勝又拓哉は冤罪?栃木小1殺害事件の真相と犯人の生い立ちと現在とは

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来日後は日本の小学校へ編入。そこでは台湾名のチェン・ファンチェンを名乗り、もちろん日本語も不自由でした。以下は勝又拓哉の小学校卒業時の文集です。

「日本語の勉強を集中してお友達もできて、とてもよかった」(引用:SankeiBiz)

このように、当時の彼の日本語には少々違和感を覚えます。同級生によると、教室の隅でポツンとしていることが多く、周りとはジェスチャーを交えた会話だったといいます。

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その結果、勉強にもついていけずいじめにもあい、不登校気味になっていきます。また、小学校を卒業後一度台湾へ戻りますが、14歳の夏に再度来日。今市市立大沢中学校へ転入します。

事件の関係者は、この頃のいじめ体験が母校への恨みとなり、今回大沢小の生徒を狙うこととなったのではないかと語りました。

勝又拓哉の生い立ち④中学卒業後就職するもすぐに退職

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中学校は途中で転校した勝又拓哉。今市市立大沢中学校から、宇都宮市内の中学校へ転校しました。

そして中学卒業後はすぐに就職。日光市内の旅館で布団係をしますが、その仕事はおよそ1週間で解雇となっています。彼はインターネットが趣味であったせいで朝が非常に苦手であり、遅刻の常習犯だったといいます。

その後はコンビニエンスストアでのアルバイトや派遣会社に登録しますが長続きせず、無職でぶらぶらとする生活を送ることとなります。

勝又拓哉はイケメンだった!被害者や世間の反応は?

前述した通り、逮捕時に勝又拓哉の小中学生時代の写真がメディアに流れ出すと、視聴者からは「イケメン」というワードが多く飛び出します。

某女性芸能人や某韓流俳優に似ている、爽やか系イケメン…など、そのイケメン具合に人々はどよめきました。台湾出身であることから、日本人離れした顔立ちもイケメンといわれる要因の1つだったと考えられます。

捜査員に家から連行される際の動画でも「寝起きなのに整った顔をしている」という声が見られ、静止画、動画共にイケメンであった、とネットは騒然とします。

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また、被害者である有希さんは殺害される2週間前、「目の綺麗なお兄さんと待ち合わせをしている」と話したと言い、これが勝又拓哉のことだとすれば、被害者から見ても綺麗な顔立ちだったことがうかがえます。

そして事件後、近所の住人がインタビューに応じた際も「勝又拓哉はイケメンで彼女がいそうな人だった」と回答。これらのことから、彼のイケメン具合は本物だったといえます。

勝又拓哉の生い立ち⑤母親と偽ブランド品を販売し始めた

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清掃業を解雇となった勝又拓哉は、そこから母親と偽ブランド品を売り歩くようになります。この時母親は金銭トラブルにより既に離婚しており、2人を咎める家族はいませんでした。

2人はフリーマーケットや骨董市を中心に販売していましたが、偽物を売っていると分かると規約違反で出入り禁止となり、段々と商品を売れる場は減っていきました。

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そのため、途中からは車に商品を積み、客のところに出向き販売するという手段を取っていました。収入は月に2万円程度。ただ、この仕事のやり方も暴力団関係者に見つかり、トラブルに発展。

また2000年頃には母の再婚相手の両親との関係が悪化。そのため、鹿沼市西沢町に1人で移り住んでいます。

2009年、27歳の時に日本国籍を取得し日本に帰化。逮捕当時は32歳で、この頃にはもう勝又拓哉は引きこもり状態でした。

勝又拓哉の性格や趣味は?自宅の様子とは

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複雑な生い立ちであった勝又拓哉。では彼の性格、趣味、自宅の様子はどのようなものだったのでしょうか。

生い立ちから生じた内向的で不安定な性格や、少女性愛、いわゆるロリコンと呼ばれる趣味まで、5つの項目に分けてご紹介します。

勝又拓哉の性格①口数が少ない性格

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勝又拓哉は、口数が少ない性格でした。人と話すのが苦手で、話しかけられても小さな声で「はい」と相槌を打つのが精いっぱいだったといいます。また、情緒不安定で虚言癖があったとの証言も散見されます。

このような性格は台湾出身である勝又拓哉の生い立ち、日本語の苦手さやいじめの経験から来るものであり、そのために仕事も長続きしませんでした。

そしてこの性格が自白の強要を起こしたとして、冤罪説を後押ししてもいます。

勝又拓哉の性格②キレやすい一面もあった

勝又拓哉は口数が少ない一方、キレやすい一面もありました。小中時代も、からかわれるとすぐにキレて同級生に怪我をさせています。また特に、母親の悪口を言われると激昂するという特徴もありました。

元義父も「勝又拓哉はカッとなると感情を抑えられないタイプであり、キレたら何をするかわからなかった。突然怒鳴り込んできたこともあったし、善悪の判断がつかない子だった」と語っています。

勝又拓哉の性格③少女性愛趣味

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いわゆるロリコン趣味であった勝又拓哉の自宅のPCからは大量の女児の画像、児童ポルノ、猟奇的な内容の少女性愛画像が発見されました。

またフィギュア等の人形も好きで、母との仕事で出向いた骨董市などでフィギュアを購入していたとの目撃情報もみられます。

意外に感じるかもしれませんが、実は勝又拓哉は、骨董市などで幼い女児に人気がありました。

一見優しく感じる雰囲気、そしてイケメンともいえる容姿のおかげだと考えられますが、この頃から少女への歪んだ愛が芽生えていったと言えます。

勝又のものと思われるツイッターでのロリコン発言

勝又拓哉のものと思われるTwitterアカウントからは、2013年7月30日の書き込みとして以下のような文面が見つかっています。

「スク水」とは、スクール水着のこと。スクール水着にランドセル姿の女児を求める勝又拓哉のこの呟きは衝撃的で、瞬く間にマスコミに取り上げられることとなりました。

勝又拓哉は一日中パソコンに向かっていたことも

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勝又拓哉は事件当時の23歳頃、一日中家でゴロゴロし、パソコンに向かっていたといいます。友達がおらず職もなかった勝又拓哉は、インターネットにその居場所を見出したのです。

そのために昼夜逆転の生活を送っており、勝又拓哉が夜中にコンビニエンスストアで1人分の食事を購入する姿が毎日目撃されていました。

料理もせず、弁当を食べながらひたすらパソコンに向かっていたことがうかがえます。

勝又拓哉はナイフマニアでナイフを収集していた

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勝又拓哉はナイフを自宅に多数収集していました。その数10~20本。逮捕時に押収されたナイフは、殺傷力の高いサバイバルナイフがほとんどでした。

偽のブランド品を販売していた際、骨董市でもナイフを購入する姿が目撃されており、同級生の証言によると、事件が起きた23歳の頃にはナイフ収集を趣味としていました。

勝又拓哉の父・母との関係は?溺愛されていたとは本当?

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では、台湾出身の母親、そして義理の父親とはどのような存在だったのでしょうか。

勝又拓哉に対する母親からの溺愛、義父との折り合いの悪さなど、ここにも普通とは異なる安定しない状況を見つけることが出来ます。ここでは勝又拓哉とその両親との関係についてご紹介します。

勝又拓哉と両親の関係①母親からは溺愛されていた

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勝又拓哉は、母親からは溺愛されており、勝又拓哉が欲しがるものは母親がすべて買い与え、無職時代は一人暮らしもしていましたが、家賃や生活費、食費なども母親が支払っています。

勝又拓哉の自制心のなさは、この母の甘やかしにより生じたものでしょう。そんな母親は現在、重い病で闘病中。しかし勝又拓哉の無罪を信じ、台湾には戻らずにその帰りを待ち続けています。

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また驚くことに勝又拓哉の母親と被害者・吉田有希さんの母親は、近所に住んでいる同士、交流があったと捜査の関係者が明かしました。

かなり親しいという訳ではありませんでしたが、グループで某遊園地へ出かけたこともあるというから驚きです。

勝又拓哉と両親の関係②父親は義理の父親で折り合いが悪かった

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勝又拓哉が台湾から来日するきっかけとなった義理の父親であり母親の再婚相手。勝又拓哉は、この義父(現在は離婚したため元義父)と非常に折り合いが悪かったといいます。

口喧嘩は当たり前、殴り合いのケンカも多くしていました。特に義父への暴力は日常茶飯事であり、またこの義父にも3人の連れ子がいましたが、当然その連れ子との仲もギクシャクしていました。

勝又拓哉と両親の関係③息子を怪しむ夫に妻は「黙っていろ」と発言

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義父は事件が起きた翌日、警察に「息子が怪しい」と通報。死体遺棄現場の土地勘もあり、ロリコン趣味。そして車に大型のナイフを積んでいるのを目撃したためでした。

そのことを勝又拓哉の母親に相談すると、息子を溺愛している母親は「黙っていろ!」と一喝。これが原因となり夫婦仲は悪化、その後離婚に至りました。

父親にも見られる不可解な点

あるルポライターの取材によると、義父は「息子である勝又拓哉がランドセルを車に積み、処分していた」とも証言しましたが、これに対し母親は「異父妹の通学のためにランドセルを積んでいただけ」と主張。

そして、なんと義父は警察への通報により、懸賞金を一部受け取っていたといいます。額は発表されていませんが、このことから「金目当てで勝又拓哉を売ったのではないか」という世論も勃発しました。

母親の溺愛から生まれた犯罪者は他にも

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勝又拓哉のエピソードとして目立つのは、母親の溺愛により彼の自己中心的な性格が形成されていったという点です。母親は心理学的に見ても、全ての人にとって一番近い存在。

その母親に歪んだ愛情を注がれれば、子供もまた歪んで育ちます。ここでは勝又拓哉同様、母親の溺愛により生まれた犯罪者を2人、ご紹介します。

母の手助けで実行された妻殺害事件

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2018年3月、茨城県取手市で主婦・弥谷(やたに)麻衣子さん(当時30歳)が殺害されるという事件が起こりました。麻衣子さんを殺害したのは夫の弥谷鷹仁(当時36歳)で、彼は元銀行員のエリート。

弥谷鷹仁は麻衣子さんと家庭問題で度々揉めており殺害を計画しましたが、なんとその殺害計画は母親である弥谷恵美と共に立てたものでした。

弥谷鷹仁は有名なマザコン息子であり、母親の弥谷恵美も息子を溺愛していたというのです。

弥谷恵美は、麻衣子さんの遺体を埋める場所として自らの実家を提案。また、そのための道具を用意する、殺害方法のアドバイスをするなど、積極的に殺害に協力しました。

事件の直前、2人で麻衣子さんを埋めるための穴を掘った後、弥谷恵美は弥谷鷹仁に麦茶を注ぎ、丁寧に息子の汗を拭いたといいます。

息子可愛さに過ちを犯した母。母親の間違った愛情が、この殺人を起こしたと言っても過言ではありません。裁判の結果、弥谷鷹仁には懲役15年、弥谷恵美には懲役7年の刑が下りました。

母親の溺愛に人生を狂わされた「監禁王子」

2001年、2004年に発覚した北海道・東京連続少女監禁事件。「監禁王子」の名を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

事件の犯人である小林泰剛は、2001年には北海道で知り合った女性を2週間監禁。その後2004年には東京で18歳の少女を脅迫、3ヶ月に渡り監禁しました。

小林は10代の頃に母親を亡くしていますが、生前の母親は教育熱心で、小林を溺愛していました。高校時代には小林と女子生徒の仲を取り持ち、女子生徒が拒絶すると母親が説得に乗り出す場面も見られたといいます。

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また、息子のために避妊具を用意し、部屋に置いていたとの証言もあります。小林は事件後、「母親が唯一の理解者だった」と話し、典型的なマザコンであったことがわかっています。

小林は犯行動機を「母のような女性がいないと生きていけない」と語り、少女を監禁したマンションには母親の写真が飾ってありました。

母親の溺愛により母なしで生きられなくなった小林泰剛。人生を歪められた彼も、ある意味で母親の被害者であると言えるのかもしれません。

勝又拓哉の現在の様子は?

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勝又拓哉は第一審、第二審と無期懲役判決を受けた後、最高裁に持ち込み勝又拓哉本人、そして弁護団が無罪を主張し続けています。

ここでは、最高裁に挑むための弁護団の主張などをご紹介します。

勝又拓哉は現在は最高裁に上告中で拘留中

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勝又拓哉は現在、拘置所で毎日を過ごしています。2018年8月に控訴審が終了し、同年12月17日には弁護団6人が作成した120ページに渡る上告趣意書を最高裁に提出。その主張は主に以下の2点がありました。

  • 拘留中に勝又拓哉が母親に宛てた手紙に書かれた「ごめんなさい」という文面は、今回の事件に対するものではなく、事実誤認である。
  • 控訴審で事件のあった日時や場所の幅が広げられたことは法令違反である。

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これらを理由に弁護団は勝又拓哉の無罪を主張。また、彼自身もこの時期に取材に応じ「早く自由にしてほしい」と語りました。

しかし無期懲役を巡る裁判が最高裁まで持ち込まれることは稀であり、今回の上告は棄却され、無期懲役刑となる可能性が大きいと考えられています。

勝又拓哉の起こした事件のその後の遺族と世間に与えた影響とは?

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不可解な点も多く、非常に猟奇的であり悲しい今回の事件。この事件を受け、その後の遺族と世間にはどのような影響が出たのでしょうか。被害者遺族、そして地域の防犯意識の変化についてご紹介します。

勝又拓哉の事件のその後①被害者の母親は判決を待たずに亡くなった

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事件後、被害者である吉田有希さんの母親、洋子さんは2016年5月に病死しました。47歳、事件の判決を待たず、無念の死でした。

第一審には洋子さんの姉が証言台に立ち、洋子さんは心労が重なり亡くなったこと、毎朝血圧を測り何とか健康でいよう、生き延びようと努めていたことを語りました。

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「有希と有希の母親が見ていることを忘れないでください。絶対許しません」ときっぱりと述べ、最後に「極刑を望みます」と訴えた。(引用:産経ニュース)

この言葉から勝又拓哉は、被害者遺族に大きすぎる影響を及ぼしたことが分かります。

母親の洋子さんは勝又拓哉の逮捕時、捜査員に「本当によかった」と話しました。事件後は何度も手記を発表しその心境、早い真相究明を望むことを訴えています。

勝又拓哉の事件のその後②子供の安全への意識が高くなった

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事件後、有希さんが通っていた日光市立大沢小学校では、ボランティアやPTA、教員による地域安全パトロール「大沢ひまわり隊」が結成されました。

児童の登下校に付き添い、見守り、パトロールをするこの隊は現在も活動中で、ボランティア、保護者、教員、総勢600名以上で活動を継続中。

事件から14年が経った今も、下校時には保護者の車が運動場に並びます。子供だけで登下校することはありません。子供達の安全を守る意識が非常に高くなったのです。

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また当時、事件を受けて地域の子供達にもその影響は広がりました。中学生になっても眠る時に電気を消せない、1人でいることが怖い、などの不安を訴える同級生が多く現れたのです。

同小学校の校長は「逮捕までは、どこに犯人がいるか分からない不安があった。とにかく子供達の安全を確保しなければとの思いがあった」と語っています。

勝又拓哉の逮捕には霊能力者が関わっていた?

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実は勝又拓哉の逮捕にはある霊能力者の存在が関係していました。事件から半年後、捜査に進展がないことに焦りを感じた捜査員は、栃木県内のある霊能力者に事件の透視を依頼します。

その霊能力者とはどのような人物であったのか。そして透視の結果、何が見えたのか。驚くべきその内容をご紹介します。

勝又拓哉の逮捕に強力した霊能力者・日光市在住のA子とは?

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捜査員が訪ねたのは、栃木県日光市に住む霊能力者・A子さん(当時49歳)。彼女は、地元で名の知られた霊能力者でした。A子さんは一般的な専業主婦ですが、子供の頃から霊感が強かったといいます。

霊能力者として除霊なども行っていましたが、一番得意なのは写真からの霊視。なんと、写真に写る人物の思考、見た風景、音声などが頭に流れ込んでくるのだとか。

この時の霊視では3日に渡り、被害者の写真から霊視。捜査員の依頼により霊能力者・A子さんは、連れ去られたルート、殺害現場、凶器の3点を重点的に見続けました。

地元民の口コミ

 霊能力者・A子さんが依頼を受ける場所は、一階が喫茶店となっている店舗。その上の階で霊視、除霊等を行っています。

 霊能力者・A子さんには基本的に人からの紹介がないと見てもらえませんが、実際に彼女に霊視をお願いした人物によると、あえて自分のことは話さなかったにも関わらず、怖いほど当たっていたといいます。

今も多くの信者がおり、実力はの 霊能力者・A子さんに縋るため、県外から足を運ぶ人も多くいます。

A子さんは透視で勝又拓哉の特徴を次々言い当てた

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霊能力者・A子さんは、3日間の霊視の中で以下のことを見たといいます。

  • 犯人は20代後半から30歳くらいの男性
  • 目が丸く、少しつり目気味。髪は耳が隠れる程度でヒゲはなし
  • 「たくちゃん」という愛称で呼ばれている
  • 被害者が泣いて騒いだため、日光市内の山道で刺殺。その際の刃物は特殊な形状
  • 遺体を水で洗い、傷口以外は綺麗にした

このように、A子さんは霊能力者として勝又拓哉の外見、名前、事件の様子を的確に言い当てました。他にも、逮捕後に判明した事実と同じことをいくつも話す場面も見られています。

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また捜査官だけにでなく、事件から2年後に 霊能力者・A子さんを取材したTV関係者に対しても「たくちゃん」という愛称を告げていたといいます。勝又拓哉逮捕時には、このTV関係者も腰が抜けたといいます。

また、その取材の際にも 霊能力者・A子さんは勝又拓哉が定職に就いていないこと、犯行時と現在使っている車は別だということなども霊視。

実際勝又拓哉は事件翌年の2006年、犯行当時使っていた車を廃車として処分したというから驚きです。

勝又拓哉は栃木小1殺人事件の犯人で現在も無罪を主張している

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栃木小1女児殺害事件の犯人・勝又拓哉は今もその無罪を主張し続けています。真相は本人にしか分かりませんが、不可解な点が多く見られるのも事実です。

勝又拓哉の不安定な人生、不十分な証拠と冤罪説、霊能力者の協力など、様々なエピソードが存在するこの事件は、今日も世間の注目を集め続けています。

今後、裁判所は彼にどのような判決を下すのでしょうか。正しい判決、そして1日でも早い遺族の心の平穏を祈ります。

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