政府軍と戦いました。熊本・田原坂など九州各地で激戦を繰り広げましたが、最後は力尽き西郷は切腹しました。この戦いでも薩摩隼人は、戦闘民族らしくどんなに形勢不利だろうが死ぬまで戦うとの気迫を持って全力で戦い抜きました。
薩摩隼人の殺人奥義「示現流」
薩摩隼人といえば示現流です。この一撃必殺で有名な剣術は一体どういうものなのか。なぜ、最強の剣術とまでいわれるのか。ここでは、その流派や奥義、極意、特徴などについて解説をしていきます。
示現流とは
示現流とは、薩摩藩を中心に伝わった古代剣術で、真剣で相手を切り殺すことを念頭においた実戦剣術です。大きく分けて薩摩示現流と、薩摩示現流から分派した薬丸自顕流の2つの流派があります。
薩摩示現流
薩摩示現流は、薩摩藩医東郷重位を流祖とする古代剣術で、代々の藩主に重く用いられ、江戸後期には「御流儀(藩主が学んでいる流派)」と称することになりました。主に上級武士が学んでおり、立木打ちなどの練習方法があります
薬丸自顕流
薬丸自顕流は、薩摩藩士・薬丸兼陳が薩摩示現流を修めた後、家伝の野太刀の技を元に編み出した古代剣術です。主に下級武士が学んでおり、郷中教育でも採用されていました。蜻蛉(トンボ)の姿勢を基本とし、横木打ちを反復して練習します。
示現流の極意「二の太刀要らず」
示現流の最大の極意は、「一の太刀を疑わず、二の太刀要らず」という言葉に表れています。つまり、最初の一太刀に全身全霊を込めて振るい、相手を仕留める一撃必殺の剣術のなので、その後の二の太刀、三の太刀は必要ないということです。
ガード不能|相手の武器もろともぶっとばす
示現流は、全身全霊で太刀を振り下ろし、相手を一撃で仕留める剣術なので、防ごうと思っても刀や木刀といった武器もろとも相手の頭や体を打ち砕いてしまいガード不能です。その恐ろしさは、新選組の隊長近藤勇が隊士に対し、「薩摩の初太刀は避けよ」と言ったことにも表れています。
当然かわされたときの型もある
一撃必殺、最初の一太刀に全身全霊を込めると聞いて、もしかわされたり、はずしてしまったりしたらどうするんだろうという疑問が湧いてくるかもしれません。しかし、示現流も剣術ですので、当然、一の太刀の後の型も存在します。
示現流の猿叫「チェスト」
示現流の猿叫(叫び声)といえば「チェスト」が有名です。最初の一撃に全身全霊を込めるので、気合を入れて腹の底から表現不可能な叫び声を出して、相手に向かっていきます。この声が相手を震え上がらせる要因の一つとなっています。
掛け声「チェスト」本番「キィエェェエ」
実は、この「チェスト」は切りかかっていく時に叫ぶ言葉ではなく、戦いの前にみんなで「やるぞ!」的な気合入れで使う言葉です。実際に相手と対峙し切りかかっていく時には、「キィエェェエ」とも何とも文字に起こさない叫び声をあげます。名君と呼ばれた島津斉彬は、江戸育ちということもあり、この叫び声を野蛮だと嫌っていました。
薩摩隼人と明治維新で暗躍した殺人マシーン
示現流は、幕末・明治維新の動乱期、数多くの暗殺者を誕生させました。彼らはみんな示現流の使い手で、その腕を使い大いに暗躍しました。ここでは、田中新兵衛と人切り半次郎(中村半次郎)の二人を例にとり、その暗躍ぶりを解説します。
田中新兵衛
田中新兵衛は、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎(人切り半次郎)ともに、幕末の四大人切りと呼ばれています。1862年に島田左近を殺害したことを手はじめに、岡田以蔵らと徒党を組み、本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵などの要人を次々と暗殺しました。また、姉小路公如暗殺事件の実行犯でなないかとも言われています。
人切り半次郎(中村半次郎)
中村半次郎(のち桐野利秋)も幕末の四大人切りの一人に数えられますが、これは小説からくるイメージが大きく記録に残っている暗殺は1867年に軍学者赤松小三郎を殺害した1件のみです。戊辰戦争では大きな功績をあげ明治新政府では陸軍少将に任じられています。死ぬまで西郷隆盛と行動を共にし西南戦争では最後まで戦い抜き戦死しました。
薩摩隼人と方言|薩摩弁は暗号だった
薩摩隼人といえば薩摩弁ですが、この薩摩弁には、スパイ対策としてわざとわかりにくくした人工方言だとか第二次世界大戦中は暗号だったという説や噂があります。ここでは、薩摩弁の特徴や成り立ちなどについて解説していきます。
ヒアリング不可能な薩摩弁
薩摩弁は、2018年に放送されたNHK大河ドラマ「西郷どん」でも話題になったように、複雑なイントネーションや単語、語尾、言い回しなどのため、非常に難解で、他の土地の人が聞いても字幕なしには理解不能とまで言われています(この点は地元の人も自負しているとのこと)。
薩摩弁は独自の進化をとげた人工方言
薩摩藩は、幕府に秘密で外国と貿易をしていたことや密かに武力を蓄えていたことなどからよそ者の侵入には特に敏感でした。そのため、よその土地から人が入ってもすぐに分かるようにスパイ対策として方言をさらに分かりにくく進化させたという説が一般的になっています。
学術的な根拠はない
ただ、この説は、小説や時代劇で薩摩藩の優れた戦略性や手強さを盛り上げるエピソードとしてはしばしば使われることはありますが、学術的な根拠はなく、言語学関連の学会で肯定的に取り上げられたことはありません。
スパイを寄せ付けない独立国家「薩摩」
しかし、この難解で理解不能な薩摩弁のおかげでスパイを寄せ付けない独立国家「薩摩」が誕生したことは事実です。薩摩藩が明治維新をリードした背景には、秘密貿易で得た資金などで、幕府を凌ぐ軍事力を蓄えていたことも一つの要因としてあげられます。