教員たちの当然の主張に対して、同盟側はそれを自分たちに対する嫌がらせ、出身による区別、つまり差別に値するとして反発しました。しかし、強行により設立された研究会にははてさて他地域出身の生徒もいた様です。
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差別された部落出身者
さて、八鹿高校事件ではきっかけとなった具体的な差別事件がありましたが、日本には残念ながら古来より不当な扱いを受けてきた人々がることは事実。読者諸君も、学校の授業などで耳にしたことはあると思います。
彼らは何故差別されるに至ったのか、また、他地域との明確な違いなどはあったのか。この章では少し寄り道をして、根深い風習である被差別問題について紹介します。今一度、問題に目を向ける足掛けとなれば幸いです。
差別のきっかけ①生まれた地域
生物がこの世に生を受ける場所。これについては、如何なる種族の生物であろうと意思決定を反映することができない不可逆な問題です。そのため、当然生まれによる貧富の差は依然として存在します。
その貧富の格差問題については、実はほぼ自然的に発生するものなのです。つまり、貧しい地域に生まれた者はその環境から逃れることは難しく、住居環境の悪さから同じ財政状況の人たちが移り住みより深まるからです。
そうして、住環境も悪く、また、十分な身銭がないため教育も難しい地域で育った子供たちが増えていきます。そのため、「あの地域と関わるのは避けた方がよい」という考えが広まり、被差別部落が生まれるのです。
差別のきっかけ②職業の貴賎
日本における被差別部落問題は非常に根深く、さかのぼると遥か古来の鎌倉時代にもその記述を見ることができます。なぜ斯様な昔からかというと、血が絡む事柄は穢れである、として忌避されていたからなのでした。
そのため、生理現象である女性の月経についても驚くことに穢れとされ、中には生理の間は小屋を建てそこへ月経中の女性を集め隔離した、などという逸話も残っています。それほど当時は根深い考えだったのです。
故に、動物を殺生する食肉や革製品に携わる人々は、必要な存在であるにもかかわらず差別されました。存在すら忌避され、外部との交流は持ちません。当時の身分制度については、以下の記事で詳しく紹介しています。
八鹿高校事件の主犯・丸尾良昭の人物像
地域を巻き込み、生徒を巻き込み、果ては世間にまで傷跡を残した主犯格の男。被差別部落民にとっては英雄、その他の地域の人々から見ると、狂暴で暴力的な面を持つ危険な人物とも感じられるかもしれません。
彼に付きまとう被差別部落出身という不名誉な烙印は、煩わしいことこの上なかったと思われます。そのため、まだ幼い10代前半のころから、強い主張によって我を通したエピソードには事欠きません。
彼は時代や地域の被害者なのか、それとも立場を笠に着た暴行犯人なのか。その判断は難しく、また、彼の立場からという理由だけでなくとも日ごろの言動についても分別を難しくさせる事件が起こっているのでした。
八鹿高校事件の主犯・丸尾良昭は被差別部落出身
変わらぬ人間であるにも関わらず、何故扱いや権利に差が出るのか。被差別の立場にあった人々はみな同じ憤りを抱えていたことでしょう。もちろん、そんな現状を打破すべく立ち上がった丸尾も同じ立場でした。
彼の中での出自に関わる問題は、非常に大きな障壁であったようです。それを揶揄するような発言には敏感に反応し、相手とぶつかることもしばしば。そんなコンプレックスを抱える心はボロボロだったでしょう。
また、彼がそれを意識する根底には、同地域出身の人々の暮らしぶりがありました。貧しいから、汚いから、などの理由ではなく、向上心なく目先の欲望に雁字搦めにされた姿に言い知れぬ反発を抱いていた様です。
部落解放同盟を悪用していたという噂も
被差別問題は、差別する側される側、両者がいなければ成立し得ない問題です。いつの時代においても、差別する側は自分は正しいんだと心を騙し、罪悪感を感じて生活していたことでしょう。
しかし、丸尾はそんな人々の罪悪感を悪用し、さも自分が被差別立場の代表だとでも言わんばかりに言論を振りかざします。残念な事には証拠として、勤め先での数々の問題行動についての記述が残されているのでした。
自転車屋において部品を脅し取るような脅迫行為、勤め先で喧嘩になった相手の言葉尻を捕らえ、売り言葉に買い言葉程度の悪口を差別発言と糾弾。さらには、町会での主事の発言を曲解し責め立てるなどしていた様です。
八鹿高校事件後のマスコミと世間
デモンストレーションを起こすでもなく、決起会を開くでもなく、学校を占拠した上に武力を行使し自分らの意見を誇示しようとした、中々前代未聞な事件ですが、なぜかマスコミは飛びつくでもなく静観していました。
その背景には、当時の差別問題報道に関するデリケートな取り扱いが要求されたことがありました。端的に言ってしまうと、注目を引く”オイシイネタ”ではあったが、扱いが難しかったため腫れ物扱いしたのです。
しかし、そうした各所マスコミに対して、事件を知る人々からは熱烈なレスポンスがありました。まるで、保身に走らず報道機関の務めを果たさない彼らに発破をかけるかのようでした。
部落解放同盟の「暴力なかった」という主張を『社会新報』も報じる
現在も名を変え存続している政党が、まず解放同盟側の意見を平易に汲み取り、事実と反する内容を機関紙に掲載しました。裁判でのトンデモ証言とも共通する、力での制圧は行っていないとの内容です。
しかし、こちらについては読者皆さんも周知の通り真っ赤な嘘です。さすがにそれが事実だということは通らないとわかっていたのか、後に別県の解放同盟が事実調査をし、加害があったことを認めています。
八鹿高校事件後に部落解放同盟を批判する立場も
各所マスメディアによって、このショッキングな事件が世間の知るところとなれば批判が集まるのはやむを得ない事由であると言えます。もちろんその定理に漏れず、事件報道後は武力行使に出た同盟が批判されました。
日本各地に部落差別問題が散見されていたこともあり、当事者とその他の人々には溝があったのでしょうか。主張の正当さよりも、結果的には、同盟側のその暴虐な違法行為に注目が集まることとなるのでした。
人に何かを訴えるときに有力なことを紹介している人や書籍の存在は多々ありますが、その中でも暴力や暴言など相手の恐怖心を煽る方法を推奨していることはほぼ無いでしょう。正当なステップは非常に重要なのです。
朝日新聞は全く報じず抗議の電話殺到
全国各地に拠点を構え、多大な影響力を持っている朝日新聞は中でも非常にアクションが遅く、新聞読者の批判を買いました。このような重大事件を秘匿するのは、マスコミのあるべき姿とはかけ離れています。
当時の新聞読者も同じように感じており、朝日新聞社には当時としては異例な500件を上回るような声が届きます。中には一日を通して苦情や抗議の生の声が届いたこともあり、新聞社はたいそう驚いたようです。
事件から5日たった後ようやく重い腰を上げますが、記事の内容は事実無根な杜撰なものでした。事件から10年後には夕刊にて特集を設け、当時の報道姿勢は圧力ではなくあくまで「自主規制」であると説明しています。
八鹿高等学校生徒自治会は独自で報じた
そんな大人事情の報道自粛はいざ知らず、解放同盟の傍若無人な振る舞いは事実であると果敢にも声を上げた報道紙がありました。それはなんと、悲劇の舞台となった八鹿高校の生徒会たちでした。
八鹿高校事件がいかに理不尽な行いで、自分たちの身内が傷ついたのかを鮮明に記した会報誌は2編にわたって刊行されました。大人の煮え切らぬ態度にしびれを切らした生徒諸君が、自らの手で真実を知らしめたのです。
八鹿高校事件は仕組まれていた?政治利用された?
様々な事件で囁かれる陰謀論ですが、八鹿高校事件にももちろんポリティクスな操作があったのではないかという疑いがかけられています。では、この事件が発生することによって益を上げるのは誰なのだろうか。
その答えは、ずばり共産党です。当時の共産党は、全国に広まりつつある平等たれとする同和教育について批判的な目を持っていました。その陰には、解放同盟との間にある厚い壁の存在があります。
八鹿高校事件の裁判においても、共産党の意志介在があったことは、なんと明確であったとわざわざ触れられるほどに周知の事実でした。事件先日からの学校側の対応も、共産党の支持の元ではないかとされています。
八鹿高校事件と丸尾良昭のその後
政党をも巻き込んだこの大騒動も、判決の小槌の音と共に一旦の幕引きとなりました。しかし、関わった人々、事件を知った人々の心に強いインパクトを与えたことは純然たる真実でしょう。
では、そんな変化を余儀なくされた関係者たちは、事件の終息後どのような道を歩むこととなったのでしょうか。また、意図の有無に関さず渦中となった団体の存続は成ったのでしょうか。
事件の主要登場機関である共産党、八鹿高校、そして必然的に人生を大きく変えることとなった加害者・被害者の両者の先行き、そして世間へ出された一冊の冊子について知っていただきたく思います。
『部落地名総鑑』が発行される
八鹿高校事件における負の側面である暴力面を取り沙汰し、事件外の人々に強い差別意識を植え付けることが目的かのような衝撃的な書籍が4冊ほど、各出版社から刊行されて世間の注目を浴びました。
中には各企業への購入を促し、人事採用の場における有効資料として推奨している物までありました。事件原因の解放同盟に対する擁護は難しいですが、決してそうした地域に暮らす人々全てが危険な人物ではありません。
中には被差別部落とされてる地域がズラリと列挙されており、書籍を読み感化された人達の批判運動が懸念されました。しかし、幸いにもそういった追い出し活動は起こりませんでした。
八鹿高校事件の入学率は著しく減少
いくら主犯らが逮捕されたとはいえ、その安寧がいつまでも続くだろうと考えるほど、地域住民の人々は楽観的ではなかったようです。八鹿高校は2つの科に分かれていましたが、悪いことにそこには格差がありました。
普通科の生徒は、今でいう選ばれたエリートであり、職業科は大学にも行けず、高等な教育を受けることが出来ない、未来の閉ざされた負け組とする風潮です。学び舎を共にする仲間とは思えない酷い仕打ちです。
やはり事件発生の影響は大きかったようで、徐々に入学を希望する生徒数は減少していきます。事件から40年以上たった今でも影響は大きく、生徒数は事件当時の1/2にあたる650人ほどに減少しています。
丸尾良昭はNPO法人「部落解放・人権ネット南但地協」代表者に
自らの罪を償い、再び市井に舞い戻った丸尾はある団体を設立します。また、世間から批判を浴びるきっかけとなった人物の籍を許すことができなかったのか、当初所属していた解放同盟からは追放されています。
現在でも、被差別という耐えがたい人権侵害を受ける人々のために訴えを続けている丸尾。次こそは、道を誤らずに正しいやり方で世間の不条理にメスを入れていくだろうことを祈るばかりです。
八鹿高校事件被害者教員が「養父不当捜査事件」で任意聴取
また、甚大な被害を受けた元八鹿高校の教師陣ですが、その中で警察によるもみ消しや圧をかけるようにして嫌疑をかけられた上、非合理な方法で監視ともとれるような捜査をされている人物がいます。
彼らは時を経て政界入りを目指し、養父市の市議選挙へと名乗りをあげます。しかし、その中で有権者である元八鹿高校生徒へ送った手紙の内容に、かの事件を思い起こさせるような文章を書きました。
それに対して、当時は静観を決め込んでいた警察陣営が素早く飛びつきます。その保身隠蔽に走るような動きに、選挙区民の人々は反発の声を上げます。正常な捜査からはかけ離れたやり口に批判を浴びたのでした。
いまもなお残る差別問題
差別問題は、何も被差別部落のようにまとまった人々が一斉に被害を受けるケースだけではありません。中には、狭い村社会ゆえに発生する村八分と呼ばれる忌むべき悪習が残る地域も驚くことにあるのです。
2013年に山口県において発生した、Uターンしてきた男性をターゲットとした悲しい差別事件をきっかけとした放火事件は、印象深い犯人の語句もあり、多くの人の記憶に刻まれているのではないでしょうか。
また、過去には村八分にされていた男性が起こした事件もあります。被害者はまだ13歳にも関わらず、村八分にされていた加害男性に差別意識を持っていたのでした。事件については以下の記事で詳しく紹介しています。
八鹿高校事件は同和問題を語る上でも忘れてはいけない事件
どこか遠い過去のように感じられ、身近にそうした地域がない人にとってはなんとなく他人事のように感じられてしまう被差別部落問題。現在では同和問題ともいわれ、度々論争の主題に上がっています。
そうした人々が抱える辛さは、他所の人間が推し量ることは到底不可能でしょう。互いに歩み寄り、決して暴力に訴えない方法で、遠くない未来に全ての人が平等に暮らす世の中へと変わっていけることが理想です。