三河島事故とは国鉄戦後五大事故の1つ
皆さんは『三河島事故』という惨烈な事件、カタストロフィをご存じでしょうか?第二次世界大戦の後、昭和初期にかけてから日本は、アメリカのマッカーサー率いるGHQのもと、高度経済成長期を迎えました。
その過程の中で、戦争を敗戦した影響などにより国家を揺るがすほどの『大赤字』を抱えていた、それまでの国営の日本鉄道は新たな『国鉄』という機関に生まれ変わりました。
そして急速に鉄道事業、運送業などが盛んになって、国民、民家人が利用する機会が増えていきましたが、まだ線路、電線などがきちんと整備されていなかったのか『脱線』などの不慮の出来事が相次ぎました。
なかでも膨大な『犠牲者』だして惨烈なカタストロフィを招いてしまったの出来事を『5大』と称しており、その一つが今回クローズアップしていく『三河島事故』という『脱線』が招いた、惨劇になります。
どれくらいの規模、すなわちどれくらいの『犠牲者』を出してしまったのか?またスピリチュアルな側面からは『心霊』との関係とは?そして一体何が原因で引き起こされてしまったのか?
第二次世界大戦、終戦後であり世界は米ソ冷戦時代、日本では多くの文化が入り乱れて、経済、社会が急成長を遂げることになった昭和の良き時代に起きた、『三河島事故』を徹底的に掘り下げてご紹介します。
三河島事故の概要と裁判とその後
恐らく読者の多くは『三河島事故』という、日本で起きた凄惨なエピソードをよく知らないのではないでしょうか?それは若い世代の方であればその時まだ生まれていないからです。
また数回に渡る『脱線』で痛ましい惨劇を引き起こしてしまった鉄道会社は、令和元年となった現在ではとっくに無くなってしまっているのです。
無くなったとはいっても潰れたわけでも倒産したわけでもないのでかなり語弊があります。正確には今では形を変えて、国営から民営化されて『JR』を始めとした各民営鉄道企業に事業が移されたのです。
現在では緻密に設計された線路、機体などの設備、安全に徹底配慮したシステム、マニュアルが当たり前に浸透しているため、目立った惨事などがありません。
しかし昭和という2つ元号が前の過去の時代には、国鉄という日本全土の国営鉄道会社が幾度も『脱線』などの原因により不祥事を繰りかえして、トータルすれば軽く数千人は超えるほどの犠牲者を出しています。
まずはその国鉄5大事故の1つである、惨烈なカタストロフィとなった『三河島事故』がどのような出来事、どのような出来事であったかよく理解していただくためにも、『概要』について分かり易くお話しします。
三河島事故①1962年東京都荒川区で発生
2019年(令和元年)現在から57年も前の昭和37年、5月3日春先に日本全土を震撼させた、惨烈なカタストロフィとなった『三河島事故』が度重なる『脱線』により引き起こされてしまいました。
悲劇の舞台となったのは日本の中心、首都である大都会『東京都』の23区の一つ『荒川区』です。台東区や足立区などが隣接しています。
その荒川区内に2019年現在でも存在する常磐線が走る『三河島駅』が、実際の現場から500メートルも離れていない場所にありました。
膨大な規模、犠牲者を生んでしまった凄惨な出来事の『三河島事故』ですが、そもそもなぜ悲劇が起きてしまったのか?またなぜそれほどまでに人の命が失われてしまったのか?
それについては後程詳しくお話しさせていただきますが、前提としてその当時の時代背景などを、下記にまとめて簡単に解説していきます。
事件発生当時は地震でダイヤが乱れていた
『三河島事故』という重大なカタストロフィが起きてしまったその日。実は同日の数時間前の朝方には、侮れないほどの『地震』が同じ本州の北に位置する『東北地方』で発生していました。
その影響により線路、電線、レールなどの設備に欠陥が生まれてしまった。という直接的な原因となるわけではありません。
その当時の鉄道システムの不完全さと『地震』による運行計画、運転状況が通常通りではなく、潤滑に機能せずトラブルが相次ぎました。
それが間接的に作用して、より被害を膨大なものにしてしまったと考えられているのです。
では具体的にどのように影響を及ぼしてしまったのかは、後程解説する『三河島事故』の概要、全貌で随時明らかになるはずです。
夜の運行で逃げ場もなかった
地震が起きてしまったのはその日、つまり『三河島事故』という惨烈な悲劇が引き起こされた当日の朝方でしたが、そこから1日を通して運航計画、運転状況が通常通り、潤滑とはいかずにトラブっていました。
実はその日本で起きた歴史的大惨事が発生したのは、その日の晩の事であり時刻は夜9時を過ぎていたのです。当然その時間帯は外は既に日が沈み辺り一帯は暗くなっていました。
更にその当時はまだ第二次世界大戦、終戦から間もないころであり区画整理、環境整備もほとんど進んでおらず、光源となる街灯などが完備されている状況ではなかったのです。
そのため惨烈なカタストロフィとなった『三河島事故』が起きたその瞬間、現場は外であったため辺りは想像以上に暗くて、避難する経路も逃げ場もなかったのです。
三河島事故②貨物列車の脱線、相次ぐ衝突
ヒトではなく物資、食材、材料などのモノを積んで運ぶ『貨物用』の列車がまず一番初めに『脱線』してしまった。理由は簡単に言えば操縦士、ドライバー、つまりヒトの不注意及びミスでありました。
緊急事態のための装置が起動して、ヒトを乗せる旅客列車が走る線路への侵入は避けれたが、急停止した反動によりその線路側に少し傾きズレてしまった。この時はまだ怪我人、負傷者は『0人』でした。
ですがこれが惨烈なカタストロフィとなる『三河島事故』の序章、始まりとなってしまいました。その直後にその傾きズレた『貨物列車』に下りの『旅客列車』が原付バイク程のスピードが衝突してしまいました。
この時は緊急事態のための装置が起動したため、幸いにも命を落とす事になった犠牲者は出ておらず、20名ほどの怪我人が出たくらいでした。
ですが激突してしまった衝撃により更にその下りの旅客列車が少し『脱線』してしまい、今度は上りの路線にまたいでしまったしまったのです。
そして最後に相当なスピードで走行していたのぼりの旅客列車がそこに激突して、『三河島事故』の運命を左右して、あまりに惨烈な悲劇にしてしまったのです。
三河島事故③死者数160人、負傷者数296人
惨烈なカタストロフィとなった『三河島事故』は操縦士、ドライバー、つまりヒトのミス、不注意によって物資、食料などのモノを運ぶ『貨物列車』が少し『脱線』して傾いてズレてしまったことが発端となりました。
さらにそこか更に他の旅客列車が衝突して、断線してしまい、連鎖するように最期の強烈なパワーを生んだ反対方向の路線を走る旅客列車がぶつかったことにより、膨大な規模の被害となってしまったのです。
では一体どのくらいの被害、犠牲者を生むことになってしまったのでしょうか?なんと『三河島事故』という大惨事により命を落とした人間は160人以上にものぼり、怪我人は300人近くにまで及んだのです。
2回目の『脱線』の段階ではまだ命を落とした人もおらず、怪我人も最終的な被害の1/10足らずの30名にも満たない状況だったはずです。
それなのにどうしてこれほどまでに被害の規模が大きくなってしまったのか?『最期の激突』は一体どれくらいの衝撃を生み、どんな状況だったのでしょうか?
またなぜ激突は防げなかったのか?色々な疑問が生まれてくるかと思いますが、その理由・原因については後述にて詳しく考察してご紹介していきます。
貨物列車の機関士や乗務員に有罪判決
昭和の大惨事、惨烈なカタストロフィとなってしまった『三河島事故』がどんなものであったか、おおよその内容、概要だけでは何がいけなかったのか?はっきりと断定することも原因も定かでないでしょう。
ですが当時は『三河島事故』という悲劇を引き起こしてしまった『元凶』は、初めに不注意、ミスを犯してしまった操縦士、ドライバー。そしてその貨物列車だと考えられました。
その元凶となってしまった貨物列車に乗車していた操縦士、ドライバーを始めとした『国鉄』のスタッフには罪があるとして、日本の法律による審判で罰せられることになりました。
また責任があるとされたのは元凶となってしまった、次の旅客列車たちの脱線、激突の状況を作ってしまった貨物列車のスタッフだけではありませんでした。
他の列車に緊急の状況を伝えて信号を出す役割のスタッフも同じように罰せられました。
当然膨大な規模の被害、命を落としてしまった100名を優に超える犠牲者のことを考慮すると量刑もそれなり者となると予想できます。
三河島事件の責任者たちの判決は?
ですが不注意が招き意図的ではない不慮の事故であったためか、罪があると判断され、罰を与えられた国鉄のスタッフは皆損害賠償などは発生せず、懲役1年未満の禁固刑となりました。
今回刑罰の対象となったのは、紛れもなく国営企業である当時の『国鉄』のスタッフでしたが、その国鉄ができた当初のトップが奇しくも電車に轢かれた状態で遺体となって見つかっているのです。
更に奇妙なことにそれが他殺なのか自殺なのか?もっと言えば轢かれた前に絶命していたのか?轢かれたことにより亡くなったのか?定かではないのです。そんな気になる下山事件に関する記事はこちらです。
三河島事故後、慰霊碑が建てられる
『三河島事故』は100名以上の罪なき乗客たちの命が失われて、文字通り大惨事、惨烈な悲劇となってしまいました。
その1年後の昭和38年には、もう二度と『三河島事故』の様な惨烈な悲劇が繰り返されぬよう、また一瞬の衝撃により人生と命を奪われた100を優に超える霊魂に向けて、慰めるようにと『慰霊碑』が建てられました。
それが建てられたのは東京都23区の荒川区荒川3丁目。そうそこは惨烈なカタストロフィが起きた舞台から目と鼻の先に位置する場所であります。
令和元年となった今年も存在しているので、皆さんも一度お参りに訪れて見てはいかがでしょうか?『心霊』などについては実際どうなのか?ということについては後程、心霊のコラムにて掘り下げて解説します。
不慮の事故、大惨事と化した惨烈な悲劇によって命を落とされた犠牲者の皆様、心よりお悔やみ申し上げます。またご冥福をお祈り申し上げます。
三河島事故の原因
では昭和の大惨事、大事件の一つの『三河島事故』という惨烈な悲劇が起きてしまったそもそもの理由、原因は一体何なのでしょうか?先ほども何度かヒトの不注意、ミスだということはお話ししています。
けれどもその不注意、ミスが具体的にどういったものであるかについてはまだ解説していません。こちらでその不注意、ミスがどういったものであったか深く掘り下げて分かり易く解説していきます。
これだけ膨大な規模の被害となったのは上記の理由だけではなく、他にも色々な原因や要素が重なってしまったからなのです。
つまり逆に言えばその原因、要素を回避することができれば『三河島事故』という惨烈な悲劇が起きずに済んだかもしれないのです。
その原因、要素のほとんどはその時の状況が関わってきています。その点についてもこちらでしっかりと考察してお話ししていきます。
最後には科学的、理論では証明できないようなスピリチュアルな観点の『心霊』による影響についても考察していきますので、ぜひ目を通してみてください。
三河島事故の原因①機関士が信号機を見落とした
前述したように『三河島事故』という惨烈なカタストロフィが起きてしまったのその日の朝方に、本州の最北端に位置する東北地方にて侮れないほどの『地震』が起きてしまいました。
その影響により舞台となった関東圏の鉄道の運行計画、運行状況が通常通りとはいかずトラブルが相次ぎ、全体的に『遅れ』が発生していました。
その遅れの影響により『三河島事故』の発端、元凶となったモノを運ぶ『貨物列車』もタイミングを合わせる必要が生じて、操縦士、ドライバーに一時的に停止するように指示しなくてならなかったのです。
そこで赤の信号機が線路上に設置されている信号機で停止を合図しましたが、それを判断することができず、つまりは不注意、ミスで止まらずに侵入してしまったことにより、急停止して『脱線』してしまいました。
というわけなのですが、なぜその時の操縦士、ドライバーは見誤ってしまったのでしょうか?飲酒していたわけでも体調を崩していたわけでもなかったのです。その原因はまさに『トリック』でした。
ファイ現象が原因?
信号機に表示された『停止』を意味する『画』を視覚が錯覚を起こしてしまったのです。その信号機には連続して画が表示されていました。
同様の状況下(止まっている画が連続する)で引き起こされる『ファイ現象』によって錯覚を起こしてしまい見誤ってしまったのです。
三河島事故の原因②事故後に線路を封鎖しなかった
今回の記事でクローズアップしている『三河島事故』という惨烈なカタストロフィは、次々と激突、脱線したことによって大規模な被害となってしまった。ということはもうよく理解していただいているはずです。
ではなぜ次々と激突、脱線してしまったのでしょうか?現在の日本の鉄道であればそのような事態は招かれないはずでし、そんな事態を招くなど絶対にありえないはずです。
『三河島事故』のまさに舞台となったその現場はプラットホーム、駅から300メートルほど離れた場所した。その時既に日が沈み、街灯、照明も満足に設置されていませんでした。
上記の様な要素が揃ったことにより『三河島事故』という惨烈なカタストロフィの始まり、元凶となった貨物列車が急停止して、旅客列車の線路側に少しズレて傾いた事。
そしてそこに原付バイクくらいのスピードで下りの旅客列車がぶつかってしまい、連鎖して脱線を起こした事。
その2つの小規模な惨事、トラブルに、他の列車を緊急停止させて路線を封鎖させるはずの司令塔である駅員が確認できなかったのです。つまり暗くて遠くて人間の裸眼で『事態』を捉えることはできなかったのです。
三河島事故の原因③ドアコックからの避難が裏目に
『三河島事故』という惨烈なカタストロフィを引き起こしたきっかけ、元凶となった貨物列車には物資、食料などのモノと操縦士、ドライバー、スタッフなどの国鉄の人間が数名しか乗っていませんでした。
それに対してそこに原付バイクほどのスピードでぶつかってしまったヒトを運ぶ『旅客列車』には、当然会社から帰宅する社会人、遊びに出かける一般人など多くの乗客が乗っていました。
この時点で軽い怪我をした人数が20名ほどとはいえ、予期せぬ事態。激しい衝撃。不慮の事故が起こっていることには違いありません。
またこの時は国鉄のスタッフによる非常時のアナウンスなどがなかったと考えられ、多くの乗客たちはそこから『安全』を求めて脱出しようと、非常用の扉から次々と降車していきました。
降車した後は約300メートル以上離れた駅、プラットホームを目指して歩きましたが、その行動が実はミステイクであり危険な行動だったのです。
何も知らない彼らは、間もなく迫ってくる凄まじいスピードとパワーをもった登りの車両に、次々と轢かれていき命を落としてしまい、まさに『阿鼻叫喚』な事態を招いてしまったのです。
三河島事故の原因④土浦事故の検証が充分でなかった
現在でもあまり深く語られていませんが、実は『三河島事故』という惨烈な一大事が起きる20年ほど前に、今回のケースと非常によく似た惨事が関東地方の茨城県に位置する『土浦』の線路で起きていたのです。
その際にきちんと現場検証をして何がいけなかったのか?今後二度と引き起こさないようにどう改善すべきなのか?など安全に向けての対策、整備がされていれば『二の舞』になることはなかったはずでしょう。
ではなぜその20年ほど前の同様の惨事での教訓が生かせなかったのか?もっといえば十分な検証、対策、改善処置がとられなかったのか?それには時代背景が大きく関わっていたのです。
第二次世界大戦真っ只中
20年ほど前というのがいつ頃なのか整理してみましょう。今回の記事でクローズアップしている『三河島事故』という惨烈なカタストロフィが起きてしまったのは、2019年(令和元年)現在から約60年ほど前。
昭和37年であり20年ほど前ということは昭和17年くらいになります。西暦に直すと1942年くらいになり、ある明白な事実に気づく人も少なくないでしょう。
そうこの頃は第二次世界大戦の真っ最中であり、『それどころ』じゃなかったのです。
本来であれば茨城県土浦で起きた同様の惨事も大々的にニュース等で取り上げられるほどの被害状況、規模でしたが、戦争により日本全土がそれ以上の規模、被害状況となっていたのです。
そのため大々的に報じられず、世間に明るみなるどころか、国や政府すらも問題視されなかったのです。ですからまともに現場検証などが行われず対策、改善、整備が十分にできなかったのです。
三河島事故前に心霊現象の噂があった?
『三河島事故』という惨烈なカタストロフィが起きてしまった、1日前に妙な心霊体験をした人物がいたという噂、都市伝説があるらしいのです。
その噂によればその人物は当時まだやんちゃな少年であり、友達と一緒に舞台からそう遠くない線路に侵入して遊んでいました。
現在ではそんな真似できませんが昭和初期であれば、まだ駅員の目が行き届かず、そうひった非行も許されたわけではないですが、子供特有の興味本位でそこをかいくぐって危険な場所で遊んでいたのでしょう。
何気なく遊んでいると、他の数名の人間が線路の上を徘徊するように歩いていたのです。そしてよく見るとその人間たちは酷い怪我を追っていて血を流していたのです。
驚くのもつかの間その人間たちと目が合うとパタリと蒸発するように消えてしまったようです。子供たちは口を揃えて幽霊であるといって騒ぎ立てました。
そしてその明くる日の晩、同じ場所で100名以上の人間の命が奪われてしまった『三河島事故』という惨烈な出来事が発生したのです。その心霊体験をした子供たちの噂が本当なのか嘘なのかは定かではありません。
三河島事故の犠牲者たち
先ほどは『三河島事故』という惨烈なカタストロフィがなぜ起きてしまったのか?もっといえばなぜそれほど膨大な規模の被害となってしまったのか?その『いきさつ』について掘り下げて考察していきました。
その時の時代背景が大きく関わっていたり、まだ電車、列車のシステム、設備が満足な状況ではなかった事。なぜ操縦士の人間がミスを犯してしまったか、また前日の心霊体験の噂などについて。
よく理解していただけたはずです。現在であればあれほどまで膨大な被害となることもなかったのです。それは『三河島事故』をはじめとした、惨事が教訓となり経験を生かして改善、対策されていったからです。
これまでの記事の中では100名以上を超える乗客、ヒトの命が奪われてしまった。ということしかお伝えしていませんが、その『犠牲者』たちに向けても焦点を当てて深く考えなくてなりません。
次に人為的によって引き起こされた惨烈な惨事によって、命を落としてしまうことになった100名以上の『犠牲者』についてお話しさせていただきます。
100名以上となれば、一般人ではない乗客、訳ありな乗客も存在していました。
三河島事故で未だ身元不明の遺体が存在する
先ほども解説しましたが、舞台となった線路の近くで前日に心霊体験した少年の噂など『三河島事故』は色々な都市伝説があり奇々怪々なイメージがあります。
勿論『心霊』の噂、都市伝説。それは非科学的な事象であり事実無根であるわけですが、実際に現実に非常に不可解な事象が起きていたのです。それはどういうことなのでしょうか・・・?
160名以上というあまりに多い『犠牲者』たち。そのほとんどの人の遺体、つまり亡骸の状況もそれほどまでには損壊もしていなく、身元が確認されました。
身元が確認されると当然ですが、家族、親族、知人などに皆引き取られる形になりましたが、唯一1人だけ『身元不明』で引き取られなかった人物がいたのです。
その亡骸となった人物の身元は、2019年令和元年となった現在でも判明しておらず、それゆえ引き取る家族や知人も現れていないのです。
これだけの事実だけでも『三河島事故』の非常に奇々怪々であると感じますが、その詳細を知るとより一層謎が深まるのです。その謎について下記にまとめてご紹介していきます。
遺体番号88の噂
その亡き人物、身元不明の犠牲者は上記の題のように『番号』で呼ばれていますが、それは一時的な識別のためであり、身元が分からない。引き取り人が現れていないがために現在でもそう呼ばざるを得ないのです。