八鹿高校事件とは?部落解放運動の中で起きた事件
八鹿高校事件、それは自分たちの安寧な生活を脅かす悪習と戦うために被差別部落の人々が立ち上がり起きた事件です。両者諍いの原因となる権利主張には不義な点はありませんでした。しかし、手段を誤ったのです。
八鹿高校事件の中でも取り立て奇特な点は、被害者となったのが正しい教育を志し、日々生徒らと向き合う一教師たちだったことです。彼らは被差別部落の人々に対して日ごろから激しく糾弾していたわけではありません。
背景には、同和地区への根深い差別の歴史もあり、当時中国で起きた運動が過激さに拍車をかけたと思われる事件です。また、八鹿高校事件では平等な世界こそ理想と信じ日々駆ける生徒達についても着目されます。
八鹿高校事件の概要
かの差別問題が報道され広く周知される礎ともなった事件である当八鹿高校事件。発生前から両者間には暗雲が立ち込めており、悲しき事にも当事者となった高校側でも幇助しあい集団登校など対策を取っていました。
それにも関わらず、解放同盟側の予想以上の強引さや人数の多さ、また周囲の非協力も相まって負傷者を出す騒ぎとなりました。半日近くも軟禁されていた教師たちは、一体どのような被害にあったのでしょうか。
部落解放同盟が八鹿高校を占拠
大きな影響を齎したかの燃料問題の脅威もすぎ、訪れる冬に備えつつも平穏が戻りつつある11月の世間。そんな世間の空気はいざ知らず、八鹿高校事件を予感させる小さな諍いなど、不吉なことが続きます。
また、同高校には、平和平等主義の世とはかけ離れた悪しき風習を蹴散らさんと発起した生徒により、見事設立された来歴を持つ解放研の生徒らが、明くる日を暗示するかのように一丸となりハンストを決行していました。
明くる日の朝、前途を案じる教師たちが決死の思いで、自らの職務を果たさんと勇敢にも登校します。しかし、悪い予感ほど当たるもので、学校は血気盛んな解放同盟諸君によって占領されていたのでした。
八鹿高校教職員が集団でリンチされる
予感する何かに怯え、不安な心を一つにしていた教師らの深い思慮すら追い付かず、備えもありながら不幸なことにも、いかなる理由か八鹿高校事件の発生を妨げることはできませんでした。一体何故でしょう。
答えは明瞭で解放同盟側による教師たちへの下校妨害があったからです。被害者となる約60名の暴行を受ける理由も罪もない冤罪人達は、恐ろしい私刑場の舞台となる同行体育館へと連行されていきます。
逆らう人には容赦なく暴力罵声を浴びせた解放同盟。八鹿高校事件において、加被が明確に別れ、司法が加を赦さなかった原因はこの暴力行為に他ならず、如何なる場でも暴力は許される事はありません。
被害例①服を脱がせる
被害者を受け八鹿高校事件の犠牲者となった女性教師の中には、まだ20代の若い教師もいました。無理やり連行され怯えている女性教師に解放同盟は文書の筆記を強要しますが、彼女は勇敢にも拒否しました。
しかし、その態度が気に入らなかったのか解放同盟は彼女を逃げられないように囲い込み、大勢で髪を引っ張るなどの暴力を加えます。挙句の果てには服を無理やり脱がそうとし、身体を触る性的暴力に発展しました。
被害例②道具を使い殴る
極度の緊張やストレスからか、身体に不調を来たした男性教師は、それを恐ろしい処刑人となった解放団体メンバーへ訴えます。しかし、それを聞いたメンバーはそら寝かすまいとして教師の顔を殴りつけるのでした。
その後も、甘えている、差別を受けた側が受けた苦痛はこの程度ではない、などと難癖をつけられ、眠らないようにか皮の薄い首などにたばこの火を押し付けられ火傷を負わされます。が、更にエスカレートします。
装具を着けた手で顎を強く殴打され、男性は無事救出されていますが、身体中に怪我を負っていたため入院を余儀なくされます。男は頑丈だと高を括ったのか、女性に比べ道具を使った非道な暴行が多々ありました。
八鹿高校事件の被害者は70名以上
慮外な場所を占領する手段により、八鹿高校事件の渦中となることを避けられなかった全ての人が怪我を負う被害者となりました。そのため、被害者数は70名近くにも上り、1/3の被害者が入院を余儀なくされました。
また、悲しくも約1/7名程度の被害者が加減を知らない乱暴を受けたことから後遺症を残す怪我を負っています。明確に目視できる被害でなくとも、八鹿高校事件による日常の心理状態への影響は大きかったでしょう。
八鹿高校事件には警察官が2000名以上出動
八鹿高校事件において、一番妙な動きをしていたのは警察勢力でしょう。犯人逮捕への投入人員総数はなんと2000人ほど。駐在している警官数とは天と地の差。しかし、全員が鎮圧に向かった訳ではありません。
去る数日前から、暗雲の立ち込める事件があったにも関わらず、警察側は早期に手を打ち解決しようとはしませんでした。理由としては共産党の存在があげられ、はて敵を同じくする者は同士と言う事だったのでしょうか。
正義の御旗の元に偽りの剣を振るい続けた解放同盟ですが、あえなく暴行や脅迫の罪で何度かに分けて逮捕されました。その2回目の時に導入された人数が2000人で、これで結果7名の逮捕というのですから驚きです。
八鹿高校事件の裁判と判決
被差別部落の人々が力を合わせ、復権を図った一斉一大の総力戦である八鹿高校事件。立派な鎧の中身は、閉じ込め詰る立派な犯罪行為だったのです。前章で述べた通り、計15名ほどが結果として逮捕され裁かれました。
逮捕された自らを正義と信じる勇猛果敢な解放同盟のメンバー。しかし、司法においては通用せず、全員に有罪判決が下されています。法規社会においては暴力はご法度。然るべき手段で権利主張することは最低条件です。
裁判中にもなかなか目を見張る展開があり、なんと被告たちの中には、搬送された怪我人の治療事実や証言があるというのにも関わらず、野蛮行為は事実無根であると不可解な証言をする者もいたのです。
八鹿高校事件裁判①一審で有罪判決
第一審では、どちらが悪いもない、両者が加害者であり去る学校側が生徒をないがしろにし差別撤廃を遠のけたていた、という意見も見られましたが、結果的には起訴された全員に有罪判決が下されています。
判決の争点はやはり、老若男女問わずただ勤めていたというだけの相手に対し、あまりにも非道が過ぎる仕打ちであったことが核でした。また、暴行を受けた諸君らの中には、骨折や意識不明になった人もいました。
解放同盟と謀り、悲しい事にクリアな人間などいないということなのか、八鹿高校解放研ら生徒たちにおいても、朝鮮出身の教師に対して蔑称で呼ぶなど、どっちらけな事実もありました。
八鹿高校事件裁判②控訴審で有罪
法の下での罪人となり、事件の有罪判決により悪行を償うこととなった解放同盟の実行犯たちは、当然判決が不服として控訴しました。しかし、そこで下された判決も一審と同じものでした。
また、判決が覆らなかったり罪状が軽くならなかった理由としては、やはりいくら正義をかざしても取った手段は悪そのものだったからです。しかし、一審よりも詳細な判決に関する理由が裁判所から提示されました。
それは、差別行為自体は憲法に反するものであり、人類が平等に暮らす権利侵害を象徴するものという内容でした。事件最中においては疾く感情を制御しきれなかった被告らですが、主張に誤り無しという事でしょう。
主犯の丸尾良昭に懲役3年、執行猶予4年の判決
道を誤り、正義の名を汚してしまった解放同盟。その中でも、主犯とされる男性には最も重い実刑判決が下されました。その主犯の男は八鹿高校事件において、差別へいざ立ち向かわんと一番に鬨を上げたのです。
しかし、力ある者として同じ被差別部落の人々の奮起を促した丸尾には、様々な影が付きまとっていました。それは、自分が被差別地域の出身であることを笠に着て、自分のわがままを通しているというものでした。
この、悪習の餌食となった丸尾については、人柄や周囲との衝突などまで掘り下げ、事件前まで遡り詳しく紹介します。かくして、主犯以下被告人らには、1~3年の実刑と執行猶予が付けられたのでした。
損害賠償請求では丸尾良昭らに約3000万の請求
かかる裁判で罪の重さを決定付けたのは、やはり疑問視されている教師たちへの加害、そこへ持ってきて過剰な力で押さえつけたことが一番の問題点であることには違いなく、事件が与えた損害は絶大です。
罪が発生すれば、付随して罰が与えられるのが摂理。もちろん事件の犠牲者からは償いを求める争いの場が民事によって設けられ、神戸地裁の判決によって、加害者団体に対して3,000万円の支払いが決定されました。
八鹿高校事件の背景①部落解放運動の気運が高まる
傷ましい犠牲者を出しながら、現代にまで残る軋轢を刻んだ八鹿高校事件。しかし、片方の熾烈な騒ぎ立てのみで斯様な大規模事件に発展するでしょうか。もちろん、その背景には両者の諍いがありました。
自らの地位を明徴にせんと集い、革命ともいえる運動を起こした壮烈な人々の拠点となる団体が作られ、また、幸か不幸か、同士たちの不当な扱いを如何せんと生徒が立ち上がった部落研の出現も同時期です。
生徒諸君を清く正しいとされる正道へ導き、友らと青春を語らう場であるはずの学舎が、大規模抗争すら予見されるような暴力による主張と肝とした八鹿高校事件の舞台となってしまったきっかけでもあります。
但馬地方で部落解放同盟支部が結成
事件発生の追い風にもなった、差別解消を目的とする団体の発足も同時期であり、世間はそうした向かい風を受ける人々よ奮起せよと言った空気感に満ち満ちていました。八鹿高校があった関西地域では特に顕著でした。
しかし、新しい空気を通すことにアレルギー的反発を起こす保守派の人々も多く、素直に平等を賛美できる「歓迎ムード」とはいきませんでした。そうした行動をバッシングする勢力もあり、両者は対立を深めます。
八鹿高校事件の近くでYH結婚差別事件が発生
かくして、弱き立場であった人々の怒りを決定付けた、関連した事件で人死ににまで発展するある大事件が発生してしまいます。部落問題を語る上でしばしば登場する両者間での結婚の可否問題を基盤とする事件です。
これは、望まずとも被差別部落に生まれ育った女性と、他地域に暮らす県内で高い地位を持つ父親に育てられた由緒あるとされる男性の間での結婚が、それぞれの生まれを理由としてあきらめるよう諭された事件です。
父親が放った「差別撤廃は建前」とも取れるデリケートな発言が非常に問題視されました。この結婚差別事件と時期と理由を同じくして、愛する2人が引き裂かれ、悲恋を理由に飛び出した娘が死亡する事件も起きました。
八鹿高校の部落出身生徒が部落解放研究会の設置を申請
自分と同年代の善良な若者たちが不当な扱いを受け傷ついているのを見て、居ても立っても居られないのが正義に燃える青い心を持つ学徒たちでした。彼らは果敢には大人に一矢報いるため、団結の意志を示したのです。
彼らが提示した武器は、学内に部落差別撤廃を真剣に考察する解放研究会の設立です。しかし、この研究会の背景には学校の支配を抜け外部組織である解放同盟のアシストを受け活動拠点とすることが示されていました。
八鹿高校事件の背景②部落解放研究会と教職員が対立
そんな一文を受けて勿論、学校側もはいそうですかと通す訳にはいきません。しかし、彼らのバックには強大な大人の力があります。ここでも学校側は激しい糾弾の末、主義を曲げることを余儀なくされてしまったのです。
お互いの正義を信じる者同士が対峙すれば、争いが起きてしまうのは自然の摂理。しかし、同じ学舎で互いを尊び、互いから学び学ばれ良い関係を築いていくはずの教育陣と生徒陣が幾度となく対立するのは悲しい事です。
この一件については、部外者である団体が横槍を入れてきたことにより、更に事態を深刻にしたことは疑いようのない事実です。第三者の介入により事態が鎮静化することもありますが、その境界を見極めるのは困難です。
八鹿高校で部落解放研究会の設置が拒否される
外部組織のバックアップを受けて活動する研究会は、もはや生徒の自主性を尊重し協調性を養う事を目的とした部活動で定義された域を軽々と逸脱していました。そのため、学校側は断固拒否の姿勢を崩しません。
また、解放研究会の設立が頑なに認められなかった背景には、なんと名前を同じくする公認の同研究会が存在していたからです。そちらは、生徒たち自らの力で地域に根付く問題を払拭しようと発足した正当な物でした。
ここで両者が穏便に場を収めることができていれば、事件名が付くほど大規模な占領暴行事件に発展することもなかったかもしれません。しかし、悲しいことにそう都合よく事は運ばないのがこの世の摂理です。
長時間の糾弾で疲弊した八鹿高校校長が認可
活動拠点を増やせなければ困る、とでも言わんばかりに、研究会設立の否決を受け解放同盟は浸食の一歩を踏み出します。彼らは生徒らを取り込み、学校上層部へ直訴しに乗り込みます。ここでの手段も荒っぽい物でした。
彼らは人の精神が疲弊するには十分な長い時間が必要だと心得ており、学校上層部の人員を拘束します。ここでは物理的な拘束を指すのではなく、大人数で取り囲み心理的に逃げられなくする手段を取りました。
精力尽き、強固な意志を持ち続けることが困難になった同校の校長、以下教頭には、彼らの訴えを退け続けるだけの気力は残されていませんでした。かくして、職員らと決定した設立の否決は覆ることとなったのです。
八鹿高校一般教員は認可に反発
解放同盟の強烈な攻めによりパッシブな状態に否応なくならざるを得なかった学校上層部。しかし、直接の被害を受けずした他教員たちの頭には疑問符が浮かびます。会議で否決を決めたのだから当然です。
そのような団体を校内に設置しておいては、どんなトラブルを呼び起こすかわかりません。そのため、他教員たちは上層部に今一度考えなおすよう訴求します。しかし、そんな態度を同盟側が見逃すはずはありません。