本庄保険金殺人事件とは?愛人を使った巧妙な保険金殺人事件
日本の凶悪な犯罪事件に保険金殺人の数は多く存在します。20年近くたった現在でも、これほどまでにマスメディアを翻弄し、捕まるまでの映像が赤裸々に残っているのも、この事件ぐらいでしょう。
埼玉県本庄市で、計画をした八木茂(やぎしげる)は自分の愛人を使い、直接自分の手を下さずに犯行に及びます。なんと、愛人を目的の男性と結婚させて、多額の保険金を掛け殺すという方法でした。当時の八木の愛人は3人以上、どのような事件だったのか、どのような最後が待ち受けているのか見ていきましょう。
本庄保険金殺人事件概要と犯人の八木茂の逮捕まで
ここからは、本庄保険金殺人事件がどのように発覚し動いたのか綴ります。登場人物は多いですが、主犯の八木、愛人の3人です。
どの目的の男性にも共通しているのが、お金に困っていて八木に借金がある、八木に貸しがある事でした。巧みに自分の保有しているアパートへ住まわせるなど恩をきせるのも欠かしません。
人の弱みにつけ込み、時間を掛けてゆっくり殺していく、卑劣な犯行だったのです。人の心理を弄ぶような犯罪として批判を浴びました。
佐藤修一さんが殺害された第一の事件
第1の出来事は、1995年に発覚しました。まず、背景として八木の愛人2人が深く関ります。1人目は「武まゆみ」男が入れあげてしまうほどの美貌の持ち主です。
2人目は「アナリエ・サトウ・カワムラ」でした。被害者になった佐藤修一さん(45歳)の一番の不幸は、武に惚れてしまったからでしょう。八木の店で武に惚れ、通いつめ借金を増やし、八木の策略にどっぷりと浸かってしまったのです。
結局、借金のためにカワムラと偽装結婚し、武の為に多額の保険に加入するのを許してしまったのでした。そして、ついに借金は膨れ上がり、実行の時期は訪れます。
佐藤さんを仕事で働き詰めにし、その後はスナックで飲み明かすという不摂生な生活を強要、その後、ニコチン入り、大量のガムシロップ入のコーヒーを与え続けます。
しかし、佐藤さんは健康な人で、まったく八木の思惑どおりに犯行は進みませんでした。考えられないほど、強靭な体だったのです。
我慢しきれなくなったため、持ち出されたのが「トリカブト」でした。アンパンに混ぜて与えると、さすがに毒には叶わず、どんどん衰弱していき最後には死に至ります。しかし、発見された時は溺死の自殺扱いでした。
自殺なのか他殺なのか現在も不明
自殺したのか、死体を利根川に遺棄したのかが、現在でもはっきりしていません。この段階での、警察の自殺扱いが後に、大きな問題点にあがります。
そして、2日後にカワムラが、捜索願を提出、数日後に遺体で発見され、八木らは2億8千万円の金額を手に入れれました。
森田昭さんが殺害された第二の事件
これに味をしめた八木は3年後、第2の出来事となる1999年に、再度同様の手口で殺人に手をかけます。ここで出てくるのは八木の愛人3人目「森田孝子」です。
被害者の森田昭さん(61歳)も同等に借金まみれにし、偽装結婚させたのです。その相手が森田孝子でした。前回のトリカブトで足がつくのを懸念します。
武の父親が風邪薬とアルコールが原因で衰弱している事をヒントに、風邪薬をサプリメントと偽り大量接収させて、薬物中毒で死に至らしめたのです。
金額は併せて、1億7千万円かけていました。計画は順調に遂行できたように見えており、残念ながら森田さんは化膿性胸膜炎と肺炎で帰らぬ人となります。
しかし、同時進行していた二つの案件で、足を引っ張られます。事件の要となる火葬寸前の森田さんの遺体を警察は押収するのに間に合いました。
川村富士美さんが被害に遭った第三の事件
同時進行していた第3の実行は1999年5月に明らかになりました。被害になったのは川村富士美さん(38歳)です。彼は自分の体の異変を訴えて急性肝障害で入院、病院から抜け出します。
警察に助けを求めたので、事件を表にだすきっかけとなりました。そして、第2の被害者森田さんから風邪薬の成分が検出されます。
当時川村さんはアナリエ・サトウ・カワムラと結婚しており、約10億円の金額が掛けられていました。川村さんは、森田さん同様に薬物中毒の症状が出ていましたが、なんとか命をとりとめました。
第四の被害者、建脇保さん
同時進行していた第2、第3の事件ですが、実は第4の事件として、武と婚姻していた建脇保さん(48歳)がいたことも明らかになります。
同じように3億2300万円の掛け金がかけられ、事件の起こる半年前に警察にも相談に行っていました。第2の被害者、森田昭さんや川村富士美さんにも忠告をしていたようです。
実際に事件で手にした保険金
実際に八木らの手元に残ったお金は、第1の2億8千万円でした。このお金を元に八木は金融会社を設立します。
しかし、1997年にバブル崩壊が起き、だんだんと八木の仕事も金回りが悪くなりました。第2の事件の森田さんのお金は捜査が始まっていたので八木らの手元には渡っていませんでした。
そのためこの後、どんどん明らかになる出来事も、八木の行動も納得ができるのです。
事件発覚後マスコミを集めて203回もの有料会見
事件が発覚してから、八木は常に疑惑の中から外れませんでした。しかし、残念ながら逮捕までにかかった日数は8ヶ月間にも及ぶのです。
その間、好きなように過ごした八木は、記者会見を何度も開きます。場所は自分の店舗、そのため、マスコミから取材料や会見料として金額を徴収していました。
3000~6000円の金額で何度も会見に応じたのです。好感度の記者のランキングを張り出し、得意の射撃やカラオケを披露していました。
ある記者は、だんだんと彼に良くしてもらえるのが、一種のステータスにも思えてくるほどだと語ります。八木は人の気持ちを操るのに長けていたのでしょう。
毎日行われるこの会見にお金を払ってでも参加するマスメディアは異様な雰囲気にのまれていました。ある意味、店に行った記者たちも八木に洗脳されていたのかもしれません。
時には記者に暴力を振るう出来事もありました。203回の会見で、おおよそ1000万円の利益を貪る彼に、世間の人は事件の結末をどう迎えるのか、テレビの前で待ち続けたのです。
本庄保険金殺人事件が発覚しても警察は逮捕できなかった
ここで、一つの疑問が出てくると思います。なぜ警察は、八木に手が出せなかったのでしょう。明らかに状況は事件に八木が関わっているのを示しているように感じとれます。
実際に埼玉県警の動員した人数は100人体制で勧めており新たな事実として、全部で8人の被害者に24億円もの生命保険を掛けていたところまで調べ上げていました。
なぜ、逮捕に至らなかったのか、それは毒物を立証できなかったのです。しかし、武の父親も調べ上げ、風邪薬に含まれる「アセトアミノフェン」とお酒の関係性に気づき、一気に進展があります。
八木が本件では「毒物」を使用した事を完全否定したものの、第2の被害者森田さんからは、風邪薬の成分のアセトアミノフェンがでてきたのです。
風邪薬と死亡率の因果関係
風邪薬に入っている成分でアセトアミノフェンの成分があります。この成分を多量に服薬すると、数時間後に胃腸炎、1~3日後に肝毒性等の症状をあらわすこともあるそうです。
主に自殺でも用いられることでも有名です。現在は血中濃度で特定が可能になり、血中濃度の高値が認められると診断も確定します。
本来は水で飲むため代謝で外に押し出すこの成分が、お酒が入ると働きが変わり、肝臓への毒性が加わり、無毒効果もなくなるため、森田さんや川村さんのように体に異変をもたらしたのです。
犯人の八木茂は逮捕時に手錠をかけられたVサイン
2000年3月24日にようやく事件に進展が見られます。八木と愛人3人を偽装結婚の罪で逮捕したのです。
本庄保険金殺人事件を調べるための別件逮捕だったのですが、八木は逮捕時にカメラ目線でピースをするなどのパフォーマンスを実施、世間の人々を唖然とさせました。
警察の取り調べは4人共否認する姿勢を崩さないため、難航すると思われていましたが、武を筆頭に愛人達は事件への関与を認め始めます。未だ、2人の被害者からは毒物は検出されていません。
しかしながら、第2の森田さんから検出されたアセトアミノフェンはアルコールと一緒に摂取すると、死亡する可能性が大きいのが明らかになっています。
本庄保険金殺人事件の裁判の概要と判決
複雑な人間関係も含めて八木と愛人の起こした事件は、ここまで8ヶ月の時間を費やし、ここからも長い時間がかかることになります。双方の食い違う意見が注目されました。
未だに、証拠が不十分な裁判は、どのように進んだのか、直接手を下していない八木の判決はどうなるのか迫っていきましょう。
本庄保険金殺人事件主犯格である八木茂は死刑判決
一緒に捕まった愛人3人とは別々に裁判が行われました。裁判の一番の争点となったのは、八木が直接手を下していないため、計画を立てたことも指示した証拠もないことです。
そして、8人に保険を掛けていたことは動かしがたい事実です。裁判では、第1被害者の佐藤さんの死因が断定できていないため、殺人なのか、自殺かの判断がつかないこともあげられました。
第2の殺人についても、風邪薬を服用させていてもそれが直接の死因に繋がっていなければ、殺人ではないとの弁護側からの強い主張もあったようです。一筋縄では行かない事件であり、裁判は長引くことになります。
本庄保険金殺人事件の裁判①2002年第一審で死刑判決
さいたま地裁で出た結果は死刑判決でした。2002年10月1日のことです。「殺害の指示も出しておらず、証拠もない」として無実を訴える姿勢を変えなかった八木に、裁判官からは厳しい判決が下されます。
犯罪史上例を見ない悪辣な犯行とし、有料で行った記者会見などにも触れ、嘘で自分を守り責任転換し、反省が見られないとしました。
愛人の証言についても共犯者の証言と事柄の経過が一致するとして、証言に信ぴょう性があるとます。そのため、八木の判決は死刑に至りました。
本庄保険金殺人事件の裁判②2005年控訴棄却、死刑支持
不服として申立てた20005年1月13日の東京高裁でも、変わらず死刑の判決は覆されることはありませんでした。裁判官が厳しく、弁護側が用意した様々な証拠を有効とせず退けます。
弁護側が主張を通すのに限界を感じ、裁判を諦めました。弁論時も判決時も八木は姿を見せませんでした。
本庄保険金殺人事件の裁判③最高裁上告棄却、死刑判決
3年後の裁判では検察が提出した武の証言について弁護側が異議を唱えます。検察の証言は「死刑を回避したいなら自白しないと命は助からない」と言った状況下にあり信ぴょう性にかけると主張します。
更に、利根川で発見された遺体の肺と腎臓に残されたプランクトンの違いに着目し、生きている人間が水を大量に飲んでからだと「溺死」であると主張しました。
その主張は通ることはなく、計画性の高さが伺えること、巨額の保険金をだまし取ったことに間違いはないとして死刑判決はやむを得ないと判断されました。
本庄保険金殺人事件で犯行を手伝った3人の判決
事件の判決結果で一番重かったのが、武まゆみ(32歳)無期懲役でした。彼女は複雑に全ての出来事に関与が認められたためです。
アナリエ・サトウ・カワムラ(35歳)は15年判決が決まりました。森田孝子(38歳)は12年の判決です。途中まで八木をかばう姿勢を見せていた彼女らは、八木の勝手な言い分に我にかえったのでしょう。
途中から正直に話したことで、心の葛藤が見えてきます。そこからは愛人らは八木に本当のことを話すように、手紙を送るようになります。検察側からの指示だったのかもしれません。
本庄保険金殺人事件のその後
本庄保険金殺人事件の判決結果が出たその後の彼らの様子も見てみましょう。20年程前に起きた出来事のため、時期的に満期で服役を終え出所を迎えた人もいます。
刑が決まってしまえば、ある程度面会も許されるので、逮捕されている受刑者にコンタクトを取る記者も少なくないようです。
八木茂の弁護団は本庄保険金殺人事件を冤罪だと主張
未だ八木は自分の無罪を主張しています。愛人らの証言は検察側によって、記憶を塗り替えられたもので、証拠として信ぴょう性がないとします。弁護団も後押しするように、再審請求をしています。
2009年、2015年の本庄保険金殺人事件の再審請求はいずれも棄却されており、2016年12月にさいたま地裁に再審請求をしています。
争点となるのは、第1の被害者の死因にあり、警察の調べがしっかりと行われていれば、再審請求は実現しなかった可能性は否めません。当時、自殺で処理されていたあとの保存状態は良いとは言えないでしょう。
死刑判決を受けた時の八木はかなり動揺していて、手に負えなかったと後に会いに行った記者が様子を話しています。
後に、少しは気が晴れた様子になっていましたが、おそらく八木にはしっかりした弁護団がついており若干の望みがあったから去勢をはれたのではないかと語っていました。
2019年現在も八木茂は特別抗告中でいまだ死刑執行されておらず生存
2019年現在も、八木の死刑執行はされていません。明確なルールではないですが今の法務省では、再審請求をしている死刑囚の執行を避ける傾向にあります。
八木に限ったことではありませんが、日本は死刑自体を好まない傾向にあります。死刑を反対する国民は少なからず多いことも背景にあるのでしょう。
2009年に、弁護士側から拘置所での面会に立ち会いなしで面会不可、時間を30分に制限されたことを違法とし、国に損害を求め116万円の支払いを命じる判決が出ます。
再審請求が円滑に進まなかった事を理由度した弁護側に対し、八木の心身が弱っていることが面会時間の制限と立ち会いにはつながらないとの判断でした。
武まゆみは服役中に事件に関する本を出版
積極的に事件に関係したとして、無期懲役を言い渡された武は、模範囚のためもうすぐ出てくるらしいとの噂があります。しかしながら、出所したと言う確実な情報はつかめていません。
しかし、服役中に記者に頼み、今回の本庄保険金殺人事件と自分のことを綴る本を出版しています。
カワムラは出所し母国フィリピンに帰国
2人の男性と偽装結婚等をしたカワムラは、すでに出所し故郷であるフィリピンに帰国したと言います。2016年に被害者の男性二人を殺害していないとして、再審請求し、新証拠として30点を提出しています。
この新証拠で本庄保険金殺人事件が変わる可能性もあり、今後の事件の真相がはっきりする可能性もあります。
森田考子は出所し現在の行方は不明
一番刑期の少なかった森田孝子は、すでに刑期を終えており出所しています。しかし、その後の行方は明らかになっていません。八木との子供がいた彼女は、子供のもとに帰った可能性もあります。
本庄保険金殺人事件の愛人の中で、一番目立たず、情報もすくないのが彼女でしょう。
八木茂が運営していた店舗は更地に自宅は空き家状態
今から約20年以上も前に起きた本庄保険金殺人事件、すでに八木の保有していた金融会社と飲食店は更地に、会見を開催していた店舗は不動産会社の倉庫に成り果てていました。
その場所のどこにも、当時の面影はなく、八木が罪を犯していないと認められたとしても、帰る場所が果たしてあるのか疑問が残ります。
一体彼は、何を求めて今回の犯行に及んだのか、この有様を予想できていたら変わっていたのかもしれません。
事件後に息子は「僕は全く関係ないんで」と対応
八木には、愛人の他に正妻もいて、子供も2人設けていました。すでに皆、成人し独立しています。
正妻は事件後も、その場所を離れることなく生活を続け人工透析を受けるようになり、詳細は不明ですが静かに息を引き取りました。
ある記者が、加害者家族の現状や苦しみを題材に、八木の子供に電話でコンタクトを取った所、「全く関係ないんで」と一言残し、電話を切られたと言います。似たような取材が、後をたたなかったのでしょう。
本庄保険金殺人事件の犯人・八木茂の生い立ち
どんな凶悪な犯人にも、それまで育った経緯があり、実はその中に犯罪の影が隠れていることもあります。何人もの女性に愛されながらも、八木が「金」に執着したのはなぜだったのでしょう。
思ったより、八木の情報が少ないのは彼が逮捕時にはすでに50歳ことも関係します。本庄保険金殺人事件を影で指示したと言われる彼の生い立ちに注目してみましょう。
八木茂は埼玉に生まれる
事件を計画した八木は、埼玉で生まれ育ったと言われています。明らかになっていないことも多いですが、1950年1月10日生まれ、家族構成は妻と息子二人です。
前に少し触れましたが妻は病死しています。17歳から仕事に就き、自分で会社を立ち上げるまで上り詰めます。本庄保険金殺人事件の第1の事件で保険金を手にし、金融会社も設立しました。
子供の頃は痩せていたため、いじめにもあっていました。大きな転機が訪れたのは大人になり入れ墨を彫りはじめてからでしょう。
八木茂の肩書は金融業、地元では一目置かれる存在
八木の表向きの職業は金融業でした。トラック運転手で元手を作り、本庄市でスナックを経営します。八木はここでも経営の才覚をあらわしました。
スナックにカラオケを取り入れたのです。時代はまだ1980年代、カラオケがある店は少なく、珍しい店として、開店前に行列が出来るほど盛況でした。