エドワード・モードレイクとは?後頭部に顔を持つ男
イギリスのフォークフロアに語り継がれる都市伝説に登場する創作上の人物と言われ続け、新聞や医学事典にも名を連ねています。しかも”それ”には19世紀の世の科学や医療では到底及ばないほどさらに恐ろしい身の毛もよだつ奇怪な特徴があったのです。嘘だ・あり得ないと疑ってかかる前にまずは事の顛末までお読みください。
後頭部の顔は意思を持っていたとの噂も
想像し難い出来事ですが日本の人面疽の様な症例の腫れ物などの病気とは異なり、奇妙な特徴があり意思をも持つと噂されます。さらに後天性のものとは言えず、先天性のものなので普通ならとても正気を保つのは不可能でしょう。次章からはさらに詳しくその恐ろしい生涯と意思を持つ顔の奇怪な特徴も解説していきます。
エドワード・モードレイクとはどんな人物?
19世紀にイギリスの最も高い公爵と言う爵位を持つ、さる貴族の嫡男子として生まれたエドワード・モードレイクは、爵位を引き継ぐ事無く若くして自らの命を絶ってしまいました。その原因と短くも儚い一生を辿ってみます。
19世紀のイギリスに存在していたエドワード・モードレイク
ナポレオンの興亡による19世紀初頭のフランス革命によりヨーロッパ全土に自由主義とナショナリズムが広まりました。その中でも特にイギリスは工業大国として急成長を遂げ経済力と軍事力で世界の覇権を握り階級社会が幅を効かせ、そのカーストの最も上位の高貴な恵まれた家柄にエドワードは誕生しました。
エドワード・モードレイクは端正な顔立ちの人気者だった
記述には容姿端麗・頭脳明晰かつ音楽的才能も兼ね備え、その魅力的な面相はさながら古代ギリシャの彫刻や胸像で現代の美術館などでも見る事ができる、ローマ皇帝ハドリアヌスに寵愛を受けた10代後半のアンティノウスのように美しく好感溢れる青年でありました。
貴族の末えいであり裕福で何不自由なく生活していた
貴族の爵位制度はイギリスに於いては世襲制なので、当主の爵位を第一子の男子のみが引き継ぐ事ができます。その爵位の中でも最も高い「公爵」の嫡男として、エドワード・モードレイクは”ある一点”を除き不自由なく裕福に暮らしました。彼の後頭部に浮かび上がった恐ろしい顔を除いては。
真相は現代では最早調べるすべもありませんが、記述によってはその奇怪なる様相のために人を寄せ付けず隠遁生活に入ったと記したものもありそちらの方が常識的に理にかなっています。そうすると上記の「容姿端麗な好青年」説とは矛盾が生じますが、どこまでが事実なのかさらに探ってみましょう。
エドワード・モードレイクの後頭部の顔は意識を持っていた?
貴族のカーストの頂点である公爵の嫡男子に誕生し、順風満帆の人生を送るはずの唯一の問題点とは言わずもがな呪わしき後頭部の顔です。まるで意識を持つようにエドワード・モードレイクの精神を執拗に追い詰めたとの噂です。
エドワード・モードレイクの後頭部の顔は性格が悪かった?
それはうら若い女性に見える説と見るに堪えない醜男の説の二つがあります。どちらに於いても一致する点はその性格の悪さであり、本人は決して見る事ができない所で醜い表情を表します。言葉を発する事は出来ず顔特有の表現で本人と周囲の人々を仲違いさせるように惑わします。
エドワード・モードレイク本人の感情と逆の顔をしてみせた
嘆き悲しむ感情を本人が表せばにやけ笑い、嬉べば悪魔の形相で怒りの感情を示し、本人とは真逆の表情をしてみせます。人によっては後頭部の顔こそが本心であり正面は嘘と疑い、他人との間に壁を作る策略かも知れません。それだけでも十分精神に異常をきたし狂ってしまいそうですが、さらに恐ろしい噂が広まります。
夜中に恐ろしい事を口走っていたとのウワサも
エドワード・モードレイクの後頭部の顔は食事を摂る事や声を発する事はありませんが、その目は絶え間なくあたりを見渡し口はまるで早口で喋るが如く動きます。しかも決して眠る事がなくエドワード・モードレイクが眠ろうとすると脳に直接恐ろしい事を執拗に、夜が明けるまで囁き続けるので何年も深く眠る事ができません。
人間は眠らないと死ぬ事はありませんが、精神的な疲労が解消できずに猜疑心や幻覚・幻聴などが現れて正常な思考能力が失われます。精神的な圧迫により危険な状態だった事は言うまでもありません。簡単に当人の幻覚による妄想とは片付けられず、追い詰められ不眠が続き精神が病みとうとう限界を迎えます。
エドワード・モードレイクの死因は?
最終的に精神的に追い詰められ疲弊したエドワード・モードレイクは己の置かれる恐ろしく呪わしい状況に耐えかねてとうとう猛毒を飲み死んでしまいました。もしも後頭部に自分の意思とは全く反対の表情を持ち、24時間真夜中も眠る事なく恐ろしい話を囁く顔があったとしたら耐えられるでしょうか。
23歳という若さで自殺したエドワード・モードレイク
自らの命を絶つ事のみで悪夢のような状況から逃れられるすべを持てなかったのは実に気の毒であり、逆に生まれてから死ぬまでの長い年月を良くぞ耐え抜いたと賞賛を贈りたいほどの精神力です。生前に書かれ残された遺書にはエドワードの最後の願いが綴られます。
後頭部の顔を切断するよう遺言があった
「死んだ後は悪魔の囁く声を聞く事が出来ないように、後頭部の顔を切り取って自分とは別の場所に葬ってくれ」と言うショッキングな内容が記してあり、実際にエドワード・モードレイクの遺言通り執り行われました。
後頭部の顔はズタズタにして別の場所へと埋められた
遺体から切り離された顔と呼べる部分は、細かく切り刻まれ遺体を埋葬した墓とは遠く離れた森の奥深くの土中へと埋葬しました。ついにエドワード・モードレイクが長きに渡り求めていた安眠を手に入れる事ができたのが自身の死後であったとは何と悲しい結末でしょうか。
エドワード・モードレイクの写真はある?
2019年の現代ではネットで検索するとたくさんのグロテスクな写真が数多くヒットするでしょう、それらすべてはその恐ろしい話を再現するために作成されたものです。現代とは違い全てを写真に収めたい欲求に駆られた人間がそう多くなかった1800年代だとしても、医学的見地からも病気と思しき記録写真は残しておくべきでしょう。
エドワード・モードレイクの写真は存在しない
大英帝国の19世紀に無かった訳ではありませんが最古の写真は1825年頃に撮影されており、肖像写真が貴族などに普及したのは1840年代に入ってからです。著名人では1848年撮影のエドガー・アラン・ポーの肖像写真が知られていますが、やはりエドワード・モードレイクは呪いや病気の自らを写真に残す事は望まないかと考えます。
エドワード・モードレイクを再現した写真や動画は存在する
現代ではネットで検索すれば容易に再現されたエドワード・モードレイクを閲覧する事が可能です。人々の口から口へ噂が広まり始めた当時には真意の問われるものばかりで、さらに人々の恐怖心と興味を引き存在の是非を曖昧にしていったのでしょう。
情報は多くても混乱を招きますが、少なくてもそれを真実と受け止め信じ込んでしまう危険な可能性も孕んでいます。エドワード・モードレイクは実在か、好事家の仕組んだフェイクなのか、後世の情報だけでは真実はまだ見えてきません。
エドワード・モードレイクは本当にいたのか?
悲運を背負ったエドワード・モードレイクのアイデンティティと言う原点に立ち戻ると、実に怪しく曖昧で無責任な記述のもとに成り立っている事を否定する事はできません。すべて嘘と言う説も無きにしもあらずです。
エドワード・モードレイクの話は嘘という説が有力
それこそエドワード・モードレイクが生きた19世紀のイギリスに於ける医療は、現代とは想像を絶するほど異なる奇妙なものでした。1849年のイギリスで起きた黒死病と呼ばれたコレラのパンデミックで5万2千人以上の死者を出した事からも分かるように”伝染病は空気感染する”と言う誤解釈の基にさまざまな恐ろしい医療行為が平然と行われた時代です。
公爵と言う高い爵位を持つ貴族のエドワード・モードレイクの短い人生23年間に、全く医者が関与していないとは考えられません。後頭部の顔を治療してくれと頼まれても主治医と思われるマンヴァーズ医師とトレッドウェル医師も稀有な症例にカルテなどを全く残さないのも疑惑のひとつとなり、さらにこの話の発端がそれを濃厚なものに裏付けます。
はじめに言及したのはフィクション作家だった
元々がエドワード・モードレイクの奇怪な姿を論じたのは1895年にアメリカの新聞「ボストンポスト」にチャールズ・ローティン・ヒルドレスと言うフィクション作家によって書かれた記事が発端です。
さらに疑わしき点は「ボストンポスト」と言う新聞や、ヒルドレスと言う名前の作家もエドワード・モードレイク関連以外での情報は著書や名前に至るまで記録が何一つ無く会社登録や登記すらしていない新聞社とは?ますます嘘偽りである線が濃くなってきました。
情報源となる「王立科学協会」も存在していたのかが謎であった
新聞に記載された異形の人たちの事例は「魚の尾がある女」「蜘蛛が胴体の男」「半身がカニの男」などの中にエドワード・モードレイクの症例も記載され、「王立科学協会」の古い報告書を参考にしたなどとヒルドレスは主張します。現代では子供でもフェイクと見破れる話ですが情報が極端に少なかった当時ではそれもやむ無しでしょう。
「王立化学会」は権威ある英国の学術機関ですが「王立科学協会」と言う機関そのものの存在も怪しく、新聞社がフェイクニュースを読者の好奇心を煽り購買意欲をそそる嘘を捏造させ書かせたのかもしれません。事実や真相よりも新聞の売り上げのためには手段を選ばないマスコミは現代でも同じ事ですね。