勝又拓哉は冤罪?栃木小1殺害事件の真相と犯人の生い立ちと現在とは

勝又拓哉は栃木女児殺害事件(今市事件)の犯人として無期懲役判決が出ていますが、冤罪では?との噂もあります。勝又拓哉が起こした事件の概要と裁判から現在の様子、冤罪とされる噂の数々と勝又拓哉を透視で言い当てたという霊能力者についてまで徹底解説します。

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勝又拓哉とは?栃木小1女児殺害事件の犯人!

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勝又拓哉とは、2005年に起きた栃木小1女児殺害に関する事件の犯人です。当時7歳だった少女を誘拐後殺害し、捜査期間が8年にも及んだこの事件。しかし実は、冤罪説も多く唱えられているのです。

この記事では、事件の概要から勝又拓哉の生い立ち、性格やイケメンと呼ばれる理由、冤罪説や勝又拓哉の逮捕に関わった霊能力者などを細かく解説。また、類似した他の事件もご紹介します。

勝又拓哉の起こした栃木女児殺害事件(今市事件)とは?

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栃木女児殺害事件(今市事件)とは、2005年12月、栃木県に住む小学校1年生の吉田有希さん(当時7歳)が何者かによって殺された事件です。

捜査の甲斐なく、容疑者として勝又拓哉が逮捕されるまでに8年を要したこの事件。まずはその概要をご紹介します。

勝又拓哉の事件の概要①2005年栃木県今市市で小1女児が行方不明に

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事件は200512月、栃木県の今市市で下校中の小学1年生、吉田有希さんの足取りが途絶えたことが始まりでした。

122日の午後2時、茨城県常陸大宮市の山へバードウォッチングの下見のために入った男性3人が有希さんの遺体を発見、大宮警察署に届け出て事件が発覚します。

勝又拓哉の事件の概要②行方不明の翌日茨城県で遺体が発見された

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男性3人は、山道をメートルほど下った薄暗い斜面で遺体を見つけました。現場は有希さんの自宅よりおよそ60キロの距離で、遺体は全裸の状態、口から血を流し倒れていました。

胸には10か所の刺し傷があり、そのうち1か所が心臓に到達し即死。手には縛られた跡、右頬には殴られた形跡が見られ、その痛々しい姿に有希さんの父親は「犯人を殺してやりたい」と涙したといいます。

勝又拓哉の事件の概要③捜査は難航し犯人への懸賞金は200万だった

捜査は非常に難航。有力な情報がないまま時間ばかりが過ぎる中、翌2006年8月、警察庁が有力な情報提供者に対し200万円の懸賞金をかけることを発表します。

そして2014年9月、犯人逮捕に繋がる情報を提供した2名に警察庁より300万円、遺族より200万円の計500万円が支払われました。

また、事件の半年後、捜査員は藁にも縋る気持ちで有名な霊能力者の力も借りています。

勝又拓哉の事件の概要④2007年に被害者に付着のDNAの人物が特定

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2007年3月、なんと遺体から第三者のDNAが発見されました。犯人への大きな手掛かりになると期待されましたが、2009年の9月、およそ2年半後にこのDNAが警察関係者のものだと発覚したのです。

この時、既に事件から4年が経過。DNAを元に周辺住民や不審者、過去の犯罪者などを容疑者リストから外していましたが、全て振り出しへと戻ってしまったのです。

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またこの不祥事が発覚した経緯も、当時冤罪で有名だった足利事件の影響を受けてのこと。つまり、足利事件がなければそのまま捜査が進んでいたと考えられます。その杜撰さに世間からは非難の声が上がりました。

冤罪が発覚した足利事件の詳細、それを含む日本国内の未解決事件は、こちらの記事もぜひご覧ください。

勝又拓哉の事件の概要⑤別件で逮捕の勝又が事件への関与を供述した

事件が大きく動いたのは2014年4月。事件から8年が経過していました。同年1月に偽のブランド品を販売したとして母親と共に逮捕となった台湾出身・勝又拓哉が、事件について「自分がやった」と供述したのです。

その後、捜査本部が勝又拓哉の自宅を家宅捜索。すると多くの少女などの画像、ビデオが押収されました。そして同時に、被害者が映ったビデオも発見されたのです。

長い長い捜査に、ようやくひとつの区切りがついた瞬間でした。

勝又拓哉の事件の動機とは?

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8年の月日を経てようやく逮捕に至ったこの事件。ここでは勝又拓哉の犯行動機に迫ります。身勝手極まりないその内容に遺族はもちろんのこと、世間も非常に憤慨することとなりました。

勝又拓哉の事件の動機はわいせつ目的

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捜査の過程で勝又拓哉の部屋からは女児が映った画像やビデオが多数押収。その中には小児性愛もの、猟奇的なものも含まれていました。

その後勝又拓哉は、初めから有希さんにわいせつな行為を働く目的であったと供述。また勝又拓哉が当日使った車には沢山のぬいぐるみが吊り下げられており、それで女児の興味を引いていたと報道がされました。

殺害の動機は「顔や車を見られて家族に迷惑がかかる」

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殺害動機については初め、言うことが出来ないと泣いて拒否をした勝又拓哉。しかし2014年6月11日、ついに「もう逃げたくない」と言い、動機を話し始めました。

その内容は「騒いだので殺した」「顔も家も見られているので、ここで逃がしたら自分の犯行だとばれてしまう。そうすれば家族に迷惑がかかる」というあまりに身勝手なものでした。

勝又拓哉の逮捕後と裁判中の様子とは

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勝又拓哉は、取り調べで犯行を自白。しかし裁判が始まると一転、無罪を主張します。

弁護側も冤罪を主張しましたが、結果は第一審、控訴審ともに無期懲役。勝又拓哉側は、現在も上告中です。

勝又拓哉は第一審で無罪を主張するが無期懲役に

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2016年2月の初公判、証拠品がほとんどない分、勝又拓哉の証言がポイントとなりました。しかし勝又拓哉は「私は殺していない」「被害者とは会ったことがない」と、涙を零しながら無罪を主張します。

検察側は7時間以上に渡る取り調べ映像を提出

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検察側は、遺体から見つかった獣毛が勝又拓哉の飼い猫と同じグループの獣毛であると主張。遺体の首のスタンガンの傷が勝又拓哉の所有するものと一致するとの証言も出ました。

また、勝又拓哉が自白した際の追及映像を7時間以上に渡り上映。

その中で勝又拓哉は「とんでもないことをした、(自分の)家族に謝りたい」と語り、有希さんには「お母さんが大変だから車に乗って」などと声をかけたと語りました。

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そして、証拠としては異例のNシステム、自動車ナンバー自動読取装置の記録も登場。記録は宇都宮市内の3か所のものであり、事件翌日には勝又拓哉の車が計5回検出されました。

検察側は勝又拓哉の自宅がある栃木県鹿沼市、そして遺体遺棄現場である茨木県常陸大宮市を往復したと主張しました。

弁護側は自白の強要を主張

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対して弁護側は、「検察側に不当な取り調べを受けた」として、長期間の拘束や暴力があったことを説明しました。

流された映像もほんの一部にしか過ぎないとし、凶器などの証拠品が少ない中、勝又拓哉が台湾出身なことも手伝って巧みに誘導されて自白に追い込まれたと訴えます。

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またNシステムについて、記録は現場付近ではなく宇都宮市内のみのもので、それだけで現場を往復したとは決めつけられないと主張。

証人として遺体を解剖した法医学者が出廷。勝又拓哉の自白が遺体の状況とは符合しないと説明しました。

結果は無期懲役

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結果は無期懲役。自白の信ぴょう性が高いとし、裁判長は以下のように話しました。

「実際に体験した者でなければ語ることのできない、具体的で迫真性に富んだ内容」(引用:Yahoo!ニュース)

無期懲役の求刑が言い渡されると勝又拓哉は呆然とし、納得がいかない様子で首を傾げ続けていました。弁護側はもちろん無罪を主張し、控訴しました。

勝又拓哉は控訴審でも無期懲役の判決

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2017年10月、東京高裁にて控訴審が開始します。控訴審において第一審の判決が覆ることは多くはありませんが、弁護団は続けて無罪を主張しました。

弁護側は自白と犯行状況の矛盾を指摘

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弁護側は、今回も法医学者2名を証人として出廷させています。

勝又拓哉が「女児の手足を縛り、右肩を支え、立たせたまま刺した」とした自白に対し、その体勢では刺殺が不可能であること、肩に圧迫の跡がないことを主張しました。

また、遺体に付いていた粘着テープから被害者、警察関係者、そして勝又拓哉とは違う第三者のDNAが発見されたと主張。勝又拓哉は冤罪であり、DNAの持ち主が犯人であると説明しました。

検察側は犯行日時や場所を大幅に広げる

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検察側は前述の「肩の圧迫痕」について、勝又拓哉は女児からすぐに手を離したために残らなかったと反論。DNAについては、鑑定前の指紋鑑定にて、第三者のDNAが紛れ込んだ可能性が高いとしました。

また、検察側は犯行の日時や場所を大幅に広げる請求をし、裁判長がそれを認めています。この請求は、現在の主張では有罪にすることが難しいと検察が判断した結果でした。

結果は一審の判決を破棄した上での無期懲役

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2018年8月、東京高等裁判所は一審の判決における犯行の日時、場所を事実誤認として破棄。検察が修正した情報を認め、その上で「総合的に判断すれば犯人だと認められる」とし、一審に続き無期懲役となりました。

争点であったDNAについて、裁判官は「それだけでは無実には繋がらない」と断じ、検察の主張通り、捜査の過程で紛れ込んだものであり、真犯人のものではないと結論付けました。

結果、弁護団はその日のうちに上告。勝又拓哉は判決を聞く間、驚いた様子で裁判長を凝視していました。

勝又拓哉は冤罪?その理由とは?

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この事件には冤罪説が多く唱えられています。何故、人々はそのような印象を持つのでしょうか。ここからは勝又拓哉の冤罪説、守る会の存在や世論についてご紹介します。

勝又拓哉冤罪説①新しいDNAの検出

控訴審の際、弁護側は遺体の頭部の粘着テープから新しいDNAを検出。これらが2人分以上あり、なおかつ粘着面に付いていたため、テープを扱った人間の物だと説明しました。

遺体から勝又拓哉のDNAが検出されていない

そしてそのDNAは勝又拓哉や捜査の関係者の物ではありませんでした。その上、勝又拓哉のDNAは結局検出されなかったのです。

そのため、第三者の存在が浮上。その人物こそが犯人かと、冤罪説が浮かび上がりました。

警察幹部のDNAが検出?

前述した通り2007年に第三者のDNAが検出され、それが栃木県警警察幹部の男性のものだったことが判明します。その男性は事件後、定年前にも関わらず退職。また、DNAは唾液から採取されたものでした。

何故警察幹部の唾液が遺体に付いていたのか?何故逃げるように退職したのか?これらの不可解さから、事件は警察幹部を庇うものであり勝又拓哉は冤罪、身代わりにされたのではないかと疑う人も多くいます。

勝又拓哉冤罪説②自白強制の可能性がある

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殺害を自供した勝又拓哉。しかし取り調べの適正さを問われると「殺してませんと繰り返すと、検事に怒鳴られ机を叩かれた」「その後パニックになり、自白を認める調書にサインをした」と発言します。

他にも「被害者を殺したと言うまで眠らせない」「被害者に50回詫びるまで食事は抜きだ」などと言われたと証言。

そこには「早く話して楽になりたい」と涙を流し「もう無理」と言いながら窓に突進するなど、常軌を逸した被告の姿が映っていました。

当時県警は不祥事が多く汚名返上を急いでいた?

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このやりとりを行ったのは当時の栃木県警。実は栃木県警は栃木リンチ殺人事件、後に冤罪が認められた足利事件などへの対応の不祥事が相次いでおり、世間からの批判が高まっていた時期でした。

後述しますが、栃木県警はこの時、霊能力者へ協力を仰ぐほど追い詰められていたのです。

どうにか汚名返上をと考え、焦った末に自白強要のような取り調べになったのではないか、という見方があります。特に台湾出身で口下手な勝又拓哉は、県警にとって格好のスケープゴートだったといえます。

勝又拓哉冤罪説③供述に矛盾がある

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勝又拓哉は、有希さんを遺棄現場である斜面で殺害したと供述していました。しかし、遺体は発見時既に死後硬直が進んでおり、その形が車の後部座席に寝かせていたと思われるものだったのです。

遺棄現場で殺害し、そのまま遺棄したのなら、斜面に沿った形に固まっていなければおかしいところです。

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また、犯行動機はわいせつ目的だとの供述でしたが、遺体にはその証拠となる体液などがまったく付着していなかったのです。

その不自然な状況に、控訴審はわいせつ行為の供述が虚言であるという判断で進みました。

勝又拓哉冤罪説④広島小1女子殺害事件との関連が噂されている

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広島小1女子殺害事件とは、栃木の事件の1ヶ月前に起きた事件です。同じく下校途中の7歳の女児の行方が分からなくなり、性的暴行ののち殺害。その類似性に、何か関連があるのではないかと噂が立ちました。

しかし、広島での事件では自称ペルー人の男性が逮捕。勝又拓哉は台湾出身ですが、結果、関連性はないということが証明されました。しかし、未だにこの2つの事件の関連性を疑う噂は留まりません。

「勝又拓哉さんを守る会」も発足している

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この事件を受け、現在「勝又拓哉さんを守る会」が作られ、活動中です。この会は今回の事件を勝又拓哉への冤罪として、無罪判決を求める署名運動等を行っています。

守る会は弁護士を講師とし、定期的に勉強会も開催。会員約100人で実際に遺棄現場を訪れ、人形を使い事件の状況と勝又拓哉の自白との矛盾点を説明するなどの機会も設けています。

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その訴えとしては、やはり勝又拓哉の自白が事実と不一致であること、証拠がないこと、犯人しか知らない秘密の暴露がないことなどが挙げられています。

この会には台湾出身である勝又拓哉の母親も参加。活動をしながら、最高裁での結審を待っています。

勝又拓哉冤罪説のネットの反応は?

冤罪説が多く唱えられるこの事件。やはり不自然でグレーな部分が多いだけに、ネット上では冤罪ではないのかという意見が目立ちます。

このように冤罪を疑う世論は勝又拓哉の印象、検察の杜撰な捜査、取り調べ時の録画が警察に都合のいい部分しか残されていない点などに疑問を抱いています。

多くの人が冤罪と疑うこの事件。勝又拓哉の結末はどのようになるのでしょうか。

実は勝又拓哉はイケメンだった?多くのイケメン犯罪者達

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実は勝又拓哉は逮捕当時からイケメンと呼ばれており、近所でもその整った顔立ちは有名でした。

そして、勝又拓哉以外の凶悪犯罪者の中にもイケメンと呼ばれる人物は多く見られます。ここではイケメンと評された犯罪者を3人、ご紹介します。

埼玉少女監禁事件の寺内樺風

2014年3月から2年間に渡った埼玉少女監禁事件の犯人である寺内樺風(かぶ)は、その切れ長の目、クールな顔立ちや経歴からイケメンと呼ばれ、ファンがつくほどでした。

ネット上では、同じくイケメンと呼ばれた、リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の市橋達也に似ているとの意見も見られます。

寺内はカリフォルニアのパイロット養成学校を卒業。小型航空機免許を取得しており、事件当時は難関である千葉大学の学生でした。また英語も堪能で、そのプロフィールにイケメンさを感じる女性も多くいます。

中学1年生の少女を誘拐し2年に渡って監禁するという非道さだったものの、Twitter上では「普通にイケメン」「次は私を誘拐してほしい」などと自身の顔を晒す女子まで現れ、不謹慎だと話題になりました。

また、卒業アルバムの写真が某スケート選手に似ていると話題になり、選手のファンが激怒するという一幕も。

しかし裁判の中で自身を『森の妖精』と称したり、今いる場所を問われると『トイレ』と答えるなど、一時しのぎの意味不明な発言で場を混乱させました。その情けない姿に、一部のファンは幻滅したといいます。

2つの凶悪殺人事件を起こした山地悠紀夫

2000年に17歳という若さで母親を殺害、その5年後には大阪姉妹殺害事件を起こしている山地悠紀夫。

山地が送検される際の映像が報道されると、その鋭い眼光と整った顔立ちに「イケメン」という単語がネットを飛び交いました。

中には「犯罪者の中で山地悠紀夫が一番かっこいい」「実況見分をしている姿が儚げで美しかった」とまで言う人もおり、また、中学生の頃の写真には「イケメンというより美少年」という声も。

そんなイケメン・山地には、彼を支えたいと思う女性ファンが多くいます。

彼の生い立ちに不安定な家庭環境やいじめがあったことを受け、その境遇に同情した女性たちが拘置所への差し入れを熱望したこともありました。

もちろん他人からの差し入れは許可されていませんが、女性たちの母性本能をくすぐりそのような現象を起こした山地は、当時非常にセンセーショナルな存在でした。

イケメンと呼ばれた山地悠紀夫。彼の関係している事件は、こちらの記事をご覧ください。

ジェレミー・ミークス

最後は海外から、日本では考えられないようなイケメン犯罪者をご紹介します。ジェレミー・ミークスという男性は元々ギャングであり、違法な銃販売など6件の罪によってFBIに逮捕された重犯罪者でした。

しかし逮捕により彼の顔写真が世に出ると一転、そのイケメンさに世間は驚き、なんと最終的にはファッションモデルにまでなってしまったのです。

しかも出所後2年半の間に、それまで支えてくれた妻を捨て、不倫の末イギリスアパレル界の超セレブ、クロエ・グリーンと交際し、逆玉の輿に乗っています。

グリーン家の総資産は5,000億円超。その娘と交際しているジェレミーの生活は、ポルシェを乗り回し、150億円のヨットでバカンスを楽しみ、五つ星ホテルに宿泊するなど悠々自適なものとなっています。

イケメンというだけで犯罪者から超セレブにまで転身してしまったジェレミー・ミークス。今後、彼がどうなっていくのか、全米が見守っています。

勝又拓哉の生い立ちや経歴は?

謎の多いこの事件。その容疑者である勝又拓哉は、どのよう育ってきたのでしょうか。ここでは、彼の幼少期から事件が起こるまでの半生を解説します。

勝又拓哉の生い立ち①台湾で生まれ祖父母と育つ

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勝又拓哉は1982年、台湾に生まれています。両親も台湾人ですが物心つく頃には両親は離婚。母親は美容学校へ通うために来日しており、0歳から12歳までは台湾の北部に位置する新北市で祖父母に育てられました。

イケメンと呼ばれるほど顔が整っていたため、台湾在住時には女子と交際、友達も沢山おり非常に充実した毎日を送っています。

しかし家庭については「台湾ではたらい回しにされていた」と語り、複雑であったと推察されます。

勝又拓哉の生い立ち②母親の再婚がきっかけで日本へ

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勝又拓哉は小学校6年生の時に母親の再婚をきっかけとして日本へ渡ります。再婚相手は連れ子である勝又拓哉を煙たがりましたが、母親の兄が勝又拓哉を連れて台湾から来日、そのまま居ついてしまったといいます。

そして1992年頃からは、なんと今回の事件の連れ去り現場付近に住んでいました。

勝又拓哉は母親とその再婚相手、そして連れ子である弟妹達と暮らしており、小学校も被害者と同じ、今市市立(現・日光市立)大沢小学校へ編入。そのため、今回の事件に関して土地勘もあったと言えます。

勝又拓哉の生い立ち③日本語が不自由でいじめにあっていた

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