江川事件とは?歴代ドラフト史場最大の事件!巨人との空白の一日の真相は?

しかしこの数か月間に及ぶ一連の騒動は、プロ野球球界だけではなく、マスメディアや世間にも相当な影響を及ぼしました。事件の後、つまりその年のシーズン戦開幕日に巨人に移籍された後、どんな出来事が起こり各方面はどんなアクションを起こしたのでしょうか?次にその後の『影響』について解説していきます。

江川はマスコミに追い回された

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高校生のときに甲子園を賑わせて、さまざまな記録を多く打ち立てて偉業を成し遂げたピッチャーであったことから、当時から彼の周りには野球関係者やファン、更にはマスメディアが取り巻いていましたが、移籍の後は更にマスメディアが張り付くようになり、プライベートでもお構いなしに追い掛け回されてしまったのです。

それは強行的な契約に至ったこと、自分の要望を最後まで曲げずに巨人入団の意向を示し続けたことなどに対して、各方面から批判を浴びたので、スポーツ新聞各社、各放送局の報道陣が連日彼の心情や声明を取り上げようと必死だったためでした。良くも悪くも彼は成績や実力だけではなく、一連の騒動からも大きく注目を集めることになったのです。

チーム内でも江川への嫌がらせがあった

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球団同士のいざこざ、彼の強い要望や巨人入団の意向により、巻き込まれてしまう形になった『小林』を慕うチームメートも勿論いたことでしょうし、特例や強行的な手段により、半ば強引に入団した彼に対して不満を募らせる選手、気に食わない選手も少なくなかったのでしょう。またすごい選手なだけに彼を妬む人物もいたかもしれません。

彼が登板する試合にはわざと『黒星』が付くように成績が悪くなるようにと、わざとエラーをして失点させてみたり、打席に立ってもわざと空振り三振したりと、様々な方法で手を抜いて嫌がらせする『チームメート』もいたのです。この事は後に開催されるパーティで彼と他のチームメートの『奥さん同士』の会話で明らかになったのです。

巨人は謝罪、江川の出場も自粛へ

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新しい規定上で抜けていたあの21日という『盲点』を突いて強行的に契約を取り交わした巨人は、それから数か月間、野球界や野球協会に対して強く反発して、抗議を続けるなど反抗的な態度を見せていましたが、翌年のシーズンが始まったあたりで、野球協会や世間、マスメディアに向けて深く謝罪しました。

この謝罪に伴い、彼が移籍したのはシーズン開始してすぐの事でしたが、約60日間の間は試合に出場及び登板を控えるという意向を示しました。つまりこれは野球界や野球協会の意向で『出場停止』の処分を下したのではなく、『自粛』という形をとったのことになります。そしてその年の6月の頭に彼はようやく『一軍』に登録されると、明くる日にプロ野球『初出場』・『初登板』を果たしました。

読売ジャイアンツの広告が至る所から消える

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新たに『西武』がプロ野球球団に参入して、その流れで彼を一位指名して『交渉権』を獲得していた九州の球団から、引き継がれることになりましたが、今回の一連の騒動(他の事態も含む)により『巨人』と大きく揉めて両チームで激しい論争が続きました。これにより野球界だけではなく、企業グループにもその影響が及んだのです。

『読売』と『西武』は元々は良好な関係でありましたが、野球界の波紋が広がり、読売が持つ新聞広告やテレビの放送局でのCMなどでは西武系の企業を締め出し、一方の西部側は鉄道の構内や電車内に掲載されている『広告』を徹底的に排除して対立したのです。この対立は数十年続き、現在から28年前の平成3年、当時の読売グループの社長が亡くなるまで及んだと言われています。

江川事件の「悲劇のヒーロー」小林繁

この見出しのタイトルのような異名で知られて、国民から人気だったプロ野球選手。現役時代は先発ピッチャーであればだれもが目指して獲得したいであろう『沢村賞』や『最優秀投手』を2度も獲得している凄い選手なのですが、彼も今回ご紹介している一連の騒動に巻き込まれた当事者であり、事件のもう一人の主人公なのです。

そんな彼がどんな人物であったか?一連の騒動及び事件ではどんなポジションにいたのか?なぜ上記の異名で呼ばれるようになったのか?など詳しくこの人物のプロフィールや概要をご紹介していきます。いわばライバル的な存在であり、ファンや国民から愛された野球人なので是非この機会に彼のことを知りましょう。

エース格の小林繁がトレード要員に

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彼は一連の騒動、事件が起きる5年前に既に『巨人』に入団していました。そこまで世間や野球関係者、マスメディアから注目されず6位でピッチャーとしてドラフト指名されました。入団当時から体格もそこまで大柄ではなく、速球も140キロも出ていなかったそうですが、いわゆる技巧派ピッチャーだったらしいです。

キャンプでの厳しい『猛特訓』により鋼の様に硬い筋肉や無尽蔵な体力を手に入れると、1軍ピッチャー、それもエース格として活躍し始めました。あの一連の騒動、異例の事件が起きるドラフト会議の一年前には沢村賞や最優秀投手にまで選ばれていたのです。そんな矢先にその翌年、大注目されていた新人投手とのトレード要員に選ばれてしまったのです。

小林はキャンプインの前日という強行日程で大阪へ

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彼自身がそのことを球団から聞かされたのはいつだったのでしょうか?それはシーズンが開始される前に、春季キャンプが行われる前日というタイミングでした。恐らく今シーズンもいよいよ開催されると、身体を仕上げて投球を調整して、また今年も活躍してチームに貢献するぞ!と意気込んでいた頃だと考えられます。

そんな心情の中で突然自分が所属していたチームから、強制的にそれも勝手に『トレード』されることになったと言い渡されるのです。どれほど悔しくてつらいを思いをしたことでしょうか?彼に『悲劇』という言葉が当てられるのも納得できるはずです。こうして彼は春季キャンプインの直前という変格的なスケジュールで『阪神』つまりは大阪へ向かう事になりました。

小林繁は阪神で「反骨のエース」へ

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「野球が好きだから阪神へ行く、同情は買いたくない」

(引用:1979年ー小林繁ー)

彼はそう言い放ち、新たな球団に移籍しました。昨年には日本で一番優秀なピッチャーに選ばれていながらも、球団側は自分ではなく「江川」を選んだのか?と自問自答して悔しさを募らせていました。そんな彼を一目見ようと、彼が色々な心境の中で練習している阪神のキャンプ地に、当時のファンや国民が10000人近くも押し寄せました。

その後『どうしても元いた巨人にだけは負けてたまるか』と反骨の精神をギラギラと燃やして、当時の阪神の監督に自ら『巨人戦』には必ず登板させてほしいと頼み込んだのです。そしてそのスケジュールに合わせて身体を調整して、その年のシーズンでは対巨人に対しては『8連勝』も収めるなど快挙を挙げました。

闘志あふれる投球

彼はもともと物静かでクールな印象があったそうですが、巨人との試合が始まる前のブルペンでは声を張り上げて闘志むき出しなのを露わにしたそうです。彼はこうしてその年のシーズンでは20勝以上の好成績や3割以下の防御率と、優秀な成績を収めて再び『沢村賞』と『最優秀投手』を獲得しました。

引退後に初めて江川卓に言及する

その数年後にシーズン成績を13勝で終え、彼は15勝できなかったら引退するという『宣言通り』に潔く引退しました。そこから国民的に人気を博した数々の『大物女優』との関係が騒がれるようになり、数回結婚と離婚を繰り返しました。現在から12年前の平成19年にお酒の『コマーシャル』にて事件の当事者である2人は共演を果たしました。

小林はそこで『心をずっと縛っていた鎖のようなものが外れた』『辛かったよな・・・俺も辛かった。2人とも辛い思いをした』と言及すると、江川は哀愁に満ちた表情で感慨深げに『そうですね・・・』と答えました。当時の野球界や一連の騒動を知っていた国民からしても、非常に感慨深いものがあったのではないでしょうか?

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