大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件とは?小林正人・大倉淳・芳我匡由の現在

3人は反省したのか態度が変化していくも遺族には届かず

KELLEPICS / Pixabay

論告求刑の頃には三人の態度に変化が見られます。生きて償いたい、キリスト教に帰依したなどの発言がされるようになりました。

心からの改心が見て取れると感じた遺族もいたものの、こうした態度は減刑を目論んだ露骨なものにしか見えなかったと語る遺族もいました。

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の裁判

AJEL / Pixabay

1994年に事件が発生し、1995年に初公判が開かれましたが、2011年に最高裁第一小法廷にて判決公判が開かれました。

日本の国民感情としては死刑賛成に大きく傾いています。そのような状況下で判決が下されました。

2011年3月に小林正人・大倉淳・芳我匡由の判決で死刑確定

12019 / Pixabay

2011年3月10日、最高裁は控訴審での被告人三人全員に対する死刑判決を支持し、上告を棄却しました。

これにより、犯行当時少年だった小林正人・大倉淳・芳我匡由の死刑が確定しました。戦後の少年事件で複数の被告人に同時に死刑判決が下されるのは初となりました。

共犯者7人に下された判決

succo / Pixabay

共犯者の少女WとYは少年院への送致となりました。大阪事件のTとUも刑事裁判にかけられ、それぞれ懲役1年8月、4年以上8年以下の実刑判決が下っています。罪状は殺人、死体遺棄容疑となります。

ZとVについてもいずれも有罪となり、木曽川事件でのXは不定期刑の有罪が確定しました。殺人、逮捕監禁、強盗致傷ほう助などの罪に問われています。

7人の共犯者に有罪判決が下されましたが、死刑となったのは小林・大倉・芳我の三人のみとなります。

少年犯罪の厳罰化が進む

kalhh / Pixabay

最高裁では83年に、死刑適用には犯人の年齢も考慮すべきという考えをしめし、それを尊重した判決が下されてきました。しかし99年の光市母子殺人事件での判決は、18歳だった犯人に対する死刑判決でした。

光市母子殺人事件をきっかけに少年犯罪の厳罰化が進んだといえ、死刑判決にはこのような流れが影響した可能性があります。

以降少年法に関しては何度かの改正が進んでいます。

2014年には有期刑の上限が20年に引き上げられ、2016年には裁判員裁判が始まって以来初となる少年への死刑判決が下ったりしています。現在では、少年法適用年齢の引き下げも議論になっています。

この裁判員裁判が始まって以来初となる少年への死刑判決となった事件について知りたい方はこちらをご覧ください。

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件のその後

JerzyGorecki / Pixabay

死刑判決後、小林正人は名古屋拘置所から東京拘置所に移管され、大倉、芳我の両名は一貫して名古屋拘置所に収監されています。

弁護人による最高裁判決を不当とする集会が死刑判決後に開かれており、小林・大倉両名が名古屋高裁に再審を請求しています。

小林正人・大倉淳は再審請求をするも棄却

congerdesign / Pixabay

2011年、小林正人は新たな証拠として専門家に依頼した精神鑑定書を提出し、心神耗弱を理由に無罪を主張しています。

小林は、死刑判決が下された背景には少年事件の厳罰化の流れがあったと考えていました。被害者側にも非があると思っていましたが、遺族感情に配慮して黙っていたといいます。

大倉淳も2013年に遺体鑑定書を提出し、自らの暴行が死因になっていないことを主張しています。いずれも2013年に再審請求は棄却されています。

myrfa / Pixabay

再審請求は真実をもとに審理してほしいとの思いで要求したものでした。ですが、世間的にみて、あるいは被害者の遺族から見てこの行動はどう映ったでしょうか。

特に遺族には、死刑回避のための行動であり反省があったのだろうかと疑念を抱かせてしまった面がありました。

NEXT 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の死刑囚たちの現在