食事には必ず生命の死が関わってきますが、当時はまだそういった理解は浅く、この認識のなさが彼らの職業が忌み嫌われていくのを助長したとも考えられるでしょう。
えたひにんが差別されたのは宗教の理由?
中国から伝来した仏教も、この差別を助長する要因となってしまったという説があります。仏教には『因果応報(自分の行いは自分に返ってくる)』を説く教えがあります。
この教えの意味を取り違えて、“殺生に関われば不運が付きまとう”“前世での行いが悪かったから、今世で賤民になった。諦める他はない”と言われることもあったようです。
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えたひにんの多い地域とは?
前述でご紹介したとおり、えたひにんは決められた場所でしか生活が出来ませんでした。彼らが追いやられた地は、現在で言うとどのあたりなのでしょうか?
えたひにんの多い地域は西日本に集中していた?
彼らの多くは、日本の西部で生活をしていたようです。1982年に行われた部落地域数の調査では、関東地方609、中部地方345、近畿地方1004、中国地方1061、四国地方676、九州868と、数値からも偏りが分かります。
しかし、人口と規模は地域ごとに異なりますので、部落地域数がすべてという訳ではありません。
えたひにんの多い地域①福岡県
えたひにんの人口が一番多かったのは、福岡県でした。江戸時代、福岡藩は「革多役」として皮革の上納を命じられ、皮なめしを得意とする北海道・蝦夷からえたひにんを招集しました。
また、九州北部に分布する社寺を清潔に保つための清掃員が必要でした。この人員確保のためにも、全国各地からえたひにんが呼び寄せられたとされます。
えたひにんの多い地域②広島県
毛利輝元は広島城を築城した際に、城下町に皮革技術者たちを集め住まわせました。彼らは皮革の確保と、治安対策のための警備の仕事を与えられたとされます。
また、大日本帝国憲法が発布された1889年には、広島県では軍港が開港されたとされます。この地域の住民は、海軍が必要とする物資を用意する仕事が与えられ、その中に食肉の製造が含まれており、えたひにんが呼び寄せられ生活していたと考えられます。
えたひにんの多い地域③愛媛県
四国の中で、一番えたひにんの人口と部落地域数が多かったとされるのが愛媛県です。かつてこの地域では、瀬戸内海の管理を行うために水軍が配置されていました。
その水軍の多くがえたひにんであったため、海岸部に部落地域が多かったという説があります。
また、この地域のえたひにんは「藤」という漢字を含む苗字が多かったとされます。これは、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の氏が、「藤原」であることが由来していると言われています。
えたひにんの多い地域④京都
明確な身分とされていたわけではありませんが、平安時代から乞食などの人々はひにんと呼ばれていました。
かつて日本の首都であった京は、清潔に保つ必要がありひにんの人々に都を清掃する仕事を与えていました。社寺を清掃する者がひにん、死牛馬を処理する者がえたとして分岐していったと考えられます。
京都にえたひにんが多かった理由としては、日本で一番上位である天皇との明暗をより明確にするためだったのではないか、と言われています。人々が集まる場所でもあり、貴族が所望する皮革製品を作ったり、警備や清掃などを行うために集め、生活をさせていたとされます。
えたひにんは人口の割合で見ると少ない?
江戸時代の身分ごとの人口の割合は、農業や商業などを生業とする平民が、全体の約90%を占めていたとされます。貴族や武士も別で存在し、えたひにんの割合は約2%しかありませんでした。
ただ地域によって割合が変動し、東北・東海地方では1%代ですが、近畿・中国四国・九州地方では3~4%となっていたようです。
世界的な身分制度による差別
身分制度による差別といえば、「カースト制度」を思い浮かべる人も多いでしょう。日本でも平安時代からすでに卑しいとされる人々への差別があったとされますが、このカースト制度は紀元前13世紀に、その存在が確認されています。