日生学園とは?スパルタ指導で有名な学校
日生学園という学校をご存知でしょうか?数人の芸能人が通っていた学校で、そのエピソードがあまりに前代未聞だったので、有名になりました。エピソードだけでも聞いたことのある人も多いかもしれません。
またいくつかの事件がきっかけとなり、世間を賑わすこともあった日生学園は現在どうなっているのでしょうか?さらに、それら全ての根源には、教育面においてのスパルタが潜んでいたことが明らかになっています。
昔だからまかり通ったことであって、現代では確実に淘汰されたであろう日生学園の話をまとめてみました。
日生学園は暴力事件・脱走などで社会問題になった
日生学園は、今は昔の話になりますが、数々の事件を起こした学校として有名です。その一つは暴力事件です。ただ、暴力事件は一件だけではなく、複数回発生しています。また、その他にも多種多様のトラブルが起こり、問題となりました。
その一つが脱走です。とにかく日生学園の周りは山だらけで、学園の生徒たちは頻繁に脱走をはかります。生徒たちはとにかくスパルタ指導をする学校から逃げ出すこと企てるのですが、ほとんどが無残な結果に終わっています。
このように日生学園では、一般的な学校では起こりえない事件が続き、問題視されてきました。これはのちに社会現象にまで発展し、当時の人々を驚愕させる一大ニュースとなりました。
日生学園の寮は刑務所?浜田雅功のエピソードで有名に
かつて日生学園という全寮制の高校がありました。DTの浜田雅功さんが卒業されたので有名です。
そこもトイレは素手で磨いて、他にも講堂の床を1、2時間かけて独特の掛け声を出してからぶきしてました。
日生学園の全貌が明るみに出た最大のきっかけは、浜田雅功さんです。浜田雅功さんは、テレビ番組で日生学園での事件を赤裸々に語っていました。上記は、浜田雅功さんが日生学園でのスパルタ指導について語った内容を明記したツイートです。なんと当時の日生学園の生徒は、便器を素手で洗っていたのでした。
浜田雅功さんがこのエピソードを話している最中も話し終わった後も、会場は大爆笑と驚愕の声でいっぱいでした。今では考えられないエピソードなので、会場に衝撃を与えたのでしょう。笑顔でエピソードを話している姿を見るからにとても辛そうには見えないのですが、在学していたころはきっと、死に物狂いで日生学園を生き抜いてきたことがエピソードの内容から伺えます。
日生学園はどんな学校?
それでは、ここまで世間の人を驚愕させた日生学園とは、いったいどのような学校なのでしょうか?日生学園では、スパルタ教育以外にも、他の学校では絶対に見ることのできない光景があったのです。今では想像もつかないほどの内容になっており、また現代でこの学校が存在したならば、まず100%の確率で問題になることでしょう。
場所や偏差値、校長がどういった人間だったのかをもとに、日生学園の耐えがたい真実について深堀っていきます。
日生学園は三重県津市にあった学校
日生学園は、三重県の県庁所在地となる津市にあります。先述した通り、周りは山に囲まれた自然のあふれた場所になります。普通の学校であれば素晴らしいことなのですが、日生学園の場合は例外です。
日生学園は、校則が厳しすぎることにより、逃げ出そうと考える生徒が後を絶ちません。しかし、自然が生徒たちの行く手を阻んて、生徒たちの脱走は毎回失敗するのです。
また、日生学園には分校が存在しています。中等部も合わせて4校ありますが、それらは兵庫県の姫路や三重県の伊賀に点在しています。どれもが現在は改名されていて、当時は第一第二と番号が付けられていました。現在高等部は3校存在します。
日生学園は女子生徒もいる共学・全寮制の学校
そして日生学園は、校則が厳しいにもかかわらず、女生徒も通う共学校でした。もちろん、男女で多少なりとも扱いが変わるのでしょうが、スパルタであることには変わりません。
そして、女子の数は男子と比べるとものすごく少ないです。これは当然と言えば当然なのですが、物好きな女子もいたのです。そして男女の中にはいくつかのルールが存在し、順守されていました。そのルールとは、男女の接触を一切禁じられていたのです。そして、この校則を破った生徒は、退学の可能性もありました。そのため、生徒たちは従順に校則を守っていました。厳しすぎます。
日生学園の偏差値は39!問題のある生徒も受け入れる
日生学園の偏差値は39です。偏差値39ということは、平均より下のレベルの高校ということを指しています。最低限の学力があれば入ることができるということで、ずば抜けた学力が必要だったということはありませんでした。
そして、偏差値さえあれば、問題児の入学も受け入れていました。これは不良などの親が手に負えないことと更生を願っての転校が多く、一種の駆け込み寺として扱われていたからです。
日生学園の当時の学長「青田強」は絶大な支持を受けていた
次は、こんな日生学園を切り盛りしていた校長の話になります。彼は青田強という名前で、現在はすでに亡くなっています。日生学園の地盤を作ったのは彼だとされており、偉大な人物とされています。
青田強は、スパルタを生み出した人物そのものですが、彼の周りには彼を支持する人がたくさんいました。「青田強の過激な根性論ともいえる教育概念によって、我が子が生まれ変わる…」そんな願いを抱いた生徒の保護者が、青田強を盲信していたのです。
青田強は、保護者にとって厳しいだけではなく、まっとうな道へと導く存在にもなっていたのです。ちなみに彼は亡くなってからも日生学園にとっては大きな存在だったので、学校のグラウンドに彼の銅像が作られています。
日星学園の教育方針は「一流の人間を育てる」
そして、青田強はある理念のもとで動くことになります。もちろん学校なので教育方針ですが、それは「一流の人間に育てる」というものです。青田強のスパルタは、その教育方針を守るためのものだったのです。教育方針に込められたものは厳しさだけではありませんが、在学中の生徒本人には厳しさ以外の面は目に入らなかったでしょう。
そのため、当然教師の苦労などに目が行くはずもないのです。しかし、これは至極当たり前のことであり、誰も責めることはできません。
日生学園は厳しすぎる教育で問題になった
そんな刑務所を彷彿させる学校がいつまでも何事もなく存続するわけはありませんでした。あまりに厳しい教育方針は、たちまち世間で問題になります。校内では怯えて何かを訴える生徒はいませんでしたが、それはあくまで表面上の話。彼らの胸中には思うところはもちろんありましたが、体罰を恐れて、気持ちを吐き出すことができなかっただけなのです。
異様な厳しさは、校内以外の人間にはあまりに驚愕の光景で、周囲の人も黙って見過ごす訳にはいかなくなりました。一体どのような内容で日生学園の教育が問題視されたのでしょうか?
日生学園の日本一のスパルタ指導内容とは?
日生学園のスパルタとは、一体どれほどのものだったのでしょう?
いくらスパルタといってもさすがに限度がありますが、事件や問題になるほどです。現代を生きている我々には想像もできないものとなっているでしょう。
ここからは、日生学園のスパルタ指導をまとめたので、引き続きご覧ください。
日生学園のスパルタ内容①刑務所とよばれた寮生活スケジュール
刑務所と呼ばれるほどの日生学園で実施されていた、スケジュールを見ていきます。まず水曜日と日曜日以外の週5日間は、早朝4時に起きるところから始まります。起床後の点呼から一日が始まります。そして放課後には、6キロにも及ぶマラソンが待っているのです。授業があるのはもちろんのこと、全体で行動するときには私語は厳禁とされています。
そして、着替えなどの時間が与えられるのですが、分刻みできっちりと管理されているのです。
さらに、お菓子やテレビ、雑誌などの報道関連の娯楽さえも与えられることはありません。いじめが唯一の娯楽との噂もあり、ここまで見ると刑務所と揶揄されるのも納得です。
日生学園のスパルタ内容②返事などは声が枯れる程の大声で
点呼や授業中、マラソンや校歌などいかなる時も返事をするシーンでは、とにかく大声で返事をしないといけないということです。返事に対する教諭からの審査は、24時間常に監視のもと行われていました。そのため、生徒たちはわずか3日間で喉がやられ、声が枯れていたといわれています。
声の小さかった生徒には、大きな声が出るまで返事を強要されます。それでもできない生徒に対しては体罰が当たり前でした。体罰は殴る蹴るの世界で、生易しいものではありません。
日生学園のスパルタ内容③40度の熱が出ても病院には行かせない
続いては、病欠に関するスパルタです。現代では、生徒が体調不良を訴えれば早退させるのが一般常識です。もし体調不良の生徒を居残らせたら、現代なら親が黙ってはいません。しかし、日生学園では体調不良の生徒にも帰宅を許しませんでした。なんと熱が40度だろうが、生徒が体調不良で病院に行くのはまずありえないのです。それどころか、休ませることはなく、いつも通りの生活や授業はもちろん、スケジュール通りに動かなければならないのです。
一応、治療方法として薬による投薬は施されるのですが、逆に言えばそれだけなのです。それも市販薬による投薬で、まともな診断は行っていません。
日生学園のスパルタ内容④修学旅行などの娯楽行事もなし
学生生活の最大の楽しみといえば、修学旅行ですよね。どんなに勉強が嫌いな生徒でも、修学旅行はみんな楽しみにしているものです。
しかし、日生学園には修学旅行が存在しません。それだけではなく、文化祭や体育祭などの娯楽行事すらも存在しないのです。日生学園は、生徒たちの心の解放を一切許さない、閉鎖的な空間でした。
日生学園のスパルタ内容⑤男女交際も一切禁止
先述の通り、日生学園では、男女の接触が一切禁止とされています。こちらに関しても、24時間常に教諭によって監視されているため、接触できるはずもないのです。
共学のため、女子寮もありました。意外にも男子寮から一本の廊下で各寮が繋がっていて、たった数分で行き来することができます。しかし、廊下には教師が見張りとして立っているため、男女が寮を行き来することは、まずできません。交際が発覚すれば、退学は当然という恐ろしい規則が存在したのです。
日生学園のスパルタ内容⑥変わっている、理不尽な校風が多い
日生学園では、校則を破った生徒に対して、厳しい体罰が与えられます。現代の我々からすると、日生学園の校則は意味が分からないものばかりですが、当時の日生学園の教師や生徒にとって、校則は絶対的なものだったのです。日生学園では、具体的に以下のような校則が存在しました。
- 10曲以上ある校歌を3日間で覚えなければいけない
- 男子には五厘刈りが強要される
- 傘など雨具の使用は禁止
また、先述の通り、日生学園にはトイレを素手で掃除するという校則もありました。理不尽極まりない校則ですが、当時の日生学園の生徒たちはこれを従順に守っていたのです。
日生学園のスパルタ内容⑦先輩の言うことは絶対!
日生学園では、上級者の命令は絶対守るように指示されていました。どこの学校でもよくある話ですが、日生学園はレベルが違います。日生学園では、下級生が常に先輩の顔を立てて、生活しなければならないのです。日生学園で取り決められていた上下関係は、以下の通りです。
- 下級生が先に食事をしてはいけない
- 洗濯は全て下級生が行う
- 下級生と上級生は常に寮で共同生活
まるで上級生が、下級生を家政婦のように扱っています。そして、下級生にプライバシーという概念はないのです。
日生学園のスパルタ内容⑧ 教師や先輩からの暴力は当たり前!
日生学園といえば、やはり暴力事件が有名でしょう。日生学園で行われていた暴力を以下に具体的にまとめました。
- パイプ椅子で殴られる
- 一日中正座させられる
- ホチキスの針を置いて刺さるように殴る
これらの暴力は、生徒同士ではなく、教師から生徒に行われることもありました。現代で発生したら、間違いなく警察に通報されるような暴力事件です。
日生学園のスパルタ内容⑨帰省できる回数が少ない
全寮制の日生学園では、実家に帰省することも制限されていました。帰省できる回数も極端に少なく、学校以外の場所は下界と呼ばれていました。さらに、生徒が帰省する日の行動も管理されていました。男子は帰省の前に必ず髪の毛を全て刈らなければならないうえに、帰省は長期休暇の時だけです。
長期間中の時間は全て自分の時間となり、課題などは一切ないため、生徒にとっては唯一の休暇の時間だったのです。
日生学園のスパルタ内容⑩ 精神修行が厳しすぎる
日生学園の教育方針は、根底に精神論がありますが、その精神論は過度な根性論といえるものでした。この根性論を実現させるために、日生学園では厳しい修業が行われていたのです。そして、日生学園の修業は「心行」と呼ばれていました。ある種のカルト宗教のような考え方ですが、当時の日生学園にとって生徒を律するために非長な教えだったのでしょう。
日生学園の修業は我々の想像をはるかに超えていることは間違いないので、軽々しく「分かる」などとは日生学園の在校生及び卒業生に失礼となるので、とても言えたものではないです。
日生学園のスパルタ内容⑪外部情報を得られるのは髪を刈る日のみ
先述しましたが、日生学園では新聞やテレビといった報道の類が禁止されていたため、外部からの情報が生徒たちの耳に入ることは絶対にありません。しかし生徒たちが髪を切る日や刈る日だけは、唯一生徒たちが雑誌を読める日なのです。
生徒たちの散髪は、必ず校内で行われます。つまり、床屋等に行くことは絶対に許されないのです。
日生学園の現在は?
今まで紹介してきた日生が県のエピソードは、40~50年前の話です。それでは、現在の学園はいったいどうなっているのでしょうか?