「鳴海清」とは何者?
夏の暑い盛りの1978年7月11日の夜、京都の繁華街にあるクラブで酒を嗜んでいた暴力団組長に向けて発砲した男です。一般客のいる中で騒動を起こし、首を貫通させました。
反社会的な組織であるヤクザの世界は、私たちの住む一般社会とはかけ離れた領域であります。近年でも組の争いは勃発しており報道でも表面だけ公表されます。
今回は、知られざる裏組織の内面に迫り、仁義なき男世界についてご紹介していきます。
鳴海清はヤクザであり、敵対する山口組組長を撃った男
縦社会の厳しい世界に従事している極道の分野は、入所する組の親分が絶対的存在であり、命をかけて守り抜く意思を持っています。当然彼も尊敬しておりましたが、あるとき山口組員が射殺事件を起こします。
このとき命を狙われたのが敬する大日本正義団の吉田会長だったのです。怒り狂った鳴海は敵討ちを決意したのです。ターゲットはトップである田岡組長でした。
急に打ち殺す勇気が消滅してしまったのでしょうか?遠目から撃ったために急所を外してしまい重傷を負わせたものの命をとることができませんでした。
ただ異例の行動を起こしたことに多くの構成員が驚いたことでしょう。山口組といえば国内最大級の組員を抱えることで名が知れ渡っています。
一方で鳴海が入っていた松田組は500人ほどの小規模でした。極道の世界ではありえない事態だったのです。後に敵を多く作る行為となったことをまだ彼は知らなかったのです。
鳴海清が起こした山口組三代目襲撃事件(京都ベラミ事件)
極道同士の組争いが続いており、次々と射的ゲームのように団員らが命を狙われていました。一般市民のいる場での闘いは、もはや誰も止めることのできない騒動でありました。
静かだった日常が一変して恐怖の街に変わってしまったのです。5年間繰り広げられた恐怖の出来事は記者会見をして終了を報告するほど世間の注目を浴びていました。
終息を聞いた世間はホッと肩をなでおろしたことでしょう。なぜそのような論争が起きてしまったのでしょうか?知られざる別世界の事情について詳細概説していきます。
鳴海清の事件概要①1975年の大阪戦争の末日本橋事件が起きる
事の発端は同じく暑い夏7月26日でした。松田組が管理していた賭博店に、勢力を伸ばしていた山口組の組員が突然入ってきて異組の一人に嫌がらせをして口論となります。
ヒートアップしていき、ついには銃を取り出す騒ぎとなりました。発砲し、山口組員らを数名絶命させます。
これに逆行した団員は松田組の背後にいた系列グループである大日本正義団のトップ吉田会長を殺します。
鳴海清の事件概要②自分の組長の報復目的で山口組の組長を狙撃
半グレだった自分を組へ呼んでくれ面倒を見てくれた親代わりの会長をなくしてしまった怒りは、攻撃へのパワーへと変わっていきます。彼は口よりも早く行動に移してしまう人間でした。
良い意味では行動力が長けており、迅速な対応ができるとみられますが、ときに周りから反感を買ってしまうこともあります。彼の行動には幹部らが指摘することもあったようです。
トップを狙われたわけですから、相手のドンである田岡をターゲットにし計画を立てていくのです。頻繁に通っている店があることを聞きつけます。
入念な捜査を行って失敗の内容に動かねばなりません。近くにアパートの一室を借り、動きを常に見張っていたのでした。店内にも客を装った部下たちを入れ込み様子を見させたのです。
数か月分の情報をもとに、決行に移ったのです。華やかなダンスのショーを見た後、ミュージックも終わり静かになったことを見計らって襲います。
見張り番として多数傍にいたましたが、敵からは遠目からの狙いだったため発見できなかったこと、突然のことでしたので護衛もできなかったようでした。
鳴海清の事件概要③2か月に及ぶ逃走劇と報復劇が繰り広げられる
ミッションを終えた後は、阪急電車に乗って逃走劇をスタートさせます。現場のグラスに付着した指紋と、眼鏡を忘れてきてしまったことで、鳴海がヒットし指名手配となります。
撃った直後から逃げているため命をとったかどうか見定めてはおりませんでした。でも心の中では殺せたと思っていたことでしょう。敵を討ったとドキドキしながら、後を追われていないか慎重に行動をします。
遠回りをしてタクシーも5回乗り換え、服装もチェンジし入念な経路で自宅に帰ったとされます。テレビでは大きく取り上げられており、自分の犯したことをじっと見つめていたと言われています。
命狙ったわけですが失敗をしています。首に貫通はしたものの大きな血管からはズレており命は守られました。山口組の手下たちは親分に痛い目をあわせた怒りを、当然抑えることができません。
一旦、組同士のトラブルは鎮静化された時期に入っておりましたが、再度激戦が繰り広げられたのです。
鳴海清の事件概要④1978年9月、六甲山で腐乱死体として発見される
性別が判別できないほど腐敗が進んでおり、発見された最初は誰の亡骸なのか検討がつかなかったようです。ただ論争の背景から彼ではないかと憶測はあったとされます。
検証していくと体には凄まじい乱暴をされた痕跡がありました。ガムテープでぐるぐる巻きにされた体にはいくつもの刺し傷があり、前歯は折られて紛失しており、爪は剥がされ指紋で認証されないように指先は潰れていました。
判別不可能だったため、赤外線をあて科学検証するしか道はありませんでした。結果、背中に大きな天女の入れ墨が目印となり遺体決め手となりました。
鳴海清の生い立ち
最期は悲惨な姿で発見された彼ですが、魂は尊敬していた会長の傍に寄り添うことができたでしょうか?ヒットマンになった彼のプロフィールやエピソードを見ていきましょう。
鳴海清の生い立ち①1952年、大阪に生まれる
西成区の大衆食堂を経営する家に生誕しました。当時ではどの家庭も兄弟姉妹は多かったですが、彼も大家族で過ごします。姉が何人かいたようです。
裕福でも貧困でもなく、中流家庭で育ちます。色が白く大人しい印象をうける内秘めた性格の少年時代を過ごしています。
鳴海清の生い立ち②中学卒業後は印刷工場へ、しかし2年で退職
自宅近くに位置する東大阪市内の工場で中学校を卒業後は働きました。僅か2年という短さで自分から辞めています。
工場の勤務が合わなかったのか人間関係がうまくいかなかったのか定かではありませんが、やっと仕事に慣れたころに去っています。
鳴海清の生い立ち③17歳の時にケンカ相手が死亡する事件で少年院へ
自分の家の近くで営業していた喫茶店でお客と些細なことで口げんかとなります。ヒートアップしてしまった彼は命を奪ってしまうのです。カッとなる性格はすでにこのときから形成されていました。
1年半の教育と罪の償いを終えて表に出ています。悪の道へ反れてしまうのは、この施設内で繋がりを持ったのではないかと言われています。
鳴海清の生い立ち④退院後に結婚、「なるみ食堂」を始める
土木作業員として働きながらお金を稼いでいました。近所の女性と恋仲になり結婚をします。19歳でした。一家の大黒柱となったため、実家の野菜を売っていた部分を改造して食堂を切り盛りしました。
きちんと更生して真面目に働こうと心に誓ったはずでしたが、願いは叶わず客足はゼロに等しく2年ほどで店じまいをしています。生まれ持った性分というものは、はなかなか治るものではなかったようです。
鳴海清の生い立ち⑤博打からヤクザと関りはじめ19歳ごろに組員へ
自分の稼ぎで遊ぶのは自由です。彼の場合は方向を間違えてしまったようです、環境の悪い趣味を見つけてしまったため当然ヤクザや半グレな人物らと深い仲となっていきます。
悪が刺激的に見えたのでしょうか?自身も背中に大きな天女の入れ墨を施すのです。食堂経営を始めた矢先、背中のデザインのように飛び立ち悪のレールを自ら歩むこととなってしまうのです。
鳴海清が山口組を襲撃をした理由とは?
このトラブルがなければ彼の人生は変わっていたでしょうか?惜しくも悪の道へ入ってしまっただけに短い一生を遂げることとなってしまいました。
食堂を切り盛りしていたら関わることのなかった抗争に、自分も入りこむことになるとは想像もしていなかったことでしょう。なぜ激戦となってしまったのか理由と彼の秘めた思いを解説します。
鳴海清が襲撃した理由は尊敬する吉田会長の仇!
組に命を預ける覚悟で入所するため、ボスが殺められたことは自分を痛みつけられたものと同然でした。悲しさを怒りに変えていったのです。やられたらやり返すがこの世界です。
当時彼は会長の運転手役でしたが、事件の日は自身が交通事故に遭ってしまい自宅で療養中だったのです。自分がもしあのときに従事していたら命を守ることができたかもしれないと悔やんだと言います。
会長の遺灰をお守り代わりとして常に身に着けるほど心酔していました。相手が大手の暴力団でも関係なく怒りの矛先を向けることとなるのです。
鳴海清が所属する松田組と山口組の対立
日本全国に勢力を拡げていった山口組は、組織内の権力意外にも経済までに影響を及ぼす最強な裏組織と成長と遂げていきます。
当時はあきらかにヤクザとパッと見ただけでわかるような風貌だったことから、どこへ行っても市民は遭遇する形となっていました。
都心で起こった暴力事件について詳しく知りたい方は、こちらも良かったらご覧ください
そんな中、他の反社会的勢力グループと縄張り争いで毎日のようにケンカが絶えなくなります。松田組も陣地を広めていくために対立していくのでした。
きっかけは豊中事件
古くから続いていた賭博場所で、松田組はいつものように嗜んでいました。そこに勢力を強めた山口組らが出入りするようになるのです。
最初に陣取っていたのは小さな組ではありましたが、大きな団ということを武器に横柄な態度で通い始めたのです。これに怒りを覚えた松田組は出入り禁止にして、嫌がらせをしたのです。
日本一の権力を持つ組織だった彼らは、面目を潰され怒りが込み上げてくるのです。話をつけようと豊中に構える喫茶店ジュテームにくるよう呼び出すのでした。
店内に入る一行は、話だけでは収まりきらず銃乱闘に発展します。一般客もいる中での映画さながらの論争は恐怖しかなかったことでしょう。
鳴海清は襲撃後にどこへ消えた?
ターゲットを撃つ任務を果たした彼は、すぐさま現場を後にします。さもなければガードマン20~30人に囲まれてしまえば自分も危ないからです。逃走劇はスタートします。事件後の行動をまとめました。
鳴海清のその後①山口組をさらに挑発
車で逃げれば後をつけられると思ったため、電車に乗って逃げます。大阪駅の方角へ向かったという情報が残っています。そして男は、大阪新聞社に挑戦状を出し被害を拡げてしまうこととなるのです。
その内容とは、敵組に向けた見下す文面であり、日本トップに君臨している暴力団に対し力を過信すれば滅びることや、親分は日本一にそぐわない非がある人物だといったことが綴られていました。
組長を傷つけられたことだけでも怒り心頭でしたが、さらに彼らを怒り狂わせたのです。鳴海は田岡組長を殺めたものだと思い、自信満々で挑発したようです。
以前から市民を巻き込んでの争いを起こしていたため控えるように、山口組では構成員たちに命じていました。ですが挑発され黙っている性分の男たちではありませんでした。激しい闘いが刻一刻と近づいていました。
鳴海清のその後②激しくなる抗争
新聞で取り上げられ、最強暴力団としてのプライドを踏みにじられた彼らは、徹底的に敵組を狙っていくことを強めます。タクシー乗車中に撃たれたり道を歩いているときに狙われたりと、無差別に殺めていきます。
常に危険が潜んでいた状態でした。銭湯で入浴しにいった場でも命を狙われています。一般市民が多く滞在する場での闘いは、ただ恐怖だけが付きまとう日々だったことでしょう。
鳴海清のその後③松田組系列で匿われる
鳴海は自分が姿を出せば確実に殺されることを自覚していました。それは決行前から想定をし行動していたようです。大胆な行動をとっていた彼ではありますが、実は慎重派だったようです。
家族とは離れて潜伏し、もし万が一のことがあっても自分だけの被害となるように兵庫県に位置する同じ仲間の組であった忠誠会へ身を潜めたのです。
そして家族とは別々の生活が長期戦となることを思い描いていましたが、瞬時に崩れることとなります。
復讐の道を進んだ鳴海清の最期…
寝間着のままで最期はかなり痛みつけられて苦しみながら息絶えたのでした。田岡をターゲットにした時点で彼には多くの敵を作りました。残虐な姿で幕を閉じたことが多くを物語っているではないでしょうか。
亡骸となるまでの経緯と当時の状況、周りにいた人物への対応をご紹介していきます。
鳴海清の最期①六甲山で遺体で発見
兵庫県の神戸市に位置する山の瑞宝寺付近は急な坂道や整備されていない山道が続き、人も多く出入りません。人知れず動かなくなった姿は徐々に腐敗が進んでおり発見された時には、ウジ虫が張り付くほどだったと言います。
部屋着のまま倒れた姿は、この世の人間とは想像を絶する光景でした。ガムテープでぐるぐる巻きにされた体は映画に登場するミイラ男のようです。
前歯や爪は抜かれ、体にはいくつもの刺した後、指先の指紋は潰れて判別できなかったのでした。あきらかにリンチを受けたものであり、素人が犯した仕業でないのがわかります。
そしてかなり妬みがあり苦しめたであろう光景が想像できます。
鳴海清の最期②妻子と愛人は安全な場所へ
妻は愛人の存在を知っておりましたが、顔を見たくらいできちんと話したりすることはなかった間柄でした。彼が狙撃する前日の夜、3人はお寿司屋にいました。