ストックホルム症候群とは?PTSDの一種
犯罪に巻き込まれた被害者が、異常なほど加害者に共感、同情、また好意を抱いてしまう状態を「ストックホルム症候群」と呼びます。
スウェーデンの首都・ストックホルムで起きた事件で世間に広まった現象のため、この名前が付きました。
被害者が生き残るため加害者と心の繋がりを持つ
ストックホルム症候群は、精神疾患等の病気ではありません。犯罪などの非日常に置かれた時、その場を切り抜け生き残ろうとする、いわば生物の本能が働いた結果なのです。
ただ、その後はPTSD、心的外傷後ストレス障害として治療を受ける場合も見られます。
ストックホルム症候群が認知されるきっかけとなった事件
世にストックホルム症候群が知れ渡ることになったきっかけは、ある事件でした。1970年代に男性2人が起こしたその事件では、本来なら恐怖で動けないはずの被害者達が奇妙な言動を取り始めます。
ストックホルムで起きたノルマルム広場強盗事件
1973年、その事件はストックホルムの銀行で発生。ヤン・エリック・オルソンという男が銀行に侵入し、機関銃を乱射したのです。
銀行があった広場の名前を取り、ノルマルム広場強盗事件と言われています。オルソンは、そのまま行員9名と共に籠城し始めます。
人質4名は金庫室に監禁された
すぐに5名が逃がされ、残りの4名、男性1名と女性3名がそこから5日間、オルソンと共に過ごすこととなりました。オルソンの要求は金銭と、獄中の仲間、クラーク・オロフソンの解放でした。
オロフソンはすぐに解放され、オルソンに合流。行員らは身体に爆薬を巻きつけられ、金庫室に閉じ込められました。
なぜか人質が強盗を庇い警察の動きを妨害
しかし行員達はその後、なぜかオルソンらを庇い始めます。
4名全員で外のトイレに行くことを許可された際も、警察は彼らにそのまま逃げるよう指示しましたが、彼らは全員でオルソンらの元へ帰っているのです。
その上、警察がオルソン達を銃撃しようとした際に彼らを庇い、逆に銃を向けたという記録まで残っています。
銀行内からスウェーデン首相にまで電話をかけた人質の女性は、以下のように話しています。
「クラーク(・オロフソン受刑者)ももう1人の男性もちっとも怖くない。怖いのは警察です。(犯人たちを)私は信頼しています。信じないかもしれませんが、ここでは大変うまくやっています」(引用:AFPBB News)
この模様はスウェーデン全域で生中継され、国民は衝撃に包まれました。
解放後も人質達は犯人を庇い続けた
事件発生から5日後、銀行内に催涙ガスを注入しオルソン、オロフソンが外に出たところを逮捕。行員達は救出された訳ですが、彼らはその際も抵抗していました。
そして解放後も、彼らはオルソンとオロフソンを擁護し続けたのです。中にはオルソンらの弁護士費用のため募金を始める者、真偽は確かではありませんが彼らのどちらかと婚約した者まで現れました。
犯人が釈放された後に自宅を訪ねた人質も
オルソンは懲役10年の判決を受け、1980年に出所。その後タイに移住しますが、その頃、被害者のうち2名がオルソンの自宅を訪ねてきたというから驚きです。
彼らはオルソンの出所を知り、当時の思いを抱えたままわざわざタイまで会いに来たのです。このエピソードから、ストックホルム症候群が人を数十年に渡り縛り続けることもあると伺えます。
ストックホルム症候群になるとどんな行動をとる?
ストックホルム症候群になってしまった時、人は一体どんな行動をとるのでしょうか?まずはその特徴を5点、ご紹介します。
加害者の考えや行動に同調する
ストックホルム症候群になった人は、加害者の思想や行動にシンパシーを感じるようになります。
彼らの価値観や動機など、平常ではおよそ理解出来ない思想に寄り添い、世間が間違っていて彼らが正しいのだという気持ちに支配されてしまうのです。
加害者に好意的な感情を抱く
ストックホルム症候群になると加害者に親密な感情、時には恋愛感情を抱く場合があります。同性同士の場合は尊敬や崇拝、異性同士の場合は憧れや恋愛感情、庇護欲を抱く場合が散見されます。
加害者を擁護する
ストックホルム症候群になると、加害者を庇う発言、行動が見られるようになります。
自分を危険に晒している相手でありながら「この人は悪くない」と言い出したり、自分を助けようとする第三者に牙を向ける場合があるのです。
加害者の支配から脱出したがらない
ストックホルム症候群になった人は、逃げ出すチャンスがあっても脱出したがらなくなります。
ノルマルムでは、チャンスがありながらも行員全員が逃げ出さないという奇妙な展開を見せました。必ず逃げ出せる状況でも、彼らはなぜかその場に留まろうとするのです。
自分(被害者)を救おうとする人を敵視する
ストックホルム症候群になった人は、その場に安住するだけに留まらず、自分を助けようとする人を敵視します。
加害者から引き離されること、加害者への攻撃や非難、また自身への治療に対し拒否反応を示す例が散見されます。
ストックホルム症候群を引き起こす心理状態の変化
ストックホルム症候群になってしまう時、その心理はどのように変化していくのでしょうか。実は、この時人の心理は3つの段階を経て完成していきます。その段階、心理状態の変化をご紹介します。
死の恐怖から逃れようとする生存本能
例えば銃を持った相手が目の前にいれば、大多数はまず「死」を意識し、日常にはない大きな死の恐怖に襲われます。
すると無意識に「この恐怖からどうすれば逃れられるのか」という本能が働き始めます。これが、ストックホルム症候群を引き起こす心理の第一段階です。
行動に許可を得ることで幼児化する
犯罪に巻き込まれた側は、必然的に行動を制限せざるを得ません。喋る、移動、排せつ、飲食、睡眠まで、加害者の許可なしには出来なくなる場合が多いでしょう。
庇護者がいなければ意思を表せない、動けない、排せつや飲食の処理が出来ない…これはまるで赤ん坊のようだと感じませんか?
実は、成人でも恐怖で行動を制限されることにより退行現象が起こり、心理的に認知能力が幼児化するのです。
そしてその歪んだ認識の中で加害者が何かを許可をすると、まるで母親と共にいる子供のような心理に陥るのです。
それはまるで幼い頃、母親に「そのお菓子は食べていいよ」等と許可され、安心して生きていた時のような心理です。これがストックホルム症候群の第二段階です。
行動に許可が出ることで愛情を受けていると感じる
行動を制限された上で改めて許可を得ることで、大人でも精神的に幼児化してしまいます。そしてその上で厄介なのは、許可を得ると同時に愛情までもらえていると錯覚してしまうこと。
命の危険に晒され大きく混乱している時に、飲食や排せつ、移動などを許可されると、まるで特別な愛情を受けているかのような心理になってしまうのです。
元々の状況が異常なのですが、それを一旦忘れ、相手に好意を感じるという現象が起こります。こうして、ストックホルム症候群は完成していきます。
ストックホルム症候群の3つの要素
この用語を作ったのは、アメリカの精神科医、フランク・オッシュバーグ氏です。彼によると、ストックホルム症候群は以下の3つの要素で構成されていると説明されています。
- 第1に、被害者が、加害者に愛着、愛情を感じる
- 第2に、被害者からの好意を受け、加害者側が被害者に愛着、愛情を感じる
- 第3に、両者の間に、それ以外の「外界」に対する攻撃的、軽蔑的意識が芽生える
非常に偏った心理に見えますが、極限状態では、人の防衛本能としてこの経過を辿ることがあります。人は、無意識に愛情や庇護を欲しています。生命レベルでそれが現れるのが、ストックホルム症候群なのです。
ストックホルム症候群になる環境
3つの段階を経て完成するストックホルム症候群。では、ストックホルム症候群に陥る環境、条件はどういったものなのでしょうか。
非日常に巻き込まれれば誰でもストックホルム症候群になる訳ではありません。そこには、きちんとした共通点があるのです。
命が脅かされている状況である
まずは、事件などに巻き込まれた後、確実に命が危険なケースであること。
人間の生存本能を発端とするストックホルム症候群は、命の危険がないと判断出来る状況ではあまり出現しません。
時々加害者から優しくされる
次に、加害者が時々優しくなる、という状況があることです。生命の危険を感じる場面において、自分の自由を奪っている者が優しい顔を見せることが大きな条件です。
またストックホルム症候群の発症率は、同性同士よりも男女の方が高いと言われています。
第三者が干渉出来ない
監禁など、第三者が入り込めないケースでもストックホルム症候群になりやすくなります。閉ざされた空間で偏った人間関係を築くことによって、ストックホルム症候群は完成されていくのです。
またストックホルム症候群に陥った後も第三者を拒み続けることで、更に症状は悪化していきます。
置かれている状況からの脱出を望めない
さらに、脱出が不可能なケースではより発症しやすくなります。人は出口が見えないとより危機感を覚え、ストックホルム症候群の入り口である防衛本能が更に強く働くためです。
脱出不可能だと思い知ると、加害者に可愛がってもらい、生き延びようとするのが人の本能なのです。
ストックホルム症候群になる人とならない人がいる
条件を揃えた人は全てストックホルム症候群になるのでしょうか?実は、発症の確率は意外と低いのです。
別の銀行強盗では犯人を庇う人質はいなかった
他の強盗事件では、ノルマルムと同じように被害者が監禁されていたにも関わらず、ストックホルム症候群になりませんでした。
警察が強盗を銃で撃つと、人質の女性2名は倒れた強盗を起こして支え、警察がとどめを刺せるように援護したという記録があります。
このように、監禁等の状況を経てもストックホルム症候群に陥らないケースもあるのです。
ストックホルム症候群にかかる人は27%
被害者全体の内、ストックホルム症候群を発症する割合はどの程度なのでしょうか。
犯罪にあった人の内ストックホルム症候群になる割合は、FBIの調査により「27%」だという統計が出ています。つまり、残り7割強は発症せずに終わっているのです。
数字でご覧いただくと、意外に少なく感じられるのではないでしょうか。
警察はストックホルム症候群を考慮に入れている
現在、警察はストックホルム症候群の可能性を加味して作戦を立て行動しています。人質救出作戦におけるネゴシエーター(交渉人)は、それを踏まえたアプローチを徹底しているのです。
ストックホルム症候群が見られる他の事件
ノルマルム以降、ストックホルム症候群は世界中で確認されています。ここでは、その事例を6つご紹介します。
パトリシア・ハースト事件
アメリカの大資産家の娘であり19歳のパトリシア・ハーストの誘拐に端を発する監禁・洗脳事件は、1974年に起こりました。
パトリシアはある日SLAと言う過激派テロリスト集団に誘拐されましたが、その2ヶ月後に届いた手紙には、銃を構える彼女の姿、そして「SLAと共に戦うことを決めた」というメッセージが入っていたのです。
パトリシアは誘拐後SLAにより目隠しをされ、外部の情報を全て遮断されていました。そして衰弱したところでSLAのメンバーに優しく諭され、洗脳されたのです。
それによりストックホルム症候群になったパトリシアは、組織の中で恋人を作り、その後銀行襲撃のメンバーにも加わってしまいました。
組織のアジトが警察に銃激され5名が死亡した際には、ハースト家に2本目のテープが届き「お前らのようなファシストの豚野郎どもとはもう暮らさない」という過激なメッセージが録音されていました。
パトリシアは、誘拐から約1年半後に逮捕。治療を受け、7年の懲役を経て釈放されています。また釈放後は結婚し、子供も設け幸せに暮らしています。
ジェイシー・リー・デュガード誘拐事件
1991年、小学5年生だったジェイシー・デュガードは通学中に突然誘拐されました。ジェイシーをさらったのは、40代のガリドー夫婦。夫の方には性的暴行の前科がありました。
その後ジェイシーは夫婦の家の小屋に監禁され、裸同然で暮らすことになります。夫婦に酷い仕打ちを受けながらも時折優しくされたジェイシーはストックホルム症候群を発症しました。
彼女が13歳の頃の日記には、以下の文章が書かれています。
「彼らは、ほかの誰もしてくれないことをしてくれた。200ドルも払って、わたしに子ネコを買ってくれた」(引用:AFPBB News)
ジェイシーは性的暴行まで受けていましたが、猫を買ってくれたことに感謝しているという異常な状態でした。
その後ジェイシーはガリドーの子を2人出産し、ガリドーの会社で働き始めます。
他の社員や顧客、またガリドーの元を警察も定期的に訪問していましたが、ジェイシーが彼らに助けを求めることは一切ありませんでした。
最終的にガリドーのおかしな挙動から通報され、18年に渡る恐ろしい生活は幕を閉じます。が、その際もジェイシーは自らの本名を名乗ることさえ躊躇していました。
よど号ハイジャック事件
よど号ハイジャック事件とは、1970に起きた日本初のハイジャック事件です。
ハイジャックを行ったのは連合赤軍のメンバー9名で、目的は世界革命戦争を見据えた北朝鮮革命。そのため、福岡行きの飛行機「よど号」が選ばれました。
よど号は乗っ取られた後、福岡空港、韓国に着陸。韓国では乗客を全員解放し、身代わりに代議士を1名乗せ、その後北朝鮮へ到達します。
この時、飛行機という密室の中で赤軍派と乗客が妙に仲が良くなったというエピソードがあります。
ある時、乗客が赤軍派にハイジャックという言葉の意味を問うたところ彼らが上手く説明出来ず、それに対し乗客が「実行犯が説明出来ないのはおかしいだろう」と突っ込むと、機内は笑いに包まれたと言います。
その後、乗客と赤軍派の間で本の貸し借りがあったり、乗客が激励の歌を披露し、彼らもそれにこたえる形で革命歌を歌ったりと、宴会さながらでした。
また、韓国で乗客が解放される際には赤軍派に「頑張ってください!」と声を掛ける者もいたほどでした。
乗客解放後は身代わりに山村新治郎という代議士が同乗しましたが、赤軍派グループは山村代議士にも「ご迷惑をおかけして申し訳ない」と謝罪。
それに対し山村代議士は「これで次の選挙も当選間違いなしだ」と冗談を交え返しました。
失敗すれば全員死が確実なハイジャック。そんな非日常的な連帯感も手伝い、赤軍派側の人間らしさを目撃した乗客側は、ストックホルム症候群に陥ったのです。
乗客は約122名。これだけの人間が同時に発症した例は当時非常に特異なものでした。
また、この事件について詳しくは、こちらの記事をご覧ください。
オーストリア幼女監禁事件
1998年、オーストリアの首都・ウィーンでもストックホルム症候群が発現するほどの事件が起こりました。
当時10歳だったナターシャは通学中に近所に住む男性ボルフガング・プリクロピルに誘拐され、そこから8年間、狭い地下に閉じ込められてしまいます。
地下室は広さおよそ5平方メートルという狭く、窓もない防音の空間。そこにまず半年間閉じ込められ、その後はプリクロピルが眠る時、外出する時のみ地下に入れられました。
プリクロピルは、ナターシャに常に自分の1メートル後ろを歩くように命令し、彼女の髪を剃り落としました。また「家族はお前の帰りを待っていない」と話し、洗脳を試みました。
ナターシャは次第に耐え難い孤独感を覚え、プリクロピルに一瞬でも長く一緒にいてくれるよう頼んだと言います。
しかし、ナターシャは非常に賢く、決して諦めない子供でした。彼女は数少ない本やラジオから独学で言葉や技術を覚え、18歳の時、一瞬の隙を突きプリクロピルの家を逃げ出したのです。
その後ナターシャは無事保護されましたが、それを知ったプリクロピルは列車に飛び込み自殺。ナターシャはその報せを受けると「かわいそうな人だった」と涙を流しました。
10年間に渡る監禁生活で、幼い少女は生き抜くためにストックホルム症候群に陥ったと言えます。
そしてナターシャは自由の身になった2年後、プリクロピルと住んでいた家を購入。折を見てその家を訪れているというから驚きです。
籠の鳥事件
籠の鳥事件とは、1965年に東京都豊島区起きた女子高生拉致事件です。当時高校3年生だった少女を40代の男・角園九十九が誘拐し、家に連れ帰り手錠と目隠しをした上監禁しました。
角園は少女をその日の内に強姦しようとしましたが、抵抗され中断。翌日からは拘束を解き少女に紳士的に接し、そこから少女も男に対し態度を和らげるようになります。
角園が少女に「好きだからお前を連れてきた」と話すと、少女は角園に同情し、さらに心を寄せていくようになりました。
角園は少女に雑誌や服、下着やミシンを買い与え、段々と本物の恋人のような関係へ変化していったのです。角園は少女のために貯金をし、2人で温泉旅行にも出かけていました。