木田裕貴子とは何者?あの麻原彰晃の愛人!?
木田裕貴子と聞いてピンと来ない人も多いかもしれません。オウム真理教教祖で元死刑囚、麻原彰晃の愛人としては、石井久子が有名だからです。
麻原は100人ともいわれる多くの愛人に囲まれハーレム状態の生活を送っていました。そのなかで、若くて美しかった女性の一人が、木田裕貴子です。
木田裕貴子のオウム真理教入信からの経歴まとめ
若く美しい木田裕貴子は、どのようにして入信し、麻原彰晃の愛人になり、教団内部ではどんな地位にあったのでしょう。
木田裕貴子とは①10代でオウム真理教へ入信
木田裕貴子がオウム真理教へ入団したのは10代。だんだん世の中の嫌な部分が見えてくる頃です。もちろん、汚れた世の中が嫌になったのか、それでも純粋な真理だけを求めたくなったのかはわかりません。
ただ、彼女の小さな宇宙の中心に麻原彰晃が存在してしまったことは確かです。まだ世の中もよく知らない10代の木田裕貴子を出家から止められる力は周囲の誰にもなかったのです。
木田裕貴子とは②18歳で麻原彰晃の子を出産!
1998年には木田裕貴子は麻原の子供を生みますが、そのときわずか18歳でした。マインドコントロールがあったとはいえ、若い情熱が暴走してしまうことの怖さを物語っています。
木田裕貴子とは③教団内で高い地位を確立
木田裕貴子のホーリーネームはスメーダ。ステージ、つまり教団内での位は大師の意味の正悟師でした。一般に麻原の愛人はダーキニーのホーリーネームが付けられることが多いので、やはり特別な存在だったのでしょう。
木田裕貴子とは④罪を犯しておらず逮捕されず
オウム事件というと、死刑になった者を含め、幹部たちが有名です。同じ正悟師で麻原の愛人、子供も生んでいる石井久子が犯人隠匿の罪に問われたのに比べて、木田裕貴子は罪に問われていません。
若いこともあるでしょうが、ポジションも高いのに、教団にとって重要だけど危ない仕事をさせなかった。麻原は木田裕貴子をただ寵愛するためだけに傍においていたのかもしれません。
オウム真理教の恐ろしさについてはこの記事もぜひ参考にしてください。
木田裕貴子の現在の様子は?
麻原彰晃の愛人として子供まで生んでしまった木田裕貴子は、その後どうしているのでしょうか。わかっている範囲で消息を追ってみました。
木田由紀子の今①2011年時点では群馬県に在住
記録によると木田裕貴子は2011年の段階では群馬県のある都市に住んでいたということです。前出のオリエンテーリング高崎大会の成績表に掲載された写真を思い出します。どうも群馬県に縁があるようです。
木田由紀子の今②母と娘の3人暮らし
その群馬で木田裕貴子は母親と娘(麻原の子)と3人で暮らしていました。ご近所の人たちは警察が来たことで木田裕貴子が教団関係者だと知っていたといいます。
娘さんのことは人権擁護の立場から発表は控えられていますが、学校や周囲には少なからず情報が漏れていたと推察することができます。
木田由紀子の今③経済的には裕福?娘を乗馬クラブに通わせているらしい
当時木田裕貴子は、ご近所の人に娘と一緒に乗馬クラブで馬に乗っていることを自慢していたといいます。乗馬といえばクラスアッパーな方々の趣味です。経済的には裕福な生活をしていた証拠でしょう。
木田裕貴子以外の愛人たち①石井久子
木田裕貴子より人々の記憶に残っている石井久子。1990年に熊本県波野村に教団施設建設をもくろんでトラブルになった国士法事件、仲間の逃走資金を用意した犯人隠避、逆さ吊り死亡事件に関与しています。
これらについては懲役4年の実刑判決を受け刑を受けたが、ほかに坂本弁護士殺人事件でも、遺体の処理に参加したのではないかと言われています。
木田裕貴子と他の愛人①オウム真理教のNo.2
麻原彰晃の愛人のなかで、最も寵愛を受けて重要な地位を占め、実際に仕事をしていたのは、石井久子でした。その地位は麻原の正妻である知子を抜いてナンバー2だったといわれています。
さらに100人いたとされる麻原彰晃の愛人で、正妻の知子さんに存在を知られていたのは石井久子だけでした。その確執もあったようです。
木田裕貴子と他の愛人②石井久子の生い立ち
大学進学にあたり、4年生大学を志望したのに両親から短大しか認められず、卒業後は保険会社に勤めていた石井久子。
のちに木田裕貴子とともに麻原の愛人の一人になる飯田エリ子に誘われ、麻原のヨガ教室鳳凰慶林館を訪れます。その後オウム神仙の会が発足すると会社を辞めて出家。そのときは発足メンバーに名を連ねていました。
木田裕貴子と他の愛人③麻原彰晃の子を3人出産
木田裕貴子は子供が1人ですが、石井久子は麻原の子供を三人生んでいます。正確には3回妊娠し、最初に双子を生んで、1回流産をしています。
石井久子は逮捕直前に3人の子供を私生児として届け出ています。子供を守るためでしょう。逮捕翌日には教団幹部鎌田紳一郎と入籍しています。
木田裕貴子と他の愛人④石井久子の現在の様子
2000年11月18日に出所した石井久子は、介護関係の仕事をしていたといわれていますが、現在は不明です。2002年には南烏山のアレフ本部に現れ、意味不明な言動をして警察に保護されます。
また2007年に元オウム真理教教団幹部が「光の輪」という教団を新設するときに石井久子を誘ったのですが、あっさりと断ったといいます。
オウム真理教が経営していたパソコンショップ、今はどうなっているの? そう思ったあなたは、ぜひこちらの記事もご覧ください。
木田裕貴子以外の愛人たち②飯田エリ子
教団内では石井の正大師に次ぐ、木田裕貴子と同じ正悟師だった飯田エリ子。主に新しい信者を勧誘したり、お布施を集めることに長けていたようです。
元来営業職が得意な人タラシなのでしょう。飯田が集めた教団へのお布施は、一月に2億円もの大金を集めたこともあるという話です。
木田裕貴子と他の愛人たち①東日本のオウム真理教信者を統括していた
飯田エリ子は教団にで東信徒庁長官という役目を負っていました。これは東日本のオウム教信者たちを束ねる役職です。地下鉄サリン事件時に犯人の逃亡を助けたことにより、6年6ヶ月の実刑を受けています。
木田裕貴子と他の愛人たち②飯田エリ子の生い立ち
横浜の出身で2019年現在58歳となっている飯田エリ子。木田裕貴子よりも18歳年上です。短大を卒業後デパート就職、その後生命保険会社に勤務することで、石井久子と会います。
自分も麻原の愛人で、しかも愛人でナンバー2の石井久子を教団に最初に誘ったのが彼女だったのです。
木田裕貴子と他の愛人たち③出所前に脳出血で半身不随へ
2002年には刑を終えて社会にでていますが、出所する数ヶ月前に刑務所のなかで脳出血を起こしました。
木田裕貴子と他の愛人たち④飯田エリ子の現在の様子
飯田エリ子は木田裕貴子たちとは違い、麻原の愛人ではあったものの、子供は生まれませんでした。
出所後も後遺症が右半身に残り、東京郊外にある自宅と病院との往復を繰り返していたようです。2019年現在、58歳になっているはずですが、消息は不明です。
木田裕貴子以外の愛人たち③村岡達子
オウムの信者たちにはインテリが多いということは、以前から知られています。女性でいうならば、オウムで最も注目すべき才女が、村岡達子です。
木田裕貴子と他の愛人たち①元最高幹部
村岡達子は、オウム真理教の代表代行、さらに麻原が逮捕された後に教団が作ったアレフでは、最初に会長も勤めた大幹部です。
木田裕貴子と他の愛人たち②村岡達子の生い立ち
広島県に生まれ、上智大学中退後早稲田の第二文学部を卒業。ロスに進出した日本企業に就職するが会社が倒産し、帰国後オウムに入信しています。
木田裕貴子の場合もそうですが、やはり人生に大きく挫折したことが入信のきっかけになっているようです。
木田裕貴子と他の愛人たち③オウム真理教の後はアレフに入信
村岡達子はアレフ発足の中心人物だった上祐史浩とは意見を異にしていましたが、教団内が対立し分かれてしまうことを恐れてアレフに入信したようです。
木田裕貴子と他の愛人たち④村岡達子の現在の様子
2007年には会計責任者を辞任、2011年にはアレフも辞めました。そして元々英語が堪能な村岡達子は、翻訳や英作文の添削などで暮らしを立てています。しかしその収入は月に4~5万円だといわれています。