土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大の生い立ちや犯行動機について解説!

土浦連続殺傷事件とは、死刑になりたかったという目的のために2人の尊い命が犠牲になった残忍な事件です。この記事では、土浦連続殺傷事件の犯人の生い立ちや事件の経緯について詳しく解説していきます。また類似の事件についてもご紹介します。

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事件、事故、ミステリー、歴史等に関する謎を掘り下げていきたいです。
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土浦連続殺傷事件とは?死刑になりたいという動機の元に9名を殺傷した事件

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2008年(平成20年)3月、当時24歳の若者だった金川真大(かながわまさひろ)という男が2日間で9名を襲い、そのうち2名を死亡させました。この残忍な通り魔事件が土浦連続殺傷事件です。

殺害の動機について犯人の金川は死刑になって死にたかったからと供述しており、身勝手で残忍極まりない事件として世間に衝撃を与えました。では、時系列で土浦連続殺傷事件を振り返ってみたいと思います。

犯人は2日に分けて犯行に及んだ

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この事件は衝動的犯行ではなく、以前から殺人を計画していた金川真大によって土浦連続殺傷事件は引き起こされました。2008年(平成20年)3月19日、金川は住宅街で男性1名を殺害し最初の被害者を出します。

土浦連続殺傷事件を起こした金川の当初の計画では、多数の人を殺害する予定でしたが、うまくいかなかったため金川は逃亡します。その後、都内のホテルに潜伏し、次の犯行の機会を狙っていました。

2日間で合わせて9名が切り付けられ、内2名が死亡

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金川は最初の被害者を出した翌日にも犯行を考えますが、一旦諦めており、警察に対し挑発のメールや電話等をしています。このような常軌を逸した行動から金川の身勝手な思考がうかがえます。

そして、土浦連続殺傷事件で最初の犠牲者が出て4日経過した3月23日、JR線の荒川沖駅で金川は両手で刃物を振り回し居合わせた人々を襲撃し、切り付けた8人のうち1人が亡くなってしまします。

最終的には2日間で9名が凶行に遭い、何の罪もない2名の尊い命が犠牲となり、土浦連続殺傷事件は幕を閉じます。非常に残虐で身勝手な犯行だったといえるでしょう。

土浦連続殺傷事件の経緯①一度目の犯行

土浦連続殺傷事件は3月19日と23日の二日に分けて起きています。まずは、3月19日に起きた最初の犯行から次の犯行が起きるまでに何が起こったのか、金川真大の動きを追いながら詳しくみていきましょう。

初めは妹が標的だったが不在だったため諦めた

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当初、土浦連続殺傷事件の計画では家族も標的とされていました。不仲だった上の妹を殺した上で自分の母校である小学校を襲うというものでした。

他にも中学校や高校、ネット上でトラブルになった相手も標的として挙がっていたようです。しかし、運よく妹は既に出かけており家にいませんでした。

そこで金川は、次に狙っていた母校である小学校へマウンテンバイクに乗り出かけます。小学校に到着した金川ですが、大勢の大人がいることに驚きます。

偶然にも3月19日はちょうど終業式の日で校内に多数の保護者がいたのです。金川は計画が失敗に終わることを危惧し、小学校の襲撃は断念し立ち去ります。

住宅街をマウンテンバイクで走り無差別に標的を探した

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小学校の襲撃計画を断念した金川は新たな標的を探しに住宅街へ向かいます。家の前で自転車に乗っている男が殺人を考えているなんて住人は夢にも思わなかったことでしょう。

先の小学校の件などからもうかがえるように、土浦連続殺傷事件では、年配の方や子どもなど自分が制圧しやすい相手を狙おうとしたと考えられます。

たまたまインターホンに出た男性を刺しマウンテンバイクを置き逃走

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金川は住宅街である家に目をつけます。そして、インターホンを押して、自転車がパンクしたことを装い、出てきた住人の男性に自転車の空気入れを貸して欲しいと頼みます。

親切にも空気入れを貸した男性が金川に背を向けた直後、金川は男性の首元をめがけて包丁を振り下ろします。男性は叫び声をあげて倒れ、土浦連続殺傷事件での第一の犠牲者となりました。

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凶行に及んだ金川ですが遂に殺害を実行したことで気が動転していたのでしょうか。乗ってきたマウンテンバイクを男性宅の前に置いてくるという失態を犯してしまいました。

そして、殺害現場に置き去りにされたこのマウンテンバイクから、土浦連続殺傷事件の捜査線上に金川真大の名前が浮かび上がります。

血のついた服などを自宅に置きビジネスホテルへ

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殺害現場にマウンテンバイクを放置してしまったまま自宅へ戻った金川は、犯行で服に返り血がついてしまったことから着替えをします。その際に自室の壁に血で「死」と記しています。

そして、事前に用意してあった現金とともに都内のビジネスホテルへ逃走します。その際、理髪店に寄り髪型を丸坊主に変え、警察の目をくらまそうと変装しています。

では、金川は何故逃走を図ったのでしょうか。土浦連続殺傷事件の目的は確実な死である死刑だったはずです。

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現在の日本の司法制度において死刑となる基準は、犯行の性質、動機、被害者の数、社会的影響等の9つの基準があるとされています。

過去に起きた殺人事件の判例では、精神鑑定により責任能力がないとされた場合等を除き、2名以上殺害した場合は概ね死刑の判決が下っています。

金川はこのことを知っており、死刑になるために何人もの人々を殺すつもりでした。土浦連続殺傷事件は、死者が2名に到達するまでは終わることがなかったのです。

数日間ゲームをして過ごしながら警察に挑発メールを送る

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最初の被害者が出た日の翌日3月20日、土浦殺傷事件の犯人である金川は次の犯行に及ばず、新作のゲームソフトを買ってきてホテルの部屋でゲームをして過ごしています。

人を殺した金川はどのような気持ちでゲームに興じていたのでしょうか。当時、殺人とゲームの関連について様々な意見が話題になりましたが、今現在明白な関連は明らかになっていません。

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土浦連続殺傷事件で最初の犯行が行われた2日後の3月21日、事態が動き出します。金川の携帯電話に母親からメールが届いたのです。心配しているという内容でした。

メールを読んで、既に警察に疑われていることを悟った金川は、母親に対して「自分が犯人だ。これから犠牲者が増える」という内容のメールを返信し警察を挑発します。

そして、このメールの送信内容が決定打となり、土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大は全国に指名手配されることとなりました。

土浦連続殺傷事件の経緯②二度目の犯行

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土浦連続殺傷事件の最初の犯行から4日後の3月23日、金川真大は二度目の凶行に及びます。この日が彼の今後を運命づける日となりました。最後の犯行に至るまでの動きを追ってみましょう。

自身の指名手配を知りもう一度殺人を犯すことを決める

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ニュースで自分が全国に指名手配されていることに気付いた金川は更なる犯行を決意します。警察に追われていることが確実となったため、捕まる前に早めに行動しなければならないと考えたのでしょう。

ホテルでは土地勘のある場所に思いを巡らせ、犯行を確実に遂行できそうな場所を吟味していました。もう一人殺さなければ意味がない、そう思い必死で考えを巡らせていたことでしょう。

22日の犯行は断念し警察に挑発電話をかける

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3月22日、都内のホテルを出た金川は土地勘のある場所を歩き回りながら、殺害できそうな標的を探します。しかし適当な標的が見つからず、この日の犯行を断念します。

その後、自分から警察に二回ほど電話をかけて自分が犯行を行ったことを自供し「早く捕まえてごらん」などと挑発の言葉を残します。

この日は幼少期を過ごした横浜で宿泊するつもりでしたが、ホテルが満室だったことから東京に戻り神田のホテルに宿泊しました。捕まる前に確実に犯行を行うために土地勘のあるでの犯行を考えていたようです。

23日に荒川沖駅にて事件を起こし8名を殺傷した

そして、3月23日、土浦連続殺傷事件の第二の凶行が行われます。金川は自宅の最寄り駅でもある荒川沖駅を次の犯行の舞台に選びます。人の通行量が犯行を行うには適していると考えたようです。

それにしても自宅の最寄り駅のため、知人等を殺害してしまう可能性も十分にありました。金川としては、むしろそれでも構わないと考えていたのでしょうか。

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午前11時過ぎ、JRの荒川沖駅に一人の男が姿を見せます。眼鏡をかけ、黒のニット帽、黒の上着という服装の金川です。

金川は、両手に持った刃物を振り上げながら、次々とその場に居合わせた通行人を襲い始めたのです。土浦連続殺傷事件第二の犯行の瞬間です。

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現場は人々の恐怖の叫び声に包まれ騒然とします。人の往来のある昼間に繰り広げられた惨劇は想像を絶するものだったに違いありません。

現場ではあらかじめ複数の警察官が張り込んでいましたが、金川の身柄を確保することはできず、結局、金川は8名を襲撃しその場を後にします。このうち1名は死亡してしまいました。

犯行後に自ら交番に出頭した

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土浦連続殺傷事件という凶行に及んだ金川は駅から少し離れた場所にあった荒川沖地区交番へ急ぎます。自首をするためです。しかし、警察官が不在であったため、電話にて自ら犯行を名乗り出る通報を行いました。

その後、駆けつけた警察官に身柄を確保されますが、その際全く抵抗しなかったといいます。こうして土浦連続殺傷事件は金川の望む形で幕を下ろしたのです。

土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大の生い立ち①理想と現実のキャップに苦しむ

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このように自分勝手な凶行・土浦連続殺傷事件を起こした金川真大ですが、どのような生い立ちを歩んできたのでしょうか。

生い立ちの中で彼がどのような考えを持つにいたったのか、一番身近な存在と言える家族や周囲の人々との関わりを中心にみていきましょう。

幼少期は海外を転々として過ごす

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金川の幼少期の生い立ちは海外生活から始まります。金川真大の父親は外務省の官僚であったため転勤が多く、家族も一緒についていったようです。

金川は中国の上海、アメリカのニューオーリンズでの海外生活を経て、4歳の時に日本へ帰国しました。帰国後すぐに土浦に住んだわけではなく別の土地で生活しています。

父親は教育に厳しく理想と現実にギャップに苦しむように

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父親は外務省の官僚という多忙な仕事であり、家族のことはほとんど母親に任せきりでしたが、子どもの学力やしつけに関しては厳しかったようです。長男であった金川に対しても将来に高い期待を寄せていました。

しかし、父親が期待していたほどには金川の成績はふるわず、父の求める理想と現実のギャップが徐々に大きくなっていきました。後に大きな劣等感を生んでしまったといえる生い立ちです。

小学校3年生の頃には、とうとう父親は金川を見放してしまい、さらに仕事に熱中し家族に対して関心を示さなくなっていったようです。

中学の時に与えられた哲学の本が人生を大きく変えるきっかけとなる

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中学生だった金川に父親がある本を与えます。『子どものための哲学対話』というタイトルで、世間の常識や疑問に思うことについて哲学的な見方で考えるという趣旨で書かれた子ども向けの哲学入門書です。

本の中では死刑についての文章があり、金川はこれまでの生い立ちから生まれた独善的な解釈により「死刑になってもいいなら人を殺してもいい」という考えを持つに至ったようです。

土浦連続殺傷事件という凶行へ繋がる思想的な背景を形作ってしまったと推察され、この本については裁判でも取り上げられることとなりました。

大学進学希望だったが就職に希望を変更する

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高校生になった金川は弓道部に所属し、部内でも実力を認められています。全国大会にも出場しました。教師も同級生も真面目な生徒だったと話しています。

一方で、周りからのアドバイスには耳を貸さず、何でも自分で決めた通りに押し通すような傾向があったことを同級生が漏らしています。

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進路を選択する際、金川は私立大学文系学部への進学を希望します。学力的には十分に合格圏内でしたが、高校3年の9月になり突然「大学へ興味がなくなった」と話し就職へと希望を変えます。

後に学校の会見では、高校3年生の夏に部活動を引退してから、無気力な様子が見られるようになったと報告しており、部活動がなくなったことで目標を見失ってしまったのかもしれません。

菓子工場の面接を受けるも不採用になる

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学校の教師から紹介され、土浦市内の和菓子会社に応募します。当初は見学の後に面接までしてもらう予定でしたが、会社の判断により工場見学をしただけで帰されてしまいます。

この件について、実際には会社側から断られているのですが、同級生には「自分から面接を断ってやった」と見栄を張っていたようです。

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土浦連続殺傷事件後に供述した内容の中で、このこと経験は金川にとって大きな挫折だったと漏らしています。拒絶されたという気持ちが金川の中に深く残ることとなりました。

また、この会社を紹介した教師への不満をずっと抱き続けており、自分勝手で他罰的な思考もみてとれます。

土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大の生い立ち②プライドの高さが認知を歪ませる

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和菓子会社で面接に応じてもらえなかったという大きな挫折を抱えた金川真大は、その後どのような生い立ちをたどったのでしょうか。

高校を卒業した後の生活から土浦連続殺傷事件という惨劇を起こすまでの生い立ちについてみていきましょう。

自身のプライドと現実に折り合いをつけられなくなっていった

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就職活動がうまく進まない事態に追い打ちをかけるように、高校の卒業単位が足りなくなる可能性が浮上します。卒業できないということは、そもそも就職が決まっても取り消しとなってしまいます。

教師がレポート提出による単位認定などの手を差し伸べますが、金川は「卒業しなくてもいい」と言い張り、応じようとしませんでした。

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母親から説得も効果がなく最終的には同級生が説得し、教師の求めに応じることとなりました。金川はプライドが非常に高く、自分の置かれた現実と折り合いをつけられずに苦悩していました。

本当の自分はこうじゃないという思いが強くある一方、現実がうまくいかないというギャップが金川の目の前に大きく横たわっていたのでしょう。

友人へ自殺をほのめかすように

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教師の提案や同級生の助けもあり、何とか無事に高校を卒業します。しかし、教師が説得を試みたにも関わらず就職はしませんでした。

金川の卒業した高校では就職も進学もせずに卒業する生徒はほぼいなかったようで、金川の選択が他の同級生とは全然違っていたことが分かります。

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一方で、進学も就職もせずに卒業したことから将来を悲観していたのか、金川はこの頃、同級生に死にたい気持ちがあることを打ち明けています。この頃から自殺願望が生まれ始め、後の凶行へと繋がっていきます。

裁判の中では、つまらない世界で生きるくらいなら死んだほうがいいとも述べており、生きるための目的・目標のようなものが持てなかった様子もうかがえます。

卒業後はゲームに没頭していた

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何とか高校を卒業した後は自宅でゲームをしたり漫画を読んだりしてダラダラと過ごしています。同級生たちともあまり交流せず時々近くのゲームセンターへ出かけ、対戦ゲームをしていたようです。

後の証言では、ゲームセンターでは負けると腹を立て椅子などを蹴ったりすることもあったようです。自分の思い通りに物事が進まないと感情を爆発させてしまう傾向がうかがえます。

また、同時期に妹や弟も不登校気味となっており、金川家全体に暗い雰囲気が立ち込めていたことが推測できます。妹や弟の生い立ちも複雑だったのでしょう。

アルバイト先での評価は良かった

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そんな生活を送っていた金川ですが、完全にひきこもっていたわけではなく、ゲームを買うための小遣いが必要になるとコンビニなどでアルバイトを始めます。

ただ仕事も長続きはせず、お金がたまるとすぐに辞めてしまい、またゲームを買うためにアルバイトをするという生活を続けています。

コンビニなどのアルバイト先での評価はそれなりに良く、仕事自体はそつなく行えていたようです。高校の弓道部でも頑張っていた様子もあり、目的があればこなせるのでしょうか。

自殺願望が高じて死刑を望むようになった

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変わらずゲームは熱心に取り組んでおり、2003年(平成15年)8月に行われたゲームの関東地区大会で準優勝に輝きます。しかし、次第に生きる目的を見失いはじめ、自らの死を望むようになります。

死にたいという気持ちはあったものの、自殺は確実ではないし、失敗して長く痛い思いをするのは嫌だと考えていたことが供述から明らかになっています。

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そこで、死ぬ保障がある手段として死刑を考えるようになります。死刑なら確実に殺してもらえる、そんな風に考えたのです。このような発想になること自体に金川の独特の思考がみてとれます。

そして、多くの人を殺して死刑になろうと決意し、土浦連続殺傷事件の計画を考え、凶器の購入など、具体的な行動に移っていくのです。

土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大の家族と異常な家庭環境

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土浦連続殺傷事件の犯人である金川真大は6名家族です。家族構成は父親、母親、本人、妹、妹、弟で本人は長男として生まれました。

父は外務省に努める国家公務員であり、社会的には恵まれた生い立ちといえます。実際はどのような家族環境だったのでしょうか。

父は外務省のノンキャリアで子どもに関心無し

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父親は外務省の官僚ではありましたが、出世コースのキャリア組ではなく高卒のノンキャリア組でした。そのような背景もあり、長男である金川に対して過度な期待があったと推察されます。

しかし、金川が小学校低学年の頃、学校での成績が父親が期待したほど振るわなかったことから、父親は金川を見放し家族も顧みなくなっています。

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さらに父親は長男である金川だけでなく、家族に対しても興味を失ったように仕事に時間を割き、家族のことは顧みなくなってしまいました。そのことがその後の金川の生い立ちにも大きく影響を与えているようです。

家族同士の仲も悪く家庭内でも会話無し

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犯行当時、金川は父、母、上の妹、弟の5人で同居していました(下の妹は進学のため別に暮らしていました)。

家族の中で金川と折り合いが悪かったとされる上の妹(当初殺害の標的にされていました)は、小学生の頃に兄・金川から強く怒られたため、それ以来積極的に話すことができなくなったと語っています。

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また、家族内でそれぞれ仲が悪く、特に母と妹が不仲で、筆談やジャスチャーのみでコミュニケーションをとっていたようです。

喋ることができるのにも関わらずに家族間で筆談やジャスチャーを使うことは、傍から見ると異常な光景といえます。家族同士で仲が悪く、金川自身も強い孤独感を抱えていたようです。

それぞれの家族が互いに無関心なまま生活

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事件後、証言台に立った父親が「妻と一緒に買い物に行ったのは、真大が小学校の時以来ない」と告白しています。それだけ父親との交流がなかったことが分かります。

また、上の妹は「事件(土浦連続殺傷事件)後の報道で兄の年齢を知った」と話し、下の妹は「家族だけど兄弟とは縁を切りたい」と話しており、家族の結びつきはもはやなくなっていたようです。

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これらの証言からも家族がお互いに無関心であった様子が分かります。土浦連続殺傷事件が起きてしまった一端には、歪な家族環境という生い立ちも背景にあったのでしょうか。

土浦殺傷事件の裁判では遺族が「金川の両親は子どもの育て方を間違えた。子どもは寂しかったと思う。事件の最大の原因は両親にあると思われる」と両親を責める発言をしています。

土浦連続殺傷事件の裁判の行方

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2009(平成21)年5月、水戸地方裁判所にて公判が始まります。土浦連続殺傷事件から約1年が経過した頃でした。世間に衝撃を与えた凶悪犯罪の裁判は世間も動向を注視していました。

その後、2010(平成22)年1月に死刑という判決が確定するまでの間、裁判はどのような進んでいったのか、経過をみていきましょう。

ポイントは責任能力の有無

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土浦連続殺傷事件の裁判では、金川被告の刑事的な責任能力について大きく審議されました。金川は公判が始まる前に精神鑑定を受けています。その結果は後の公判の中で明らかにされます。

弁護側は「被告は血を見ただけで失神した過去があり、人を殺傷できたことは心神喪失状態であったと推測される」「本人が望む死刑にするのはご褒美のようなもの」という2点を軸に主張します。

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その上で、犯行時には統合失調症の初期症状が出ており、責任能力は問えない状態であったと主張します。なんとか死刑を回避しようと試みます。

一方の本人は犯行前と変わらず死刑となりたい気持ちですが、弁護士はそう主張するわけにはいきません。裁判は弁護側と被告の訴えが一致していないという歪な状況でした。

自己愛性パーソナリティ障害と診断され、責任能力有りとみなされた

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土浦連続殺傷事件公判に専門家が出廷します。精神鑑定を実施した大学教授です。そして、弁護側が責任がない根拠として挙げていた「初期の統合失調症の出現」説を否定する証言を行いました。

精神鑑定によって金川が「自己愛性パーソナリティ障害」と診断し、責任能力が認められる、と判断します。

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自己愛性パーソナリティ障害については後述しますが、この鑑定結果は非常に重要でした。もし責任能力が認められなければ、金川の望む死刑への道は閉ざされてしまっていたのです。

精神鑑定を用いて刑事責任を判断する際、心神喪失状態で無罪となる場合、心神喪失状態であっても一部責任を負い減刑になる場合、全ての責任を負える状態で有罪となる場合とがあります。

裁判が長引くと激高し、机をひっくり返すなどの手段に出ることも

土浦連続殺傷事件の公判中、証言等により裁判が長引いたり、次の公判日の日程が数か月先に設定されたりすると、金川は激高し、目の前の机をひっくり返して一部を破壊するといった行動に出ることもありました。

法廷でその様子を見ていた人からの証言では、机は重く少し押しただけでは動かないと思われるとされています。相当な強い怒気が含まれていたと推察されます。

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弁護側が死刑を避ける方向で裁判を進めていたことも苛立ちの一因であったと思われます。自分の思い通りに物事が進んでいかないことに強い憤りを感じていたのでしょう。

この反抗的な行動や悪びれない態度からも、いかに死刑になりたかったかが分かります。もはや死への異常な執念は狂気さえ感じさせます。

金川真大の希望通り死刑判決となり「完全勝利」と発言

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2009年(平成21年)11月、土浦連続殺傷事件の量刑の主張が行われました。検察側は死刑を求め、弁護側は本人が死刑を望んでおり死刑にしても刑罰にあたらないといい、更生の余地はあると主張しました。

そして翌月12月、土浦連続殺傷事件における金川真大への判決が下ります。水戸地裁は弁護側の訴えを退ける形で検察側の求刑通り、死刑という極刑を言い渡します。

裁判長は事件が与えた被害者遺族への苦しみは甚大であること、被告の反省や後悔が全く見られず、今後も更生の余地がないと断罪します。そして土浦連続殺傷事件は極刑と判断したのです。

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死刑という結果について、新聞社記者との面会で「完全勝利」という表現で金川は嬉しさを語ったようです。自分の欲しいものがやっと手に入ったという気持ちなのでしょう。

人を殺害した上で完全勝利という言葉を使うこと自体に歪んだ発想が垣間見えますが、金川の望んだ通りの結果だったという点ではまさに土浦連続殺傷事件公判はその通りになってしまったのです。

すぐに弁護側が控訴しましたが、金川本人が望まなかったため取り消されます。そして2010(平成22)年1月、土浦連続殺傷事件はとうとう死刑判決として結審されたのです。

2013年2月に死刑が執行された

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こうして裁判が終結した土浦連続殺傷事件。裁判後は死刑囚となった金川は東京小菅にある東京拘置所に収監されました。死を待ち望む気持ちは全く変わらず、事あるごとに早期の死刑を望む発言を繰り返します。

面会の中で金川に反省を促したり、生きる望みを持つよう働きかける動きもありましたが、金川の気持ちが揺らぐことはありませんでした。誰も心変わりさせることはできなかったのです。

2008年の土浦連続殺傷事件発生からおよそ5年後。2013(平成25)年2月、収監先の東京拘置所内にて絞首刑による死刑が執行され、29歳になっていた金川は死へと旅立ちました。

自己愛性パーソナリティ障害とは?

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土浦連続殺傷事件についての公判が始まる前に精神鑑定を受けた金川真大は「自己愛性パーソナリティ障害」と診断を受けました。この障害の特徴はどのようなものでしょうか。事件との関連性についてみていきましょう。

自分は特別で素晴らしい人間だと信じている

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障害の症状は人によって様々ですが、共通する特徴について述べていきます。この障害の特徴として「自分は特別で素晴らしい人間である」という優越感を抱いており、さらにそれを誇示したいという傾向があります。

そのため、常に自分を過大評価し、尊大で高慢な態度をとってしまう傾向にあります。自分は褒められて当然と思っており、褒められないというのは周りが無能なんだ、理解できないんだと思ってしまう傾向にあります。

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また、人口の1パーセントの人が発症する可能性があるとされており、特別珍しい障害ではありません。ただ、診断が難しく、病院を受診し適切な治療を受けている人は少ないのが現状です。

もし金川が事件を起こす以前に病院を受診しこの診断を受けていたとしても、治療やカウンセリングで彼の考えや他者への接し方を変えることは容易ではなかったはずです。

崩れやすい自尊心を抱えている

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一方で、客観的に自分を見つめることが難しいため、自分に対する批判には弱く、周りからの批判や助言を受け入れにくく思考が頑なになっていく傾向があります。

実際には自分が思うほど周りから認められないため、土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大のように打たれ弱く脆い自尊心を抱えていることが多いとされています。

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和菓子会社の件で金川は周囲に見栄を張っていました。このように自分のことを実際より良くみせたり、誇張する点も一つの特徴に挙げられ、歪んだ自尊心の形成の一因となってしまします。

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