藤間紫とはどんな女性?現在は?
市川猿之助との略奪婚で有名な藤間紫(ふじま むらさき)ですが、若い頃の不倫スキャンダル後、死に至るまで名女優として活躍していました。また日本舞踊藤間流紫派家元でもあり、日本舞踊の名門です。 藤間紫とはどんな女性なのでしょうか。
藤間紫とは①プロフィール
1923年に東京で日本医科大学の学長の長女として産まれます。本名は喜熨斗(きのし)綾子です。父親の勧めもあり12歳の時に日本舞踏の師、六世藤間勘十郎に入門します。筋がよかったのか、天才と言われ21歳の若さで師匠から芸名をもらい名取名を藤間紫としました。
もともと弁護士が幼い頃の夢であったとありますが、日本舞踊の家元となり戦後も女優として活躍していきます。
藤間紫とは②日本舞踊家で女優でもあった
今の若い人は女優藤間紫を知っている人は少ないのではないでしょうか?藤間紫は舞踏家としての活動だけでなく、1949年に舞台に初出演を果たし同年映画「グッドバイ」にも出演、女優としての才能を開花させます。
藤間紫とは③藤間勘十郎との離婚後に市川猿之助と再婚している
名取をした21歳の時に舞踏家の師匠六世藤間勘十郎と年の差婚をします。その後子供を2人もうけますが、1960年ごろから年下の市川猿之助と不倫状態になり同棲を始めます。1985年に藤間勘十郎と正式に離婚が成立し、2000年には市川猿之助と再婚します。
元祖スキャンダル女優と呼ばれていた
藤間紫は若い頃から不倫や再婚など話題に事欠かないことから元祖スキャンダル女王と呼ばれていました。21歳で師匠と結婚し、ダブル不倫ののちに離婚の泥沼裁判騒動など話題に事欠かない女優でした。不倫意外にも日本舞踊の家元とのお家騒動も報道され、紫派藤間流を創流するなど日本舞踊のスキャンダルとしても有名になりました。
藤間紫とは④85歳で肝不全で亡くなっている
藤間紫は肝硬変による肝不全の為に、亡くなった父親が理事長を務めていた日本医科大付属病院で85歳の時に亡くなりました。なくなる数日前から意識が混濁していましたが、市川猿之助が声をかけると反応していましたが力尽きてしまいます。
亡くなった後も藤間紫の体をさすり続けていたという市川猿之助ですが、気丈に振る舞い、葬儀の手配をしたと言われています。
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藤間紫の経歴は?若い頃はどんな女性だったの?
藤間紫が若い頃の生い立ちや結婚、不倫したいきさつについて調べてみました。若いころから名家の娘として育てられ、美しく才能があった彼女ですが、不倫騒動や浜木綿子との確執もあり順風満帆の人生とはいいがたいものでした。