乙羽信子の死因や代表作を紹介!宝塚の経歴と映画監督の夫と子供も!

夫婦喧嘩が絶えないながらも、本当の愛とは何かを視聴者に教えてくれるような、夫婦像を提供しました。

基本的に切迫したシリアスな役が多い乙羽信子さんが、ここでは親近感の湧く、感情豊かな女性を表現していて、演技の幅の広さをうかがわせていました。

乙羽信子の代表ドラマ②1980年「遠くはなれて子守唄」

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絶大でカリスマ的な人気を誇っていた西城秀樹さんが、俳優へトライしていった時期のドラマです。

ヒデキさんの母役を受け持ったのが乙羽信子さんで、センシティブな心のフローや変化をすばらしい手腕で魅せています。

母の思う、息子の成長に対する寂しや不安は、見る者の共感を呼び、乙羽信子さんを見守るような温かい目でテレビジョンに釘付けになった方々も少なくありませんでした。

乙羽信子の代表ドラマ③1981年~1982年「女たちの海峡」

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当時すでに60歳にさしかかろうとしていた時期にも関わらず、フラメンコの踊り手という身体的にハードな配役に抜擢されました。

裏側では、年を経ているにもかかわらず、一日10時間以上もプラクティスを重ねるという、大変な努力をされていました。

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やはり、無理がたたったのか、疲労骨折まで起こしてしまいました。役者に対する、なみなみならぬ情熱を感じる姿に、視聴者は舌を巻きました。

練習相手の方がもうやりたくないと思うほど、稽古かさねるようなバイタリティをもっているという話を聞くこともあります。

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かかとが使い物にならなくなるまで、フラメンコの練習をする時もあって、その情熱はどこから生まれてくるのか興味を持たれた方もたくさんいました。

物語自体は、実の血のつながった母を探す娘に、恋心を抱いてしまう義弟のという禁断の愛を描いたものです。生まれの秘密を抱えたまま、心が揺れ動く女心を描いている作品です。

育ての母親役にミヤコ蝶々さんを起用し、実の母親役に乙羽信子さんとなっており、娘はスペインに母を探しに旅立つという展開になっています。

乙羽信子の代表ドラマ④1981年~1985年「サザエさん」

国民的漫画としても、知れ渡っていますが、実は幾度か実写化もされていて、乙羽信子さんがナミヘイを夫に持つフネ役で出演したこともありました。

ナミヘイには、小林亜聖さんが起用されて厳格な父親像にぴったりでした。現代の若い方も大半の方は知っていると思いますので、まずはこちらから拝見してみるのも良いかもしれません。

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官能的な役を演じてた一方で、優しく温かさが滲み出る母親役まで演じる乙羽信子さんは幾人かの女優を目指す人たちの憧れでもありました。

この頃には、巷でも乙羽信子さんが素敵な母親としてのイメージが広く浸透していったころでもありました。

乙羽信子の代表ドラマ⑤1983年~1984年「おしん」

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エヌ・エッチ・ケーにおいて、もっとも大盛況だったドラマと言えば、真っ先ににあがる作品です。

今では、世界各国でも人気を博している、日本の当時の背景をも窺える文化的にも重要なドラマとなっております。

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主人公のおしんは、生い立ちから育っていくにつれて、違う女優さんが段階を経て演じてきました。乙羽信子さんの担当は、年齢的にも晩年にあたる時期を受け持ちました。

どこの時期も大役ではありますが、人生の締めくくりの時期にあたる部分を、素晴らしい演技で人々に魅せて、世間は大女優の力を再確認するに至りました。

乙羽信子の代表ドラマ⑥1987年~1990年「浅見光彦ミステリー」

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近年だと、沢村一樹氏や中村俊輔などイケメンと言われる人が全シリーズにおいて主役をはっていた、内田康夫氏作の浅見光彦シリーズにも登場しました。

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昔から名俳優で老いてますます勢いが増している「相棒」が当たり役の水谷豊さんが主演の時に、母親役をしました。

浅見光彦作品のファンの方々からは、乙羽信子さんの母役がはまりすぎていると評判でした。

表立っては、光彦に棘のあるいやらしい接し方をするのでが、裏では力強く支えたり、尽力してくれる、人々がうらやむような母親像をのぞかせてくれました。

乙羽信子の生い立ちは?どんな性格だったの?

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世に名を残し、内外ともに羨望の的であった大女優として君臨した、乙羽信子さんとはいったいどのような生い立ちを持っているのでしょうか。

ここでより詳しく、どのような経歴を重ねて、絶えず輝いていたのについて述べていきます。また、子供のころから宝塚に興味を抱いていたのは環境が起因しているようです。

乙羽信子の生い立ち①大阪育ちで神戸市の饅頭屋の養女になる

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生い立ちは、鳥取県の昔でいう西伯郡米子町で24年の10月に生を受け、星座はてんびん座です。補足すると現在は、町ではなく米子市となっているエリアです。そこから養女になり大阪に移りました。

養女というと、辛く厳しい生い立ちをご想像された方もいるのではないでしょうか。

乙羽信子の生い立ち②小学校時代から日本舞踊を習っていた

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後のアクトレスの経験の糧にもおおいになっているようにうかがえますが、幼少期から日本舞踊に触れていました。

当時、そのような習い事ができることからも、生い立ちてきには生活に余裕のある環境で育ったように見受けられます。

乙羽信子の生い立ち③1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学

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大阪に移ってからは、当時の育ての父の姉にあたる人物に連れられて、宝塚に赴いていたようです。

そこで、華やかなステージで人々を魅了する女性たちに目を輝かせて憧れるようになり、いつしか自身もこの世界へと思うようになりました。

年ごろになると、宝塚音楽歌劇学校に挑戦をして夢の第一段階が入学が叶うことになりました。

乙羽信子の生い立ち④初舞台は『宝塚花物語』その後トップ娘役に

初舞台を経て、その清楚な出で立ちもあってか、娘役として存在感が増していきました。

良くしてくれる人にも恵まれていたようで、退団後には後押しして陰ながら応援していた方にも恵まれました。乙羽信子さんの人柄は周囲の人をも魅了していたのかもしれません。

乙羽信子の宝塚時代の代表作・同期は誰?

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27期生は、一度は名前を聞いたことがある方も多いかもしれません。

越路吹雪さん、月丘夢路さんを初め、瑠璃豊美さん、東郷晴子さん、大路三千緒さん、浦島千歌子さんなどスター揃いで、輝かしい経歴を持った人が多くいました。

特に越路吹雪(こしじ ふぶき)さんは、当時の男役のトップスターとして絶大な人気を誇り、「シャンソンの女王」と呼ばれて人々から敬われてました。

圧倒的な歌唱力と表現力とルックスを武器に、当時の宝塚ファンは虜になっていました。

乙羽信子の生い立ち⑤「雨月物語/キュウバ/人魚姫」を最後に退団

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ラストの舞台となった、「雨月物語」と「キュウバ」と「人魚姫」の3種の作品からなるもので、宝塚での経歴の集大成的な作品になったかもしれません。

それぞれ違った雰囲気や趣向がありますので、演じての技量が問われる演目とも言えます。後年、多種多様な役をこなしていった、乙羽信子さんに相応しい締めだったかもしれません。

そして、さらなる躍進のため、次のステージを大映に移しました。今となっては、この決断は英断だったと誰もが言い切れるでしょう。

乙羽信子の結婚生活は?子供はいるの?

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芸能人の私生活に好奇心を抱いてしまう方も少なくないと思います。ここでは、夫妻のなれそめの感じや、結婚生活についてクローズアップしていきます。

また、お子さんがいるのかについても気になる方もいると思いますので、そちらについても触れていきます。

乙羽信子の夫は映画監督の新藤兼人

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夫は再三述べてきていますが、新藤兼人氏であり、ある意味二人の経歴は、乙羽信子さんがスターとしての輝きが増す程、夫兼人氏も巨匠としてより大きくなっていったようにも見えます。

「愛妻物語」をキッカケに知り合う

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直接的なきっかけとなったのは、1951年に公開された「愛妻物語」がきっかけだったと言われています。

ある意味、夫と妻に関する作品を機に、時を経て交際まで発展して、結婚に至るなんて、ぱっと見ではとてもロマンチックなことではないでしょうか。

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