先ほどは今回の事件、一連の騒動、当時の野球界のもう一人の立役者であり名ピッチャーである『小林』さんのプロフィールや野球界における成績や経歴などのプロフィールを詳しく解説していきましたが、次にご紹介するのはこの記事の主人公であり、事件や騒動の当事者、それも張本人である『江川』さんの事についてお話していきます。
彼が少年時代、どんなきっかけで『野球』に目覚めたのか?また学齢などの経歴や生い立ちについて、更には野球人生において、どんな功績を残してきたのかなど詳しい概要をまとめて記述していきます。時代が流れて今ではキャスターや解説者としてテレビに出ているので、意外と野球選手だったころのことを知らない人も多いのではないでしょうか?
父により野球を教わり中学時代に投手へ
彼は東北地方の『福島県』のいわき市という町で生まれました。父親は生まれる前からいつかはプロ野球選手にしたいと考えていましたが、幼少期の彼に野球を無理やり教えようとはせずに、グローブやバットなどをおもちゃの様に渡して、自然に野球に触れさせていきました。
地元近くを走っていた河川に向かって石を投げる特訓を『遊び』の名目でやらせていましたが、その石の飛距離はすでに大人とさほど変わらなかったそうです。これにより段々とピッチャーに必要な『肩』ができていったのです。
中学校で野球部に
中学校に進学すると初めて本格的に野球に触れます。彼は『野球部』に入りました。初めのポジションは『外野手』でありたまにピッチャーをやるくらいでしたが、一年生の秋の練習試合で、投手として活躍を見せると正式にピッチャーとしてベースボールプレーヤーになります。
その後恩師となる部活動の顧問から投球フォームの助言を受けて、それに従うとよりキレとノビが増して速球も伸びていきました。高校野球では甲子園などで、2019年現在でも破られていない記録や偉業を数多く残して、高校球児史上最高のピッチャーとしてのその名が挙がるほどなのです。
江川は慶応大学受験に失敗
彼が高校野球及び甲子園で、前代未聞の大記録を何個も打ち立てて、『怪物』の異名を欲しいがままにしたという凄いピッチャーだという事や彼は各球団が欲しがり1位指名する逸材だという事をこの記事の中でも何度か話していきましたが、彼はスポーツだけではなく勉学においても名門中の名門である『慶応大』に進学したいと考えていました。
つまり高校卒業後はプロ入りは見据えていなかったのです。それは学歴を残し将来の事を考えてという理由と、伝統ある『早稲田』との試合に自身も出場してピッチャーとして登板して勝利を収めたい、勝利に導きたいという強い思いがあったのです。そんな彼の周りには悪い大人なども付きまとうようになっていき、その悪い大人に甘い言葉を吹きかけられてしまったのです。
裏口入学
正規の受験方法を行わずに、賄賂やコネを使って優先的に試験に合格させるという『裏口入学』の誘惑に乗ってしまい、試験を受けましたが、学力不足、実力不足であったため不合格となってしまい試験に落ちてしまいました。
「六大学」の法政大学に入学
いわゆる『東京大学』『早稲田大学』『慶應義塾大学』『明治大学』『立教大学』『法政大学』の六つの大学院を『六大学』と呼び、その六校の間でプロ野球のシーズン戦に負けないくらい、白熱した試合、活気あふれる『リーグ戦』が繰り広げられるのですが、受験に失敗した彼はせめてそのリーグ戦に参加したいと考えました。
そこで『六大学』の一つである『法政大学』の受験を受けて、見事合格して入学を果たします。同期にこの六大学のリーグ戦に出場した他の野球戦の中には、当時甲子園を沸かせたスターたちが集ってより盛り上がり、その中でも彼はずば抜けた成績を収めて、プロでの活躍の期待がより高まることになりました。
江川は母校の作新学院職員に収まる
彼はここでも優秀な成績を収めて大学4年生になると、いよいよ待ち望んだプロ野球での登板、出場。もちろん彼がプレイする場は『巨人軍』、あるいは妥協して関東にホームを置く球団でした。しかし思わぬことに彼を1位で指名したのは九州にホームを置く球団でした。彼はまたも入団拒否して一年間、野球留年することになったのです。
かつての母校に当たる、高等学校の上層部の役員。二度目のドラフト会議では巨人以外の球団に指名しないように裏で根回ししていた人物ですが、その人物が彼が大学卒業したあとに母校となる高校の役員として在籍させる手引きしたのです。この頃の彼の周りには『悪い大人』たちがよくつき待っていたようですが、彼もその多くを語りません。
籍を置きつつアメリカへ野球留学へ
実は母校である高校に『役員』として雇われることになっても、実際に業務や仕事をするわけではなく、在籍しているという身分だけを与えたのです。そのためその高校に『籍』を置きつつ、アメリカ合衆国に野球をするために留学したのです。この時当時の奥さんとはどのように交際していたのか気になる所ですが、真相は2人しか知らないでしょう。
巨人入団後はセ・リーグを代表する投手となった
前述で解説した通り、一連の騒動、事件やいざこざに巻き込まれながらも、『トレード』という名目で移籍した後は周囲の期待に応えて名ピッチャーになっていきました。当時はまだ速球を計測する装置が普及していなかったので、僅かの記録した球速が残っておらず、過去の映像をもとに特殊な機械で計算し測定された速球は『160km』を超えたそうです。
大きな特徴として指が短かったので『変化球』はあまり得意ではありませんでした。はじめはトレード要員となった阪神の『小林』の存在もさることながら、対阪神には黒星が多くなってしまいましたが、翌シーズンから阪神に対しては驚異的な勝率を見せて、54戦のうち38勝を収めており『阪神キラー』の異名で知られる様になりました。
投手『5冠』
プロ2年目から4年目にかけて成績がずば抜けていて、実力的にも最盛期だったと考えられます。特にプロ3年目の現在から40年前の昭和56年には、『最多勝利』『最優秀防御率』『最多奪三振』『最優秀投手』『ベストナイン』などのタイトルを総なめして投手『5冠』を達成する偉業を成し遂げました。
同年に獲得したタイトルはそれだけにとどまらず『最優秀選手』や『日本シリーズ優秀選手賞』にも選ばれています。もちろんこの年以外でも日本のプロ野球界、セ・リーグや巨人を代表する名ピッチャーになりました。背番号は『30』番でした。
Contents
江川卓現役引退後と現在
さてこれまでの生い立ちから経歴、プロ入りと入団を決める大事な『ドラフト会議』を巡っては少しトラブルに巻き込まれてしまったものの、いち『野球人』として学生時代もプロになってからも、数々の功績の残して前人未到の快挙をあげてきた、昭和の名ピッチャーだったという事がよく分かっていただけたはずです。
さてそんな彼は現在はどのようにして生活しているのでしょうか?若い世代の方たちはむしろ引退後の姿をよく見てきたのではないでしょうか?彼がプロ野球選手を引退したあとのキャリアや活躍、そして2019年現在の事についても、次にお話ししてご紹介していきます。
江川卓は引退後スポーツコメンテーターとして活躍
引退した後、どんな活躍をしていたかご存じの方も多いはずです。なぜなら彼は非常にテレビをはじめとするマスメディアに露出する機会が非常に多いからです。彼はその後、ベースボールだけではなくあらゆるスポーツの『コメンテーター』として大活躍しているのです。真面目なニュースからちょっとふざけたバラエティー番組まで幅広いTVショーに出演しています。
あまり知られていませんがスポーツだけではなく、実は『ワイン』が大好きで愛好家だったりするのです。知識や嗅覚、味覚などにもたけており『ソムリエ』の資格を持っているくらいなのです。そのワインに関するテレビ番組にもレギュラーとして出演経験があり、野球界だけではなく芸能界においてもレギュラーとして引っ張りだこなのです。
2019年現在もナイター中継の解説をしている
実はかつて自分が活躍していた『巨人』のオーナー企業でもある読売グループ。その系列の大きなコンテンツの一つである『日本テレビ』で中継しているナイターの解説者を2019年令和現在も務めているのです。この解説者になったのは現在から31年前の昭和63年で、つまり30年以上もプロ野球や選手たちを見て解説してきたのです。
そんな人物であるから、各報道番組やスポーツ番組においても、彼のコメンテーターとしての見解や意見はどの時代も需要があり、世間やマスメディアから必要とされる存在なのかもしれません。これからもプロ野球界に携わり、芸能界でも長く活躍してほしいものですね。
江川卓病気説も浮上している?
彼についてある噂が立っているのです。近年テレビに出演している姿を見ているネットからは『目の下のクマが酷くなっている』また『急激に太った』などの声が上がるようになってきました。テレビ業界からも引っ張りだこで、現在でも各番組に多く出演なさっているので、忙しくして寝る時間がなかったり、疲れていたのではないかと考えられます。
また一方で年齢は『年配者』に当たる60代なので、健康的に心配する声も上がっているのです。特にクマが酷かったので、何か重い病気や疾患を患っているのではないか?そんな噂や説も浮上しているのです。ネットなどの情報によれば『病気』を患っている心配はないとのことなので、これからも元気に健康でいてほしいものです。
江川卓や江川事件に関する書籍
多くの快挙や記録、タイトルを手に入れた名ピッチャーである彼と今回ご紹介している一連の騒動、事件に関する書籍はたくさんあります。その中でも特に評価が高くお勧めできる商品をいくつかご紹介していきます。
真実の一球―怪物・江川卓はなぜ史上最高と呼ばれるのか
この本では現在でも『史上最高の高校球児のピッチャー』と呼び声の高い彼の高校時代にスポットを当てて、その当時の彼にまつわる詳細なエピソードやどれだけ凄くてどんな快挙を挙げたのかがよく知る事ができる一冊です。当時の活躍を知らない方も是非一度読んでみてはいかがでしょうか?
プロ野球「衝撃の昭和史」
2019年現在は令和になっていますが、この本は昭和の時代に残した色あせない名勝負や野球界の歴史が詰まっている一冊で、他の偉人と呼ばれるような日本の野球選手が数多く紹介されています。日本の野球界がどのように進歩してレベルが上がっていたのか、良く分かるのではないでしょうか?こちらもお勧めできる作品です。
江川事件が影響を与えた「ドラフト制度」の問題点
今回ご紹介している一連の騒動、事件では日本のプロ野球界に大きな影響を与えました。どんな影響を与えたか気になるのではないでしょうか?当然ながら大きく関与している『ドラフト会議』の在り方も見つめ直されましたが、彼の巨人入団という揺るがない願望は1人の選手としてどのような権利があるべきなのかも問題になったのです。
プロ野球界、ドラフト会議などの規定においてそんな影響を及ぼしたのか?また新しく定められた規定はどういったものなのか?その概要や詳細についてこちらで解説していきます。現在では、プロ野球選手が当たり前のように行使されている『権利』や『システム』も、実は彼や一連の騒動があったからなのかもしれません。
選手自身が球団を選べず「職業選択の自由」に反する?
当時のドラフト会議のルールでは、選手は当然入団したいチームを選べないわけですから、それを普通の職業に置き換えて考えるならば、『職業選択の自由』に反していると考えられます。この自由は日本国憲法に定めています。そう考えればプレイする選手(働く労働者)が入団したいチーム(職場)を選べないというのは理不尽であります。
そのため当時はこのドラフト会議のルールは日本国憲法に違反しているのではないかと論争が巻き上がり、政治家たちが集う『国会議事堂』でもこのテーマが取り上げられ話題になりました。後述でも解説しますが、実は2019年現在もこのドラフト会議のルールがそこまで変わっていません。皆さんはこの問題についてどう思いますか?
逆指名制度やFA制度導入のきっかけに
現在から26年前の平成5年より導入された『希望入団枠制度』(逆指名制度)では上位に選ばれるような優秀な選手には、どこのチームに入りたいかを考慮して、球団と同意を得れば希望のチームに入れるという規定がありましたが、こちらでもやはり裏で手引きする関係者や『ワイロ』などの事件が相次いで平成18年を最後に廃止になりました。
『フリーエージェント制度』(FA制度)は簡単に分かり易く説明するならば、選手がどの球団とも契約を結べる権利を持っているという規定であり、この制度に関しては2019年現在でも野球界だけではなく、スポーツ界やビジネスにおいても導入されていきました。こうして一人の選手の意見や権利を尊重して、可能性の幅を広げたのです。
江川事件の他に球界に影響を与えたドラフト騒動「KKドラフト事件」
実は今回ご紹介している、現在から41年前の昭和53年に起きた事件及び一連の騒動だけではなく、実は日本のプロ野球界やドラフトに大きな影響を与えた『ドラフト騒動』があったのです。その騒動がどういったものなのか?また誰が指名されたものなのか?こちらの見出しで皆さんに詳しく解説していきます。
当事者は近年でも色々と世間を騒がせてしまった『清原』更にはその当時同じ野球部に所属して、一緒に甲子園を連破して、日本中を沸かせたピッチャーの『桑田』です。彼らは最終的にどんな進路を、つまりはどこの球団に入ることになったのでしょうか?そちらもここで分かり易く言及していきます。
清原・桑田のKKコンビのドラフト騒動
前述の通りなのですが2人は同じ高校野球部で、同級生であり1人は『4番バッター』1人は『エースピッチャー』であり共にチームを勝利に導く大きな立役者として、高校野球や甲子園で大活躍して、野球関係者や世間、マスメディアから注目されていたのです。2人ともプロ入りは間違いなかったのですが、ある問題がありました。
それはお互いに入団を強く希望していたのは、その当時から球界で絶対的な強さと覇権を握っていた『巨人』だったのです。そこでピッチャーである桑田は『江川』と同じように大学進学を表明して、4番バッターである清原にその枠を譲る姿勢を見せていたのですが、ドラフト会議当日では『大どんでん返し』で巨人が一位に指名したのはピッチャーである『桑田』の方だったのです。
江川事件同様に巨人が桑田と裏で交渉していた
『漢』と呼ばれる熱い清原もその裏切られたような宣告に、その場で涙してしまいました。大学に進学を表明していたピッチャーである桑田はこれに対して、入団を拒否するかと思いきやその後の会見では『挑戦しようかと思っています』『巨人の選手たちと同じところに立ちたい』といったような声明を上げたのです。
こうした声明に対して、また巨人が裏で手引きしていたのか?友人でありチームメートであった清原を裏切ったのか?などと大きな波紋を呼びました。このドラフト会議での巨人の1位指名については、色々な諸説があるようです。最終的には4番バッターの清原は奇しくも『西武』にピッチャーの桑田は『巨人』に入団しました。
清原の母の言葉「勝手に恋をして失恋しちゃっただけ」
こうした友情を引き裂くような、悲しい結末となってしまった昭和60年のドラフト会議とその騒動ですが、当事者の一人である清原の母親は、一連の事態に上記の題の様に言及しており、一人で片思いを続けてきっとその恋は実るであろうと確信したのですが、最後には『ごめんなさい』と交際を拒否された男子のようだと表したのです。
とてもユーモアで強い母ちゃんらしい発言であります。後日談にはなりますがその後採用された『フリーエージェント権』を使って、西武ライオンズにいた清原も念願の巨人入りを果たして、桑田と2人プロ野球界でもチームメートとして共に勝利を目指して奮闘したのです。2人は日本人から『親友』として広く周知されています。
巨人が起こした他の事件
今回ご紹介している事件や一連の騒動では、当事者として大きく読売ジャイアンツ及び『巨人』が関与しています。昔から球界では絶対的な強豪として、日本のプロ野球界に大きな影響を与え続けていますが、他にも過去には多くの事件や不祥事、騒動などを起こしているのです。ここではその中から一部をご紹介していきます。
別所引き抜き事件
第二次世界大戦が終戦して3年後の昭和23年から昭和24年にかけて発生しました。当時大活躍していた名ピッチャーである『別所』という人物はシーズンでたくさんの白星を挙げて、素晴らしい成績を収めていましたが、これに対して配属していたチーム『ホークス』は不遇な対応をしていたと彼は不満をあらわにしました。
そこで巨人が裏で彼と接触を図り、チームに移籍するように根回ししていたのです。プロ野球連盟もこれに対して慎重に対処しましたが、最終的には契約が取り交わされ『移籍』することが確定して、移籍後も騒動や事件が起きましたがその年のシーズンを優勝に導くことができました。この事件も日本のプロ野球界に影響を与えたと考えられます。
湯口事件
現在から46年前の昭和48年3月に発生しました。当時巨人にピッチャーとして所属していた『湯口』がうつ病やそのほかの状況により『変死』してしまったことに対しての、球団のまずい対応などが問題となった事件です。また死因についても色々な噂が出回りました。
江川事件は当時の野球界に大きな影響を与えていた
従来の規定であれば、一人の選手が自分が希望する球団に入団できるとは限らないのですが、強行的に交渉を取り交わして騒動を起こし『強い願望』を曲げずに、最終的には『電撃トレード』で移籍することになり念願の巨人入りを果たした、『江川』は良い意味でも悪い意味でも、日本のドラフト会議やプロ野球界に大きな影響を与えました。
トータルで判断するならば現在の日本のプロ野球界にとっては良い影響を及ぼしたのではないでしょうか?勿論現役を引退した後も、現在まで『日本テレビ』のナイター中継では解説者を務め、各番組にスポーツコメンテーターとして引っ張りだこなので、芸能界やスポーツ界にも大きな影響を与えている人物なのです。今後も彼の活躍を健康を祈ると共に期待しましょう。
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