未だ残る負の遺産京都崇仁地区!影ある過去から光ある未来へ!

日本人観光客はもとより、今や世界中から注目される観光地となった京都。そんな誰もが知る華やかな顔とは裏腹に、知る人ぞ知る別の顔が京都にはあります。そこは京都駅からほど近い場所にある崇仁地区です。今回は、崇仁地区の歴史や治安、未来への変化の兆しなどをご紹介します。

この記事をかいた人

釣りクアンプを愛するアウトドア系の男です。仕事はパソコンに向かう時間ばかり・・・だから取材を兼ねた週末は「楽しいことを探してワクワク」しています。
Array

崇仁地区とは?

崇仁地区(すうじんちく)とは京都から徒歩5分ほどにある一部の地域を指します。この崇仁地区は関西の「部落問題」では必ず取り上げられる特別な地区です。ここには明治維新まで続いた身分階級による暗い影の歴史があります。この影は今なお消えることなく平成の御代にも影を伸ばしています。

多くの観光客で賑わう京都

sasint / Pixabay

世界規模で知名度が上がり観光の名所となった京都。世界中から多くの観光客が押し寄せています。そちらが光の京都だとすれば、京都駅の東側から鴨川までの地域は影の京都と言えるかもしれません。長い間タブー視され触れることが許されなかった地域です。

京都駅の近くにこんな場所が!

崇仁地区の闇の部分とは部落差別です。江戸時代よりはるか昔、10世紀の頃には賎民を「人ならざる者」として差別して居住させた地域が鴨川の地にありました。1000年を超す差別の歴史が脈々と受け継がれ現在の崇仁地区を作り上げたのです。昭和の京都駅の東側は一般の人は先ず立ち入り事が出来ないブラックゾーンでした。

京都の都市伝説に興味がある人はこちらをどうぞ。

崇仁地区の歴史について触れておこう

崇仁地区は被差別部落として強い差別の対象となってきた地域です。1863年の文久という元号の時代の地図には、現在の崇仁地区に「ヱタ村」という記載を見ることが出来ます。長い時間差別され続けた崇仁地区の歴史と部落差別について解説します。

そもそも被差別部落とは?

江戸時代には士農工商という4階級の身分制度がありました。士農工商に入らない人には天皇を始めとした皇族や公家といった特権階級の他に、身分の低い人たちもいました。それが 穢多非人(えたひにん)と呼ばれる賎民です。こういった賎民だけが暮らしていた地域が、身分制度廃止後も部落といった形で残っています。

えたひにんの苗字の詳しい内容は、えたひにん苗字一覧とは?現在どんな苗字が多い?多い地域も紹介!の記事をご確認ください。

崇仁地区には古くからの日本の身分制度の名残がある

士農工商の身分の外に弾かれた得た穢多(えた)の職業は、動物の狩猟やその皮を加工する仕事でした。非人(ひにん)の仕事はとにかく人がやりたがらない仕事全般です。これらの仕事についている賎民には「穢れ」があり、その穢れが伝染するといわれていました。その為に山奥や沼地の近くに賎民だけが住む地区がありました。

かつては多くの人々が住みついていたが現在は?

崇仁地区にはかつて多くの人が住んでいました。現在では高齢化や人口減少によって崇仁地区で埋めれ育ったという人は少なくなっています。新たに引っ越してくることの少ない崇仁地区は、ほかの地区と比べ高齢化が進んでいます。この地に残る負のエネルギーは徐々に消えようとしています。

在日朝鮮問題と部落問題

部落問題を複雑化した背景には朝鮮合併による朝鮮半島の日本化の歴史と、日本に渡来した在日朝鮮人や在日韓国人が大きく絡んでいます。日本国内だけの問題だった部落という問題が、民族差別やヘイトスピーチといった問題へと発展させてしまったのです。

在日朝鮮人ってどういう人たち?

日本に住む在日の韓国人を在日韓国人と呼び、北朝鮮の人を在日朝鮮人と呼びます。単に在日と称する場合もあります。2018年の統計では約48万人の朝鮮、韓国国籍の外国人が日本で生活をしています。1910年に日本と韓国が合併した日韓併合。これにより朝鮮半島は日本となり、朝鮮半島に住む人は日本人となりました。

朝鮮半島から日本にやってきた人達

日韓合併の時代には,季節労働者や留学生として多くの朝鮮人が日本にやってきました。当時の日本は西洋の列強と伍して戦う一等国です。賃金の格差や遥かに良い労働条件から多くの朝鮮人が日本にやってきました。それが現在の徴用工という問題に発展しています。現在の韓国が主張するような徴用工が存在した客観的な証拠はありません。

終戦後の北朝鮮の弾圧から日本に亡命した人々

大東亜戦争が終結すると朝鮮半島は北朝鮮人民共和国と大韓民国に分かれました。北朝鮮では酷い弾圧や虐殺が横行し多くの人民が亡命し日本へも流入しました。こうして日本の中に在日朝鮮人だけが住む地域が作られました。これらの中でも特に貧しい場所を特殊部落と呼びました。崇仁地区にもハングル文字が目につきます。

北朝鮮、共産党、左翼が入り混じったカオスに

在日朝鮮人の人たちが所属する団体が朝鮮総連です。戦後の政治思想の中で、北朝鮮、共産党、左翼といった赤い思想に取りつかれた人々によって「人権」がおもちゃにされ在日朝鮮問題は政治の道具に利用されます。共産主義の思想で世界中で数千万人の死者が出た時代です。日本でも拉致がありました。そこにヤクザも絡み付けられない問題に。

身分制度が無くなったのはいつ?

江戸時代まで続いた身分制度は、明治維新によってなくなりました。賎民という身分を廃止し平民に組み入れたのです。しかし社会では旧賎民と同じ階級になることを嫌がり「新平民」という呼称で彼らを差別します。

部落と呼んだのは行政が最初だった

行政が福祉の対象として「被差別部落民(略して部落民)」と呼称したのが部落という名称のはじまりです。行政は特別な保護の必要がある人々の福祉のために使った言葉でしたが、結果として差別を助長する言葉として定着してしまいました。

被差別部落は全国に何か所ある?

総務所の発表によると、1993年(平成5年)の時点における部落地区の数は全国で4,533地区です。各県あたり100以上の部落が存在していたことになります。4,533地区が部落なのでそこに住む人数を掛け合わせると、部落に住む人、部落出身者の人数は数百万人以上に上ると推計できます。

在日朝鮮人が多く住み着いた

朝鮮合併により朝鮮半島は日本の一部でした。大東亜戦争が終了したのちも日本に残った在日朝鮮人の多くの人が差別を受け、一部で固まって生活をしました。これらの朝鮮人が部落と深いつながりを持つことになります。1920年以降の崇仁地区の人口増加は在日朝鮮人だったといわれています。

崇仁地区に残る歴史の数々

崇仁地区には明治以降部落差別と闘ってきた歴史があります。部落出身者は一般の人とは結婚できなかった、履歴書に住所を書いたら面接さえしてもらえなかった、そんな話はよく聞かれました。つい最近まで酷い差別があったのです。その差別は現在もあるのかもしれません。

他の歴史の悲しい話ついて興味がある人はこちら。

崇仁地区出身者が建てた柳原銀行

柳原銀行は日本で唯一の被差別部落の住民によって設立された銀行です。融資を受けにくかったは被差別部落出身者や、被差別部落で営業していた皮製品加工業者を救い独自で経済発展をするためです。金融恐慌によって昭和2年に倒産しましたが、当時の建物が記念館として現存しています。

柳原銀行資料館は誰でも入ることが出来る

柳原銀行資料館は歴史を感じる木造のオシャレな建物です。銀行が破綻したのちは、賃貸に出されていましたが記念館として改築保存されています。誰でも入場することが可能で入館料は」無料です。ぜひ足を運んでみてください。

・所在地:〒600-8206 京都市下京区下之町6-3
・電話/FAX:075-371-0295
・開館時間:午前10時~午後4時30分
・閉館日:月曜日,火曜日,祝・休日,年末年始(12月29日~1月3日)
・入館料:無 料

地域住民に受け継げれる神社

崇仁地区には神社もあり地域住民の信仰を集めています。大きな神社ではありませんが、この地に多くの人が住み生活を営んできたのが伺える小さな鳥居の神社です。崇仁地区全体が衰退するのと呼応するようにこの神社も役目を終えていくのでしょうか。

老朽化が進む市営住宅

NEXT 老朽化が進む市営住宅